『美味しい』が聴きたくて

横浜中華街の喧騒は、夜が更けるほどにその密度を増していく。極彩色のネオンが濡れた路面を照らし、甘栗を焼く香ばしい煙と、どこかから漂う漢方の香りが入り混じる。

幸雄が務める「大龍楼」に、ある晩、一人の老婦人が訪れた。
彼女は、中華街の顔役であり、舌の肥えた食通としても知られる「龍夫人(ロン・フーレン)」。彼女が満足すればその店の未来は明るいが、一度でも首を振れば、たちまち噂が広まり、客足が遠のくとさえ言われている。

「幸雄、今日の点心は、お前が担当しろ」

店主の言葉に、厨房の空気が凍りついた。
点心は中華料理の中でも最も繊細な技術を要する分野だ。皮の厚さ、包むヒダの数、そして蒸し上げた瞬間に溢れ出すスープの透明度。すべてに完璧が求められる。

「……はい、やらせてください」

幸雄は深く頭を下げた。手のひらは汗でじっとりとしていた。
彼に与えられた課題は、夫人が最も愛する「小籠包」。
幸雄は粉を練りながら、ふと、フィレンツェにいる豊(ゆたか)のことを想った。

(豊なら、この一皿にどんな『美しさ』を込めるだろう……)

豊の料理はいつも、盛り付けの余白に至るまで計算され、花が咲いたような気品があった。
一方、幸雄の料理はこれまで、力強さとボリュームが信条だった。しかし、龍夫人のような「本物」を相手にするには、それだけでは足りない。

幸雄は、豊から以前届いた手紙の言葉を思い出した。
『ユキオ、イタリアの宝石職人はね、見えない裏側にこそ一番時間をかけるんだ。料理も同じだと思う。口に入れた瞬間の驚きのために、何層もの繊細な準備を重ねる。それが「優雅さ」を生むんだよ』

(見えない裏側……層……)

幸雄は、小籠包のアンに細工を施すことにした。
通常、小籠包のスープは豚の煮こごり(ゼラチン)を使うが、幸雄はそこに、豊が教えてくれたイタリアの技法を取り入れた。
鶏ガラの清湯(チンタン)に、乾燥させた貝柱の旨味、そして隠し味として、白ワインで煮詰めた香味野菜のエキスを加えたのだ。

さらに、皮の包み方にもこだわった。
通常は18本前後とされるヒダを、幸雄は極限まで細かく、32本の細かな層として刻み込んだ。蒸し上がった際、そのヒダがドレスのフリルのように美しく波打つように。

「出すぞ……」

蒸籠(せいろう)から立ち上る真っ白な湯気の中に、幸雄の覚悟が宿る。
蓋を開けた瞬間、そこには琥珀色に透き通る、まるで芸術品のような小籠包が鎮座していた。

龍夫人のテーブルへ、幸雄自らが運ぶ。
夫人は無言で箸を伸ばし、その繊細な皮を、破らないように慎重にレンゲへと移した。
黒酢を数滴。生姜の千切りを添える。
彼女が一口、そのスープを啜った瞬間。

夫人の細い眉が、微かに動いた。

「……このスープ、ただの豚ではないわね。奥のほうで、果実のような、華やかな香りがするわ」

夫人は、幸雄をじっと見つめた。その目は、すべてを見透かすような鋭さを持っていた。

「若いの。あなたは、自分の腕力を誇示するのではなく、食べる人の心に寄り添うことを覚えたようね。……このヒダの細かさ、まるで古い教会の装飾のようだわ」

幸雄は、胸を撫で下ろした。
龍夫人は、小籠包をすべて平らげると、最後に小さく微笑んだ。
「ごちそうさま。あなたの『遠い友人』によろしく伝えておいてちょうだい。その人の風が、あなたの料理に吹いているわ」

その夜。
仕事を終えた幸雄は、店の裏通りで冷たい夜風に当たりながら、豊にメッセージを送った。

『豊。今日、あんたの言ってた「宝石職人」の気持ちが少しわかったよ。32本のヒダの中に、お前の教えを全部詰め込んだ。……点心で、厳しいババアを黙らせてやったぜ』

スマホをポケットにしまい、幸雄は空を見上げた。
横浜の夜空は明るすぎて星は見えないが、この空のずっと先、朝を迎えているはずのフィレンツェに、自分の想いが届いている確信があった。

「十年の約束……。あと七年か」

幸雄は、自分の赤く腫れた指先を見つめた。
力強さの中に宿る、繊細な美。
それは、豊と出会わなければ、一生手に入れることのできなかった武器だった。