『美味しい』が聴きたくて

終礼のチャイムが鳴ると同時に、幸雄は教科書を鞄に押し込み、廊下を駆けた。豊の教室の前に着くと、ちょうど鞄を肩にかけた彼が静かに出てきたところだった。

「豊、行こうぜ!」

「あはは、幸雄、相変わらず気が早いね」

豊は少し困ったように笑ったが、その瞳は期待に揺れている。二人は並んで駅前へと向かった。幸雄はガッシリとした体格で、歩くたびに制服の裾が大きく揺れる。一方、豊はすらりと背が高く、その立ち姿はどこか凛としている。

目的の場所は、新しくオープンした輸入食材店。自動ドアが開いた瞬間、焙煎されたコーヒーの香りと、世界中の調味料が混ざり合った独特の匂いが二人を包み込んだ。

「見てくれよ豊、この豆板醤。三年熟成だってさ。色が全然違うだろ?」

幸雄は陳列棚の前でしゃがみ込み、ガラス瓶を光に透かして熱心に観察している。プロの料理人である父親の背中を見て育った彼は、食材を選ぶ時の目つきだけは、いつもの少年っぽさが消え、鋭い職人のそれになる。

「本当だ、深い琥珀色をしてる。これなら、幸雄が作る麻婆豆腐にさらに奥行きが出そうだね。……僕は、これを探してたんだ」

豊が手に取ったのは、小さな遮光瓶に入ったエキストラバージンオリーブオイルだった。トスカーナ産の、若草のような香りが特徴の一品だ。

「それ、高いだろ?」

「お小遣い、三ヶ月分。でも、今度作るアクアパッツァには、どうしてもこの香りが欲しくて」

二人はカゴの中に、お互いのための「最高のスパイス」を入れ、レジへと向かった。店を出る頃には、日はすっかり傾き、商店街の街灯がオレンジ色に灯り始めている。

「なあ、豊」

重い買い物袋を左手に持ち替えた幸雄が、ふと足を止めた。

「どうして、僕にお弁当の交換を提案してくれたの? 幸雄なら、もっと友達も多いし、賑やかに食べたほうが楽しいんじゃない?」

豊の問いに、幸雄は少しだけ眉を下げて笑った。

「賑やかなのは嫌いじゃないけどさ。……俺の料理を、あんなに大切に食べてくれる奴、初めてだったんだ。ただ腹を満たすためじゃなくて、中身をちゃんと見てくれる。それが、たまらなく嬉しかったんだよ」

幸雄の言葉は、飾りがなくて真っ直ぐだ。豊は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

「僕もだよ。幸雄に『美味しい』って言われると、もっと美味しいものを作りたいって、魔法にかかったみたいな気持ちになるんだ」

二人の視線がぶつかり、どちらからともなく笑みがこぼれる。帰り道の公園の横を通ると、沈みゆく夕日が二人の影を長く、一つに重ねるように伸ばしていた。

幸雄の手が、不意に豊の買い物袋の持ち手に触れた。

「半分、持つよ。指、大事にしろよ。料理人の命だろ?」

「ありがとう、幸雄。……じゃあ、明日の朝は、今日買ったオイルでフォカッチャを焼いていくね」

約束は、明日への活力になる。
家業を継ぐという重圧や、将来への漠然とした不安。そんな高校生らしい悩みも、この瞬間だけは、香ばしい食材の匂いのなかに溶けて消えていくようだった。