横浜・元町の運河沿い。二人の城である『Y & Y』は、今や予約の取れない名店としてその名を轟かせていた。
湊 豊(みなと ゆたか)は、厨房の司令塔として、完璧なタイミングでパスタを茹で上げ、繊細な盛り付けを施していく。隣では幸雄(ゆきお)が、凄まじい熱気の中で鉄鍋を操り、独創的な中華のエッセンスを皿に盛り込んでいた。二人の呼吸はもはや超常的なレベルで一致し、客席からは毎晩のように感嘆の声が上がっていた。
しかし、豊の心には、微かな違和感が芽生えていた。
「……幸雄、今日のメインのソース、ほんの少しだけ塩気が強くないかい?」
営業終了後、賄いの皿を前に、豊が静かに口を開いた。
幸雄は自分の作ったソースをペロリと舐め、不思議そうに首を傾げた。
「そうか? いつも通り、完璧な分量だぜ。お前の体調が悪いんじゃないか?」
「僕の体調は悪くない。……ただ、最近の僕たちの料理、どこか『予定調和』になっていないかな」
豊の言葉に、厨房の空気が一瞬で凍りついた。
かつて、お互いの料理に驚き、刺激を受け、ぶつかり合いながら新しい味を生み出していたあの頃の「飢え」が、今の安定した成功の中で、少しずつ薄れているのではないか。豊はそれを恐れていた。
そんな折、店に一人の男が訪れる。
かつて豊がフィレンツェで師事した、あの「ラ・ステラ」の元オーナーシェフ、マルコだった。
「ユタカ、ユキオ。久しぶりだ。……今の二人の活躍は、イタリアまで届いているよ」
再会を喜ぶ二人。しかし、マルコが二人のフルコースを食べ終えた後、その表情は険しいものに変わった。
「確かに美味い。完璧だ。だが……今のこの皿には、あの頃お前たちが持っていた『相手を叩きのめしてでも、新しい世界を見せてやる』という傲慢なまでの情熱が足りない。今の二人は、お互いの才能に甘えすぎている」
マルコの言葉は、幸雄のプライドを逆撫でした。
「甘えてる……? 俺たちがどれだけ苦労してこの味を完成させたか、あんたに何がわかるんだ!」
「幸雄、やめて」
豊が幸雄を制止するが、その豊の瞳もまた、揺れていた。
マルコは席を立ち、最後の一言を残して店を去った。
「一ヶ月後、香港で『アジア・ベスト・レストラン』の選考会がある。私は審査員として参加する。もし、今のままで来るつもりなら、二人の看板はそこで終わるだろう」
残された二人は、広い厨房の中で、背中合わせのまま立ち尽くした。
完璧だと思っていた自分たちの料理。けれど、その完璧さが、二人を閉じ込める檻になっていたのかもしれない。
「……幸雄。僕、少し一人で考えたいんだ。明日の仕込み、一人でやらせてもらえないかな」
「……ああ。好きにしろよ」
幸雄は鉄鍋を荒々しく置き、着替えることもせずに店を飛び出していった。
二人が同じ屋根の下で店を持ってから、初めて訪れた決定的な亀裂。
窓の外では、季節外れの嵐が運河の水を激しく波立たせていた。
二人の「美味しい」を巡る旅は、再び、激動の海へと漕ぎ出そうとしていた。
湊 豊(みなと ゆたか)は、厨房の司令塔として、完璧なタイミングでパスタを茹で上げ、繊細な盛り付けを施していく。隣では幸雄(ゆきお)が、凄まじい熱気の中で鉄鍋を操り、独創的な中華のエッセンスを皿に盛り込んでいた。二人の呼吸はもはや超常的なレベルで一致し、客席からは毎晩のように感嘆の声が上がっていた。
しかし、豊の心には、微かな違和感が芽生えていた。
「……幸雄、今日のメインのソース、ほんの少しだけ塩気が強くないかい?」
営業終了後、賄いの皿を前に、豊が静かに口を開いた。
幸雄は自分の作ったソースをペロリと舐め、不思議そうに首を傾げた。
「そうか? いつも通り、完璧な分量だぜ。お前の体調が悪いんじゃないか?」
「僕の体調は悪くない。……ただ、最近の僕たちの料理、どこか『予定調和』になっていないかな」
豊の言葉に、厨房の空気が一瞬で凍りついた。
かつて、お互いの料理に驚き、刺激を受け、ぶつかり合いながら新しい味を生み出していたあの頃の「飢え」が、今の安定した成功の中で、少しずつ薄れているのではないか。豊はそれを恐れていた。
そんな折、店に一人の男が訪れる。
かつて豊がフィレンツェで師事した、あの「ラ・ステラ」の元オーナーシェフ、マルコだった。
「ユタカ、ユキオ。久しぶりだ。……今の二人の活躍は、イタリアまで届いているよ」
再会を喜ぶ二人。しかし、マルコが二人のフルコースを食べ終えた後、その表情は険しいものに変わった。
「確かに美味い。完璧だ。だが……今のこの皿には、あの頃お前たちが持っていた『相手を叩きのめしてでも、新しい世界を見せてやる』という傲慢なまでの情熱が足りない。今の二人は、お互いの才能に甘えすぎている」
マルコの言葉は、幸雄のプライドを逆撫でした。
「甘えてる……? 俺たちがどれだけ苦労してこの味を完成させたか、あんたに何がわかるんだ!」
「幸雄、やめて」
豊が幸雄を制止するが、その豊の瞳もまた、揺れていた。
マルコは席を立ち、最後の一言を残して店を去った。
「一ヶ月後、香港で『アジア・ベスト・レストラン』の選考会がある。私は審査員として参加する。もし、今のままで来るつもりなら、二人の看板はそこで終わるだろう」
残された二人は、広い厨房の中で、背中合わせのまま立ち尽くした。
完璧だと思っていた自分たちの料理。けれど、その完璧さが、二人を閉じ込める檻になっていたのかもしれない。
「……幸雄。僕、少し一人で考えたいんだ。明日の仕込み、一人でやらせてもらえないかな」
「……ああ。好きにしろよ」
幸雄は鉄鍋を荒々しく置き、着替えることもせずに店を飛び出していった。
二人が同じ屋根の下で店を持ってから、初めて訪れた決定的な亀裂。
窓の外では、季節外れの嵐が運河の水を激しく波立たせていた。
二人の「美味しい」を巡る旅は、再び、激動の海へと漕ぎ出そうとしていた。



