『美味しい』が聴きたくて

再建工事が進む『Y & Y』の敷地を、黒塗りの車が取り囲んでいた。
「湊さん、幸雄さん。話は聞こえているでしょう? この一帯は大規模な再開発エリアに指定されました。火災の跡地をこれ以上放置するのは、街の美観を損ねます。妥当な価格で権利を譲渡していただきたい」

高級スーツに身を包んだ男が、冷徹な笑みを浮かべて書類を突きつける。その背後にいたのは、かつて幸雄が「大龍楼」で対立した古参の利権団体だった。彼らは火災を好機と捉え、横浜の「新しい顔」を作るという名目で、二人の聖域を奪おうとしていた。

「ふざけんな! ここは俺たちが血の滲む思いで守ってきた場所だ。金で転がせると思うなよ!」
幸雄が鉄鍋を握りしめ、一歩前に出る。
だが、男は動じない。「市民の多くは、古臭い個人店よりも、最新のショッピングモールを望んでいますよ。あなたたちの味なんて、すぐに忘れられる」

その言葉が、豊の心に深く突き刺さった。
(……忘れられる? 僕たちがこれまで積み上げてきた「美味しい」の記憶が、ただの建物に負けるというのか)

豊は、キッチンカーの前に集まっていた常連客や、手伝いに来ているシュンの顔を見渡した。
「……分かりました。それなら、街の人たちに決めてもらいましょう」

「ほう、どうやって?」

「来週末、この広場で『食の感謝祭』を開きます。僕たちの料理と、あなたたちが誘致しようとしているチェーン店の料理。どちらがこの街に必要か、住民の皆さんの投票で決めさせてもらう。もし僕たちが負けたら、潔くこの土地を去ります」

幸雄が驚いて豊を見る。「おい、豊! 正気かよ!」
「……正気だよ、幸雄。僕たちの料理は、ただ腹を満たすためじゃない。街の『記憶』を作るためにあるんだって、証明したいんだ」

対決の日は、すぐにやってきた。
相手は巨大資本をバックに、最高級の食材を惜しみなく投入した豪華なケータリングを用意した。対する『Y & Y Street』が用意したのは、あの日灰の中から救い出した鉄鍋で作る、一皿の『復興の黄金炒飯と、薫り高きジェノベーゼ・リゾット』だった。

「さあ、食ってくれ! これが俺たちの、横浜への愛だ!」
幸雄が猛烈な勢いで鍋を振る。黄金色に輝く米粒が舞い、香ばしい香りが広場中に広がる。
豊は、地元・神奈川の農家から届いたばかりのバジルを使い、目の前でソースを仕上げていく。

長蛇の列ができた。
そこには、着飾った富裕層もいれば、仕事帰りの会社員、近所の子供たち、そしてかつて絶望の淵にいたシュンの姿もあった。

「……やっぱり、この味だ。この味が、僕を救ってくれたんだ」
シュンが涙を流しながら食べる姿を見て、周囲の人々も次々とスプーンを動かした。

結果は、圧倒的だった。
投票箱には、二人の再建を願うメッセージが書かれた投票用紙が溢れかえっていた。
「モールなんていらない。この二人の笑顔が見られる場所を、残してほしい」

再開発の男は、苦々しい表情で撤退を余儀なくされた。
「……チッ。たかが料理に、これほどの力があるとはな」

夕暮れ時、幸雄と豊は、まだ骨組みだけの店の前で並んで座った。
「……豊、お前、本当にかっこよかったぜ。あの時、賭けに出なかったら、俺、あいつを殴り飛ばして終わってたかもしれない」

「……ふふ。幸雄が横で火を焚いてくれていたから、僕は強くなれたんだよ」

豊は、幸雄の大きな手のひらに、自分の手を重ねた。
鉄の匂いと、ハーブの残り香。
二人の十年の約束は、もうとっくに「一生の誓い」へと変わっていた。

だが、物語はまだ終わらない。
再建まであと三ヶ月。そんな二人のもとに、海外から一通のエアメールが届く。
それは、かつて豊がフィレンツェで出会った「ある女性」からの、予期せぬ知らせだった。