横浜の梅雨は、重く湿った空気を街に停滞させる。
「大龍楼」の厨房は、換気扇をフル回転させてもなお、蒸し暑い熱気が肌にまとわりついた。幸雄(ゆきお)は、龍夫人に認められてからというもの、若手のエースとして期待を寄せられていたが、その分、周囲の風当たりは強くなっていた。
「幸雄、お前の料理は最近、少し『色気づいて』いないか?」
副料理長の張(チャン)が、冷ややかな視線で幸雄の手元を睨んだ。
「小籠包のヒダを増やしたり、ワインの香りを使ったり……そんなのは付け焼き刃の小細工だ。大龍の味は、そんな軟弱なもんじゃない」
幸雄は返答に窮した。豊(ゆたか)から学んだ「繊細さ」は、確かに自分の世界を広げてくれた。しかし、それがこの店の伝統と真っ向から衝突し始めていることも自覚していた。自分の居場所が少しずつ浮き上がっていくような、形容しがたい孤独感が、湿気と共に幸雄の胸を締め付ける。
そんな昼下がり、休憩室のベンチで、幸雄のスマートフォンが短く震えた。
フィレンツェからの国際電話だった。
「……もしもし、豊か?」
画面に映る豊の顔は、驚くほど青白かった。背景にあるはずの活気ある厨房の音は聞こえず、ただ静かな風の音だけが響いている。
『幸雄……ごめん、急に。少し、話を聞いてほしくて』
豊の声は掠れていた。聞けば、豊が勤める「ラ・ステラ」が、経営不振による買収の影響で、来月いっぱいで閉店することが決まったというのだ。さらに、オーナーシェフのマルコが過労で倒れ、豊たちが守ってきた「味」の継承が危ぶまれているという。
「なんだって……? あんなに有名で、お前も認められたばっかりじゃないか!」
『……大きな資本が入ると、味よりも効率を求められる。マルコシェフは、それに最後まで抗っていたんだ。でも、店がなくなる以上、僕もここにはいられない。……次、どこへ行けばいいのか、分からなくなっちゃったんだ』
豊の目に、うっすらと涙が浮かぶのを幸雄は見逃さなかった。
いつも冷静で、自分を導いてくれる北極星のような存在だった豊。その彼が、異国の地で羽をもがれ、途方に暮れている。
「豊、しっかりしろ! お前の腕なら、他の店だって引く手あまただろ」
『そうかもしれない。でも、僕が守りたかったのは「あの厨房」であって、ただ料理を作る場所ならどこでもいいわけじゃないんだ……。幸雄、僕はやっぱり、実家に帰ったほうがいいのかな。父さんの下に戻って……』
「……そんなこと、お前が一番望んでねえだろ!」
幸雄の声が、狭い休憩室に響いた。
電話の向こうで、豊がビクリと肩を揺らす。
「いいか、豊。お前は俺に、宝石職人のプライドを教えてくれた。見えないところに時間をかけて、優雅さを失わない強さを教えてくれた。そのお前が、ここで折れてどうするんだよ」
幸雄は、自分の汚れた手のひらを強く握りしめた。
「場所がなくなるなら、また新しく作ればいい。俺だって今、伝統と自分の料理の間でボコボコにされてる。でもな、お前がイタリアで戦ってると思うから、俺はこの厨房に立っていられるんだ」
幸雄の必死の訴えに、豊は長い沈黙のあと、小さく鼻をすすった。
『……幸雄は強いね。本当に、僕の知らないところでどんどん強くなっていく』
「強くねえよ。必死なだけだ。……なあ、豊。今すぐ答えを出そうとするな。一晩、寝てから考えろ。その代わり、俺からの提案だ」
幸雄は、窓の外で降りしきる雨を見つめた。
「俺たちの『交換レシピ』、もう一度やろうぜ。今度は、お前の絶望を吹き飛ばすような、最高のスタミナ料理を俺が考える。お前は、それをイタリアの空の下で作って食え。いいか?」
豊は、少しだけ、いつもの柔らかい微笑みを見せた。
『……わかった。期待してるよ、幸雄』
電話を切った後、幸雄はそのまま厨房へと戻った。
副料理長の張が不機嫌そうに立ち塞がるが、今の幸雄の目には、迷いはなかった。
「副料理長、もう一度、基本からやらせてください。ただし、俺のやり方で、大龍の味を超える一皿を作ります。文句があるなら、それを食ってから言ってください」
幸雄の体から、目に見えるような熱気が立ち上る。
一方、フィレンツェ。
豊は、幸雄との電話で得たわずかな体温を頼りに、夜の街へと歩き出した。
店はなくなる。けれど、自分の中に積み上げてきたものは、誰にも奪えない。
二人の十年の約束、その半分にも満たない四年前。
最大の危機は、二人をバラバラにするのではなく、さらに深く、魂の根底で結びつけようとしていた。
「大龍楼」の厨房は、換気扇をフル回転させてもなお、蒸し暑い熱気が肌にまとわりついた。幸雄(ゆきお)は、龍夫人に認められてからというもの、若手のエースとして期待を寄せられていたが、その分、周囲の風当たりは強くなっていた。
「幸雄、お前の料理は最近、少し『色気づいて』いないか?」
副料理長の張(チャン)が、冷ややかな視線で幸雄の手元を睨んだ。
「小籠包のヒダを増やしたり、ワインの香りを使ったり……そんなのは付け焼き刃の小細工だ。大龍の味は、そんな軟弱なもんじゃない」
幸雄は返答に窮した。豊(ゆたか)から学んだ「繊細さ」は、確かに自分の世界を広げてくれた。しかし、それがこの店の伝統と真っ向から衝突し始めていることも自覚していた。自分の居場所が少しずつ浮き上がっていくような、形容しがたい孤独感が、湿気と共に幸雄の胸を締め付ける。
そんな昼下がり、休憩室のベンチで、幸雄のスマートフォンが短く震えた。
フィレンツェからの国際電話だった。
「……もしもし、豊か?」
画面に映る豊の顔は、驚くほど青白かった。背景にあるはずの活気ある厨房の音は聞こえず、ただ静かな風の音だけが響いている。
『幸雄……ごめん、急に。少し、話を聞いてほしくて』
豊の声は掠れていた。聞けば、豊が勤める「ラ・ステラ」が、経営不振による買収の影響で、来月いっぱいで閉店することが決まったというのだ。さらに、オーナーシェフのマルコが過労で倒れ、豊たちが守ってきた「味」の継承が危ぶまれているという。
「なんだって……? あんなに有名で、お前も認められたばっかりじゃないか!」
『……大きな資本が入ると、味よりも効率を求められる。マルコシェフは、それに最後まで抗っていたんだ。でも、店がなくなる以上、僕もここにはいられない。……次、どこへ行けばいいのか、分からなくなっちゃったんだ』
豊の目に、うっすらと涙が浮かぶのを幸雄は見逃さなかった。
いつも冷静で、自分を導いてくれる北極星のような存在だった豊。その彼が、異国の地で羽をもがれ、途方に暮れている。
「豊、しっかりしろ! お前の腕なら、他の店だって引く手あまただろ」
『そうかもしれない。でも、僕が守りたかったのは「あの厨房」であって、ただ料理を作る場所ならどこでもいいわけじゃないんだ……。幸雄、僕はやっぱり、実家に帰ったほうがいいのかな。父さんの下に戻って……』
「……そんなこと、お前が一番望んでねえだろ!」
幸雄の声が、狭い休憩室に響いた。
電話の向こうで、豊がビクリと肩を揺らす。
「いいか、豊。お前は俺に、宝石職人のプライドを教えてくれた。見えないところに時間をかけて、優雅さを失わない強さを教えてくれた。そのお前が、ここで折れてどうするんだよ」
幸雄は、自分の汚れた手のひらを強く握りしめた。
「場所がなくなるなら、また新しく作ればいい。俺だって今、伝統と自分の料理の間でボコボコにされてる。でもな、お前がイタリアで戦ってると思うから、俺はこの厨房に立っていられるんだ」
幸雄の必死の訴えに、豊は長い沈黙のあと、小さく鼻をすすった。
『……幸雄は強いね。本当に、僕の知らないところでどんどん強くなっていく』
「強くねえよ。必死なだけだ。……なあ、豊。今すぐ答えを出そうとするな。一晩、寝てから考えろ。その代わり、俺からの提案だ」
幸雄は、窓の外で降りしきる雨を見つめた。
「俺たちの『交換レシピ』、もう一度やろうぜ。今度は、お前の絶望を吹き飛ばすような、最高のスタミナ料理を俺が考える。お前は、それをイタリアの空の下で作って食え。いいか?」
豊は、少しだけ、いつもの柔らかい微笑みを見せた。
『……わかった。期待してるよ、幸雄』
電話を切った後、幸雄はそのまま厨房へと戻った。
副料理長の張が不機嫌そうに立ち塞がるが、今の幸雄の目には、迷いはなかった。
「副料理長、もう一度、基本からやらせてください。ただし、俺のやり方で、大龍の味を超える一皿を作ります。文句があるなら、それを食ってから言ってください」
幸雄の体から、目に見えるような熱気が立ち上る。
一方、フィレンツェ。
豊は、幸雄との電話で得たわずかな体温を頼りに、夜の街へと歩き出した。
店はなくなる。けれど、自分の中に積み上げてきたものは、誰にも奪えない。
二人の十年の約束、その半分にも満たない四年前。
最大の危機は、二人をバラバラにするのではなく、さらに深く、魂の根底で結びつけようとしていた。



