『美味しい』が聴きたくて

香港の夜景を背に、勝利の余韻に浸る暇さえなかった。羽田空港に降り立った豊と幸雄を待っていたのは、夜の闇に浮かび上がる、変わり果てた自分たちの城の姿だった。

「……嘘だろ」

幸雄の声が、震える。
元町の運河沿い、誇りを持って掲げられていた『Y & Y』の看板は黒く焦げ、かつて温かな光を放っていた窓はすべて割れていた。消防車が去った後の現場には、鼻を突く焦げ臭い匂いと、消火活動による水浸しの冷たい静寂だけが漂っていた。

原因は、隣接する古物商からの不審火だった。二人に非はなかったが、店内の内装は全焼。豊が選び抜いたイタリア製の家具も、幸雄が大切に手入れしていた中華街の伝統的な装飾も、すべてが灰になっていた。

翌朝、二人は規制線の内側に入り、瓦礫の中を歩いた。
「……豊、ごめん。俺が、最後にもう少しだけ厨房を確認していれば」
幸雄は膝をつき、真っ黒になった床を見つめた。自責の念が、彼の逞しい背中を丸くさせる。

豊は無言で、かつての自分のポジション――パスタを茹でていた場所へと向かった。そこには、熱で歪んだパスタマシンと、粉々になった皿の破片が散らばっている。
「……幸雄。責めるのはやめよう。僕たちは、生きている。腕も、舌も、まだここにある」
豊の声は穏やかだったが、その瞳からは一筋の涙が溢れ、灰の上に落ちて小さな黒い染みを作った。

その時、厨房の奥、最も火の勢いが激しかったはずの場所で、幸雄が何かを見つけた。
「……あ」
彼は夢中で瓦礫を退かし、熱を帯びた煤の中から、重厚な「塊」を掘り起こした。

それは、高校時代に幸雄が初めて父から譲り受け、フィレンツェの豊にもエールとして送り、これまで数え切れないほどの修羅場を共にしてきた、あの「鉄鍋」だった。

柄の部分は焼け落ち、表面は真っ白に焼けてガサガサになっている。だが、その本体である鉄の魂は、歪むことなくそこに存在していた。

「……生きてる。こいつ、まだ生きてるぞ、豊!」
幸雄は煤で顔を汚しながら、鉄鍋を強く抱きしめた。
「こいつが残ってるなら、俺はまだ鍋を振れる。お前に最高の炒飯を作ってやれるんだ」

豊はその様子を見て、ふっと微笑んだ。
そして自分もまた、焼けた戸棚の影から、奇跡的に割れずに残っていた「一客のワイングラス」を見つけ出した。それは、店をオープンした日に幸雄が豊に贈った、ベネチアン・グラスだった。

「僕も、これがある。……幸雄、店は形を失ったけれど、僕たちの心はまだ焼けていない」

二人は灰の中に立ち、お互いの手を取り合った。
店を再建するには膨大な資金と時間が必要だ。保険だけでは到底足りない。けれど、香港で手に入れた「幻の醤」の記憶と、この残された鉄鍋があれば、どこだって厨房になれる。

その日の午後。
二人のもとに、意外な人物たちが集まってきた。
「大龍楼」の店主、豊の父・龍一、そして、香港で戦ったジャン=ピエールまでもが。

「ユタカ、ユキオ。君たちの料理に敗れた僕が、君たちがここで終わるのを許すと思うかい?」
ジャンは、少し照れくさそうに、しかし傲慢な口調を崩さずに言った。
「僕の財団から、再建のための資金を無利子で融資する。ただし条件だ。……再オープンした際、最初の客は僕にさせろ。そして、最高のフルコースで僕をもう一度黙らせてみせろ」

幸雄は目を見開き、ジャンの手を力強く握った。
「……ジャン。お前、嫌な奴だと思ってたけど、最高の食通だな!」

豊もまた、父・龍一から重厚な包丁ケースを手渡された。
「湊の血を引く者が、火事で夢を諦めるとは思わん。……行け、豊。お前たちの本当の『越境』は、ここからだ」

灰の中から立ち上がる。
二人のシーズン3。それは、完成された城を失った二人が、再び「野性」を取り戻し、街の人々と共に新しい食卓を作り上げていく、再生の物語へと加速していく。