フィレンツェからパリへ拠点を移して三年。二十代後半となった豊は、モンパルナスにある三つ星レストラン「ル・シエル」で、外国人としては異例の部門シェフ(シェフ・ド・パルティ)を任されていた。
かつての繊細な少年の面影は、厳しい階級社会の中で削ぎ落とされ、今では冷徹なまでに正確な差配を行う、凛とした青年へと成長していた。
「ユタカ、このソースの乳化がコンマ数秒遅い。やり直せ」
豊はかつて自分が浴びせられた怒号を、今は後輩たちへ静かに、しかし重く投げかけていた。
彼が追求しているのは、イタリアンの「奔放さ」と、フレンチの「緻密さ」、そして幸雄から学んだ「火のダイナミズム」の融合だ。
一方、横浜。
幸雄は、中華街の路地裏に念願だった自分の店「幸龍(こうりゅう)」を構えていた。
父の店から名前を一文字譲り受けたその店は、看板メニューの「香草麻婆豆腐」を求めて連日長蛇の列ができる、知る人ぞ知る名店となっていた。
「親父、今日もいい火が入ってるぜ」
幸雄は、以前よりも一回り逞しくなった背中で、巨大な鉄鍋を軽々と操る。彼の腕には、幾多の戦場を潜り抜けた証である火傷の跡が、誇らしげに刻まれていた。
二人の約束、十年。
その期限まで残り一年を切ったある日のことだ。
豊のもとに、日本から一通の航空便が届く。差出人は「湊 龍一」。豊の父であり、日本料理界の重鎮だ。
中には、一枚の招待状が入っていた。
『日本料理連盟 主催:新時代料理人コンクール。テーマは「越境」。招待選手として、お前と、そして横浜の「幸龍」の主を指名した』
豊の指が、微かに震えた。
父はすべてを知っていたのだ。息子が異国で何を学び、誰を想い、どんな「美味しい」を追い求めてきたのかを。そして、その道の隣に常にいた、一人の男の存在も。
「……幸雄と、戦えというのか」
豊は窓の外、エッフェル塔が夕陽に溶けていくパリの街を見つめた。
あの日、屋上でお弁当を交換し合っていた二人が、今度は日本の最高峰の舞台で、刃(包丁)を交えることになる。
その頃、横浜の幸雄もまた、同じ招待状を握りしめていた。
「……へっ、面白えじゃねえか」
幸雄は不敵に笑ったが、その目には熱いものが込み上げていた。
この数年、お互いのSNSやメールで近況は知っていた。しかし、互いの「今の味」は知らない。お互いがどれほど遠くへ行き、どれほど深い孤独を越えてきたのか。それを確かめるには、言葉はいらない。
一週間後。
羽田空港の到着ゲート。
長旅の疲れも見せず、洗練されたロングコートを纏って現れた豊の前に、一人の男が立ちはだかった。
色褪せたMA-1を羽織り、少し短く刈り込んだ髪。かつてよりも鋭く、けれど温かい眼差し。
「……遅かったな、豊」
幸雄の声は、十年前よりも低く、心地よく響いた。
豊は足を止め、しばし言葉を失った。目の前にいるのは、紛れもなく自分の人生を狂わせ、そして救ってくれた、世界で一番のライバルだ。
「……待たせてごめん、幸雄。ずいぶん、いい匂いのする男になったね」
豊が微笑むと、幸雄は堪えきれずに豊の肩を強く抱き寄せた。
再会の喜び。しかし、二人の間には、すでに料理人としての火花が散っていた。
「明日のコンクール、手加減はしねえぞ。俺の炒飯は、もうお前のパスタの引き立て役じゃねえ」
「望むところだよ。僕のフルコースの最後に、君が平伏す姿が見える」
二人は、再会の抱擁を解くと、真っ直ぐに視線をぶつけ合った。
それは、友情でも、単なる恋心でもない。
同じ「美味しい」という頂を目指す、二人の孤独な王者の宣戦布告だった。
かつての繊細な少年の面影は、厳しい階級社会の中で削ぎ落とされ、今では冷徹なまでに正確な差配を行う、凛とした青年へと成長していた。
「ユタカ、このソースの乳化がコンマ数秒遅い。やり直せ」
豊はかつて自分が浴びせられた怒号を、今は後輩たちへ静かに、しかし重く投げかけていた。
彼が追求しているのは、イタリアンの「奔放さ」と、フレンチの「緻密さ」、そして幸雄から学んだ「火のダイナミズム」の融合だ。
一方、横浜。
幸雄は、中華街の路地裏に念願だった自分の店「幸龍(こうりゅう)」を構えていた。
父の店から名前を一文字譲り受けたその店は、看板メニューの「香草麻婆豆腐」を求めて連日長蛇の列ができる、知る人ぞ知る名店となっていた。
「親父、今日もいい火が入ってるぜ」
幸雄は、以前よりも一回り逞しくなった背中で、巨大な鉄鍋を軽々と操る。彼の腕には、幾多の戦場を潜り抜けた証である火傷の跡が、誇らしげに刻まれていた。
二人の約束、十年。
その期限まで残り一年を切ったある日のことだ。
豊のもとに、日本から一通の航空便が届く。差出人は「湊 龍一」。豊の父であり、日本料理界の重鎮だ。
中には、一枚の招待状が入っていた。
『日本料理連盟 主催:新時代料理人コンクール。テーマは「越境」。招待選手として、お前と、そして横浜の「幸龍」の主を指名した』
豊の指が、微かに震えた。
父はすべてを知っていたのだ。息子が異国で何を学び、誰を想い、どんな「美味しい」を追い求めてきたのかを。そして、その道の隣に常にいた、一人の男の存在も。
「……幸雄と、戦えというのか」
豊は窓の外、エッフェル塔が夕陽に溶けていくパリの街を見つめた。
あの日、屋上でお弁当を交換し合っていた二人が、今度は日本の最高峰の舞台で、刃(包丁)を交えることになる。
その頃、横浜の幸雄もまた、同じ招待状を握りしめていた。
「……へっ、面白えじゃねえか」
幸雄は不敵に笑ったが、その目には熱いものが込み上げていた。
この数年、お互いのSNSやメールで近況は知っていた。しかし、互いの「今の味」は知らない。お互いがどれほど遠くへ行き、どれほど深い孤独を越えてきたのか。それを確かめるには、言葉はいらない。
一週間後。
羽田空港の到着ゲート。
長旅の疲れも見せず、洗練されたロングコートを纏って現れた豊の前に、一人の男が立ちはだかった。
色褪せたMA-1を羽織り、少し短く刈り込んだ髪。かつてよりも鋭く、けれど温かい眼差し。
「……遅かったな、豊」
幸雄の声は、十年前よりも低く、心地よく響いた。
豊は足を止め、しばし言葉を失った。目の前にいるのは、紛れもなく自分の人生を狂わせ、そして救ってくれた、世界で一番のライバルだ。
「……待たせてごめん、幸雄。ずいぶん、いい匂いのする男になったね」
豊が微笑むと、幸雄は堪えきれずに豊の肩を強く抱き寄せた。
再会の喜び。しかし、二人の間には、すでに料理人としての火花が散っていた。
「明日のコンクール、手加減はしねえぞ。俺の炒飯は、もうお前のパスタの引き立て役じゃねえ」
「望むところだよ。僕のフルコースの最後に、君が平伏す姿が見える」
二人は、再会の抱擁を解くと、真っ直ぐに視線をぶつけ合った。
それは、友情でも、単なる恋心でもない。
同じ「美味しい」という頂を目指す、二人の孤独な王者の宣戦布告だった。



