冷え切った厨房に、たった一人の足音が響く。
豊は、まだ日の昇らない時間から調理台の前に立っていた。幸雄がいない厨房は、驚くほど広く、そして静かだった。
「……一人でやる。今の僕に必要なのは、幸雄の熱に頼らない、僕自身の『芯』だ」
豊が手に取ったのは、最高級のイタリア産小麦ではなく、あえて日本各地から取り寄せた数種類の「地粉」だった。
これまでの『Y & Y』のパスタは、幸雄の中華スープや強い火力を受け止めるために、コシの強い、主張の激しい生地を選んでいた。それは二人の「共鳴」の結果だったが、マルコの言う通り、どこか幸雄の個性に甘えていた部分もあったのかもしれない。
豊は、粉と水、そして一握りの塩だけで生地を練り始めた。
何度も、何度も。
手のひらから伝わる感覚だけに集中する。
(もっと、繊細に……。幸雄の炎がなくても、それ単体で客を黙らせるほどの静かな強さを)
一方、幸雄は横浜中華街の片隅にある、実家の「幸龍(こうりゅう)」のカウンターに座っていた。
代替わりして、今はかつての常連たちが細々と通う店。そこで幸雄は、父が作る何の変哲もない「五目炒飯」を口に運んでいた。
「……なあ、親父。味、落ちたんじゃねえか?」
幸雄がぶっきらぼうに言うと、父は笑いながら鍋を洗った。
「当たり前だろ。俺はお前みたいに、世界を相手に戦ってるわけじゃねえ。……でもな、幸雄。お前の炒飯、最近は『自分』を食わせようとしすぎてねえか?」
父の言葉に、幸雄はレンゲを止めた。
「自分を食わせる……?」
「豊君と一緒に店を始めてから、お前はあいつの繊細さに負けねえようにって、火を強く、味を濃くして、自分の居場所を必死に守ってるように見える。……二人の料理じゃなく、二人の『競争』を食わされてる気分だ」
幸雄は絶句した。
豊に甘えていたのではない。豊という才能に恐怖し、自分の存在を証明するために、無意識に料理を「武装」させていたのだ。
その夜、『Y & Y』の厨房に戻った幸雄は、まだ明かりのついた店内で、一人パスタ生地を前に力尽きて眠っている豊の姿を見つけた。
作業台の上には、無数の試作の跡。
そのどれもが、これまでの二人の味とは違う、削ぎ落とされた「潔さ」を持っていた。
幸雄は、豊の肩にそっと自分の上着をかけた。
豊の手は、粉と格闘したせいで真っ赤に腫れている。
「……悪かったな、豊。俺、お前の隣にいるのが怖かっただけなんだ」
幸雄は、豊が試作で作ったパスタの切れ端を、生のまま口に含んだ。
そこには、幸雄の火を必要としない、凛とした「湊 豊」という料理人の覚悟が宿っていた。
翌朝。
目を覚ました豊の前に、一杯のスープが置かれていた。
それは、幸雄がこれまでの濃厚な鶏ガラではなく、野菜の切れ端と水だけで一晩かけて抽出した、透き通るような「清湯(チンタン)」だった。
「幸雄……これ……」
「豊。俺、もう一度一からやり直すわ。お前のパスタの邪魔をしない、お前を支える火じゃなく……お前と『調和』するための、新しい火を見つける」
二人は、まだ腫れた目でお互いを見つめ、小さく笑った。
かつて屋上で誓ったあの日。二人はただ、お互いの料理に驚きたかっただけだった。
成功という鎧を脱ぎ捨てた二人の前に、新しい「越境」の扉が開こうとしていた。
だが、時間は待ってくれない。
香港での選考会まで、あと三週間。
二人は、自分たちの代表作であるすべてのメニューを「白紙」に戻す決断を下した。
豊は、まだ日の昇らない時間から調理台の前に立っていた。幸雄がいない厨房は、驚くほど広く、そして静かだった。
「……一人でやる。今の僕に必要なのは、幸雄の熱に頼らない、僕自身の『芯』だ」
豊が手に取ったのは、最高級のイタリア産小麦ではなく、あえて日本各地から取り寄せた数種類の「地粉」だった。
これまでの『Y & Y』のパスタは、幸雄の中華スープや強い火力を受け止めるために、コシの強い、主張の激しい生地を選んでいた。それは二人の「共鳴」の結果だったが、マルコの言う通り、どこか幸雄の個性に甘えていた部分もあったのかもしれない。
豊は、粉と水、そして一握りの塩だけで生地を練り始めた。
何度も、何度も。
手のひらから伝わる感覚だけに集中する。
(もっと、繊細に……。幸雄の炎がなくても、それ単体で客を黙らせるほどの静かな強さを)
一方、幸雄は横浜中華街の片隅にある、実家の「幸龍(こうりゅう)」のカウンターに座っていた。
代替わりして、今はかつての常連たちが細々と通う店。そこで幸雄は、父が作る何の変哲もない「五目炒飯」を口に運んでいた。
「……なあ、親父。味、落ちたんじゃねえか?」
幸雄がぶっきらぼうに言うと、父は笑いながら鍋を洗った。
「当たり前だろ。俺はお前みたいに、世界を相手に戦ってるわけじゃねえ。……でもな、幸雄。お前の炒飯、最近は『自分』を食わせようとしすぎてねえか?」
父の言葉に、幸雄はレンゲを止めた。
「自分を食わせる……?」
「豊君と一緒に店を始めてから、お前はあいつの繊細さに負けねえようにって、火を強く、味を濃くして、自分の居場所を必死に守ってるように見える。……二人の料理じゃなく、二人の『競争』を食わされてる気分だ」
幸雄は絶句した。
豊に甘えていたのではない。豊という才能に恐怖し、自分の存在を証明するために、無意識に料理を「武装」させていたのだ。
その夜、『Y & Y』の厨房に戻った幸雄は、まだ明かりのついた店内で、一人パスタ生地を前に力尽きて眠っている豊の姿を見つけた。
作業台の上には、無数の試作の跡。
そのどれもが、これまでの二人の味とは違う、削ぎ落とされた「潔さ」を持っていた。
幸雄は、豊の肩にそっと自分の上着をかけた。
豊の手は、粉と格闘したせいで真っ赤に腫れている。
「……悪かったな、豊。俺、お前の隣にいるのが怖かっただけなんだ」
幸雄は、豊が試作で作ったパスタの切れ端を、生のまま口に含んだ。
そこには、幸雄の火を必要としない、凛とした「湊 豊」という料理人の覚悟が宿っていた。
翌朝。
目を覚ました豊の前に、一杯のスープが置かれていた。
それは、幸雄がこれまでの濃厚な鶏ガラではなく、野菜の切れ端と水だけで一晩かけて抽出した、透き通るような「清湯(チンタン)」だった。
「幸雄……これ……」
「豊。俺、もう一度一からやり直すわ。お前のパスタの邪魔をしない、お前を支える火じゃなく……お前と『調和』するための、新しい火を見つける」
二人は、まだ腫れた目でお互いを見つめ、小さく笑った。
かつて屋上で誓ったあの日。二人はただ、お互いの料理に驚きたかっただけだった。
成功という鎧を脱ぎ捨てた二人の前に、新しい「越境」の扉が開こうとしていた。
だが、時間は待ってくれない。
香港での選考会まで、あと三週間。
二人は、自分たちの代表作であるすべてのメニューを「白紙」に戻す決断を下した。



