『美味しい』が聴きたくて

フィレンツェの朝は、石造りの街並みに染み付いた古い湿気と、どこかから漂う挽きたてのコーヒーの香りで幕を開ける。

湊 豊(みなと ゆたか)は、まだ夜が明けきらない石畳を、吐き出す息を白く染めながら歩いていた。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の巨大な影が、冷ややかな朝の光の中で街を支配している。実家の「リストランテ・湊」を離れ、イタリアへ渡ってから三度目の冬。豊が勤める「リストランテ・ラ・ステラ」は、この街でも指折りの名店だが、その厨房は「戦場」という言葉すら生温いほどに過酷だった。

「ユタカ! 生地の温度が高い! 自分の体温すら制御できないなら、今すぐ厨房から出ていけ!」

ヘッドシェフの怒号が、銅製の鍋が並ぶ高い天井に響き渡る。豊は唇を噛み締め、氷水で感覚がなくなるほど冷やした指先で、再びパスタの生地を練り始めた。
イタリアの粉は、日本のそれよりもずっと気まぐれだ。湿度、気温、そして触れる者の指先が微かに震えるだけで、茹で上がりのコシは無惨に崩れてしまう。完璧なアルデンテを追求する日々の中で、豊は自分の未熟さに打ちのめされそうになっていた。

(幸雄なら……あいつなら、こんな時、笑って鍋を振るんだろうな)

ふとした瞬間に、あの高校の屋上の香りが蘇る。
強火で熱せられた鉄鍋から立ち上る、ラードとネギの香ばしい匂い。お弁当箱を開けた瞬間に広がる、火の力そのものを閉じ込めたような圧倒的な熱。
豊は、幸雄(ゆきお)と交わした「十年」という約束を反芻した。卒業式の日に触れ合った、料理人の証である固くなった指先の感触。そのあまりの時間の長さに、時折、心が折れそうになる。今、幸雄は横浜の熱い厨房で、どんな顔をして客の前に立っているのだろうか。

作業が一段落した休憩時間、豊は厨房の裏口に腰を下ろし、日本から持ってきた一冊のノートを開いた。それは高校時代、幸雄とお弁当を交換する中で書き留めた「交換レシピ」のノートだ。そこには、幸雄が教えてくれた「麻婆豆腐」のコツが、豊の几帳面な文字で記されている。

「……トウバンジャン、豆鼓、山椒……」

材料の名前をなぞるだけで、喉の奥が熱くなる。豊は立ち上がり、賄い用のキッチンへと向かった。
自分に与えられた自由な時間は、わずか三十分。豊は現地の市場で手に入れた材料を使い、ある「実験」を始めた。

オリーブオイルを引いた重厚なフライパンに、細かく刻んだニンニクと、トスカーナ産の小粒で鋭い辛味を持つ唐辛子を投入する。そこへ、幸雄が教えてくれた「挽肉の味付け」を応用し、地元の熟成された生ハムの端材を叩いて加えた。
ジッ、という鋭い音が響く。それは幸雄が鉄鍋を操るあの爆発的な轟音とは程遠い、けれど豊なりの「火との対話」だった。

完成したのは、見た目はイタリアンの「ボロネーゼ」だが、香りはどこか中華の面影を残す、不思議な一皿。豊はそれを、一口運ぶ。

「……辛い。でも、温かいな」

鼻の奥がツンとするのは、唐辛子のせいだけではなかった。
イタリアの乾いた空気の中で、遠く離れた幸雄がくれた「情熱」だけが、豊の冷え切った指先を温めてくれる。

その頃、地球の反対側、横浜。
潮風が混じる中華街の喧騒の中で、幸雄もまた、昼のピークを終えた厨房で豊の残した「青い弁当箱」を眺めていた。
横浜の老舗「大龍楼」での修行は、幸雄の想像を絶する世界の連続だった。何十キロもの野菜をミリ単位で刻み続け、巨大な釜でスープを炊き続ける日々。

「おい、幸雄! ぼーっとすんな。次のフカヒレ、戻し加減を見ろ!」

「はいっ!」

幸雄は慌てて立ち上がった。彼の腕には、鉄鍋を振り続けたことで得た新しい火傷の跡が、勲章のように刻まれている。

「豊……お前、イタリアでちゃんと食えてるか? 痩せてねえだろうな」

幸雄は、汚れた前掛けで額の汗を拭った。
二人の距離は、地図の上では気が遠くなるほど離れている。けれど、幸雄が火の前に立ち、豊が粉を練る時、二人の魂は確かにあの屋上の「交換弁当」を囲んでいた。

「負けねえぞ。十年の間に、世界で一番美味い中華を作れるようになってやる」

夜の帳が下りる横浜の空に、幸雄はそう誓った。
一方、フィレンツェでは、豊が明日の一番乗りの仕込みのために、再び冷たい水に手を入れていた。

二人のシーズン2。それは、お互いがお互いの「最高の一皿」になるための、長く、険しく、けれど美しい孤独な戦いの始まりだった。