コンクールを翌日に控えた夜、横浜は春の嵐に見舞われていた。叩きつけるような雨が、中華街の路地裏を銀色に染めている。
幸雄(ゆきお)の店「幸龍(こうりゅう)」のシャッターは下ろされていたが、その奥からは微かな光と、包丁がまな板を叩く規則正しい音が漏れていた。
「……やっぱり、お前の切り方は、昔よりずっと無駄がないな」
幸雄が、寸胴鍋のスープを味見しながら呟いた。
その視線の先では、豊(ゆたか)が白いコックコートの袖を捲り、驚くべき速さで玉ねぎを刻んでいる。パリの三つ星で鍛え上げられたその動作は、もはや一つの舞踏のようだった。
「幸雄こそ。そのスープの香り、以前の『幸龍』とは全然違う。鶏だけじゃない、もっと深い……大地の匂いがする」
豊が顔を上げ、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
二人は、明日の本番で戦う敵同士だ。本来ならば、手の内を見せ合うような真似はしない。しかし、どちらからともなく「久しぶりに、一緒に立ってみるか」という話になった。
狭い厨房。肩が触れ合うほどの距離。
十年前、屋上のベンチで隣り合ってお弁当を食べていた頃の感覚が、鮮明に蘇る。
「なあ、豊。俺さ……お前がいなくなってから、一時期、火が怖くなったことがあるんだ」
幸雄が、鉄鍋を火にかけながら不意に漏らした。
「お前がイタリアで繊細な技術を磨いているのに、俺はただ汗をかいて鍋を振るだけでいいのかって。俺の料理は、ただ『熱い』だけで、美しさがねえんじゃねえかってさ」
豊は手を止め、静かに幸雄の横顔を見つめた。
「……僕も同じだよ、幸雄。パリで、現地のシェフたちに囲まれて、自分の料理がただの『真似事』に見えて絶望した。そんな時、いつも思い出したのは、お前が真っ赤な顔をして鍋を煽る、あの力強い背中だった」
豊は一歩、幸雄に歩み寄った。
「君の火は、人を孤独にさせない。お前の炒飯の温かさが、僕をパリの寒い夜から救ってくれたんだ」
幸雄は照れくさそうに鼻をすすり、熱せられた鉄鍋に少量の油を引いた。
「……じゃあ、確かめてみるか。俺たちの『今』を」
「ああ。……合わせよう」
阿吽の呼吸だった。
幸雄が強火で一気に海鮮を炒め、素材の水分を飛ばしながら旨味を凝縮させる。その瞬間に、豊が白ワインとエシャロットで煮詰めた特製の「ソース・ヴァン・ブラン」を投入した。
ジュワッ!!
爆発的な蒸気と共に、厨房に異次元の香りが立ち込めた。
中華の「炎」が、フレンチの「酸とコク」を瞬時に抱きしめる。
幸雄が鍋を振る。豊が皿を温め、繊細な手つきで春のハーブを散らす。
完成したのは、メニューに名前のない一皿。
「海鮮のソテー、東洋の炎と西洋の香りのマリアージュ」。
二人は、出来上がった料理を一つの皿から、一対の箸とフォークで同時に口に運んだ。
「……美味い」
「……ああ、最高だ」
二人の目が合った。
そこには、再会の喜びだけでなく、明日、この最高の相棒を「打ち負かさなければならない」という料理人としての峻厳な覚悟があった。
「豊。明日は、これ以上のものを出すぞ。俺とお前、どっちの『美味しい』が上か、白黒つけようぜ」
「望むところだよ。僕の人生のすべてを、明日のひと皿に込める」
幸雄は、豊の右手を強く握りしめた。
豊はその力を、左手で包み返した。
外の嵐は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から覗く月光が、磨き上げられた厨房のステンレスを冷ややかに、しかし力強く照らしている。
二人の十年の約束、そのクライマックス。
運命のコンクールまで、あと十二時間。
幸雄(ゆきお)の店「幸龍(こうりゅう)」のシャッターは下ろされていたが、その奥からは微かな光と、包丁がまな板を叩く規則正しい音が漏れていた。
「……やっぱり、お前の切り方は、昔よりずっと無駄がないな」
幸雄が、寸胴鍋のスープを味見しながら呟いた。
その視線の先では、豊(ゆたか)が白いコックコートの袖を捲り、驚くべき速さで玉ねぎを刻んでいる。パリの三つ星で鍛え上げられたその動作は、もはや一つの舞踏のようだった。
「幸雄こそ。そのスープの香り、以前の『幸龍』とは全然違う。鶏だけじゃない、もっと深い……大地の匂いがする」
豊が顔を上げ、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
二人は、明日の本番で戦う敵同士だ。本来ならば、手の内を見せ合うような真似はしない。しかし、どちらからともなく「久しぶりに、一緒に立ってみるか」という話になった。
狭い厨房。肩が触れ合うほどの距離。
十年前、屋上のベンチで隣り合ってお弁当を食べていた頃の感覚が、鮮明に蘇る。
「なあ、豊。俺さ……お前がいなくなってから、一時期、火が怖くなったことがあるんだ」
幸雄が、鉄鍋を火にかけながら不意に漏らした。
「お前がイタリアで繊細な技術を磨いているのに、俺はただ汗をかいて鍋を振るだけでいいのかって。俺の料理は、ただ『熱い』だけで、美しさがねえんじゃねえかってさ」
豊は手を止め、静かに幸雄の横顔を見つめた。
「……僕も同じだよ、幸雄。パリで、現地のシェフたちに囲まれて、自分の料理がただの『真似事』に見えて絶望した。そんな時、いつも思い出したのは、お前が真っ赤な顔をして鍋を煽る、あの力強い背中だった」
豊は一歩、幸雄に歩み寄った。
「君の火は、人を孤独にさせない。お前の炒飯の温かさが、僕をパリの寒い夜から救ってくれたんだ」
幸雄は照れくさそうに鼻をすすり、熱せられた鉄鍋に少量の油を引いた。
「……じゃあ、確かめてみるか。俺たちの『今』を」
「ああ。……合わせよう」
阿吽の呼吸だった。
幸雄が強火で一気に海鮮を炒め、素材の水分を飛ばしながら旨味を凝縮させる。その瞬間に、豊が白ワインとエシャロットで煮詰めた特製の「ソース・ヴァン・ブラン」を投入した。
ジュワッ!!
爆発的な蒸気と共に、厨房に異次元の香りが立ち込めた。
中華の「炎」が、フレンチの「酸とコク」を瞬時に抱きしめる。
幸雄が鍋を振る。豊が皿を温め、繊細な手つきで春のハーブを散らす。
完成したのは、メニューに名前のない一皿。
「海鮮のソテー、東洋の炎と西洋の香りのマリアージュ」。
二人は、出来上がった料理を一つの皿から、一対の箸とフォークで同時に口に運んだ。
「……美味い」
「……ああ、最高だ」
二人の目が合った。
そこには、再会の喜びだけでなく、明日、この最高の相棒を「打ち負かさなければならない」という料理人としての峻厳な覚悟があった。
「豊。明日は、これ以上のものを出すぞ。俺とお前、どっちの『美味しい』が上か、白黒つけようぜ」
「望むところだよ。僕の人生のすべてを、明日のひと皿に込める」
幸雄は、豊の右手を強く握りしめた。
豊はその力を、左手で包み返した。
外の嵐は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から覗く月光が、磨き上げられた厨房のステンレスを冷ややかに、しかし力強く照らしている。
二人の十年の約束、そのクライマックス。
運命のコンクールまで、あと十二時間。



