『美味しい』が聴きたくて

横浜の港に、初夏の爽やかな風が吹き抜ける。キッチンカーの営業を終えた豊と幸雄のもとに、一人の女性が現れた。

長いブロンドの髪を無造作にまとめ、鋭い知性を感じさせる瞳。アンナ・ベルティーニ。フィレンツェの「ラ・ステラ」で、豊が唯一その感性を認め、切磋琢磨した戦友であり、かつて淡い感情を共有した女性料理人だった。

「ひさしぶりね、ユタカ。……それに、あなたが噂の『炎の料理人』幸雄?」

アンナは流暢な日本語で、幸雄を品定めするように見つめた。
「……ああ。豊から聞いてるぜ。イタリアで一番生意気なシェフだってな」
幸雄が不敵に笑うと、アンナもまた不敵に微笑み返した。

彼女が日本を訪れた理由は、単なる再会ではなかった。アンナは今、欧州の巨大資本が主導する世界規模のレストランプロジェクト「プロジェクト・オリジン」の総責任者を務めていた。

「ユタカ、幸雄。あなたたちに提案があるわ。ロンドン、ニューヨーク、そしてパリ。世界主要都市に展開する『Y & Y』のフラッグシップ店を作らない? 資金も、最高のスタッフも、すべてこちらで用意する」

アンナが差し出したタブレットには、息を呑むような近未来的な厨房と、洗練されたレストランのパース図が映し出されていた。
「横浜の小さな店もいいけれど、あなたたちの『越境』は、もっと広い世界で証明されるべきよ」

その夜、二人は焼け跡の残る新店舗の屋上で、静かに夜景を見つめていた。
アンナの提案は、料理人としてこれ以上ない名誉だ。世界中の美食家を相手に、自分たちの「美味しい」をぶつける。それは、十年前の二人には想像もできなかった、あまりにも巨大な夢だった。

「……豊、どう思う」
幸雄が、珍しく迷いのある声で問いかけた。

「……正直に言えば、心が躍っているよ。僕たちが香港で、パリで、フィレンツェで見てきた景色。それを一つの究極の形にできるチャンスなんだから」
豊の声は落ち着いていたが、その指先は微かに震えていた。

「でもさ、豊。……そうなったら、俺たちはもう、ここで500円のパスタを作ったり、シュンみたいな奴に飯を食わせたりできなくなるんじゃねえか?」

幸雄の言葉に、豊はハッとした。
世界進出。それは、自分たちの味が「ブランド」として管理され、記号化されることを意味する。かつてジャン=ピエールが言った「再現性の芸術」に、自分たちも足を踏み入れることになるのではないか。

「……アンナはね、僕たちの『野性』を欲しがっているんだ。でも、野性は檻の中では生きていけない」
豊は、幸雄の隣に腰を下ろした。

「俺はさ、豊。お前と並んで鍋を振って、目の前で客が『うめえ!』って笑う。……あの瞬間の熱が、俺の人生のすべてなんだ。ロンドンだろうがニューヨークだろうが、お前が隣にいない厨房なら、俺は行かねえよ」

幸雄の真っ直ぐな言葉が、豊の迷いを断ち切った。
翌日、二人はアンナをキッチンカーに招いた。
供されたのは、アンナがかつてフィレンツェで豊に教えたレシピを、幸雄の鉄鍋でアレンジした『思い出のボロネーゼ・炒飯仕立て』。

一口食べたアンナは、呆れたように肩をすくめた。
「……バカね。こんなに泥臭くて、洗練されていない。……でも、悔しいくらいに、胸が熱くなる味だわ」

「アンナ、誘ってくれてありがとう。でも、僕たちの『原点(オリジン)』は、この横浜の、潮風の香る場所にあるんだ」

豊が静かに断ると、アンナは少し寂しげに、けれど満足そうに笑った。
「……分かっていたわ。ユタカを動かせるのは、いつだってこの乱暴な火だけだってこともね」

アンナは去り際、一通の封筒を置いていった。
「これは融資じゃない。私の個人的な『投資』よ。いつか、世界中から客がこの横浜に押し寄せるような、最高に狂った店を作りなさい」

過去からの風は、二人を揺さぶるのではなく、より深く、この地に根を張らせる力となった。
再建完了まで、あと一ヶ月。
二人の物語は、いよいよ「完成」へと向かって、最後のピースを埋め始める。