放課後、怪異と君と

 放課後の教室には、まだ西日の名残が差し込んでいた。
 机の上には解きかけの問題用紙と放り出されたシャープペンシル。黒板には、消しきれなかったチョークの文字がうっすら残っている。

「はー……補習って、なんでこう無駄に長いんだろうな」

 榎本圭は椅子にもたれかかり、天井を見上げながらぼやいた。

「無駄じゃないだろ。俺たちの赤点を救うための尊い時間だぞ」

 隣に座るクラスメイトの小谷が、急に顔をきりっとさせてサムズアップする。圭を含め、まだ長袖のままの生徒が多い中で、小谷だけは一足先に半袖へ衣替えしていた。袖から覗く腕は、サッカー部の練習のせいで日に焼けている。

「うわ、先生より先生っぽいこと言うじゃん。進路、教師に変えたら?」

 小谷の突っ込みに、圭は大げさに肩をすくめる。小谷は顔をしかめ、げぇ、と吐く真似をした。

「やだよ。毎日プリント作って、テスト作って、採点して……想像しただけで寿命縮みそう」
「……縁起でもない言い方するなよ」

 思わず出た言葉だった。自分でも、声が少し強ばっていたことに気づく。
 圭は一瞬だけ口を閉じ、それから慌てて笑みを作った。

「ほら、我らが担任のキタセンなんて、今まさに人生のボーナスステージ突入中なんだからさ。長生きしてもらわないと困るだろ」
「そうじゃん! ずっと彼女いない歴イコール年齢だったのに、まさか婚活成功するとはなぁ」
「しかも奥さんめっちゃ可愛いし! あれマジで本物なの? AIだったりしねぇ?」

 教室に笑い声が弾ける。
 圭もそれに合わせて口角を上げたが、笑い声が喉の奥でわずかに遅れた。皆の笑いがひと段落したころになって、ようやく息を吐き出す。
 そこへ、廊下の向こうから足音が近づいてきた。次の瞬間、ガラッと勢いよく教室のドアが開く。

「おーい、お前ら、何を喋ってるんだ? 問題はもう解き終わったのか?」
「噂をすればキタセン〜」
「なあ、キタセンの奥さんAI疑惑あるんだけど、本当に実在するのか?」

 圭がにやにやしながら言うと、教師は露骨に顔をしかめた。

「お前らなあ……そんな話してるってことは、さぞ余裕なんだろうな? ほら、見せてみろ」
「ギャーッ! 先生のえっち! 変態教師!」

 問題用紙を取り返そうと騒ぐ圭を見て、小谷たちがどっと笑い声を上げる。
 初夏の生ぬるい風が吹き込み、カーテンを揺らした。グラウンドからは、どこかの部活の掛け声が聞こえてくる。
 明るくて、少し騒がしい。いつもと変わらない放課後の風景だった。




 補習が終わると、圭は机の上を片付け、振り返って小谷たちを見る。

「腹減ったな。ラーメン食って帰らない?」
「お、いいな!」
「賛成、賛成ー!」

 軽いノリのまま教室を出る。
 その瞬間、空気がふっと変わった。
 ひんやりとした廊下の冷気が、肌の上をすべる。いつの間にか日は沈み、窓の外は薄闇に覆われていた。
 さっきまでの賑やかさが嘘のように、皆の足取りが自然と静まっていく。
 等間隔に並ぶ蛍光灯のうち、何本かが弱々しく点滅していた。その下を通るたび、光が一瞬だけ揺らぎ、視界の端がかすかに歪む。
 見慣れた廊下のはずなのに、まるで別の場所に迷い込んだみたいだった。
 自分たちの足音だけが、やけに大きく響いている。
 ――そのとき、どこかで水滴の落ちる音がした。

「……雨、降ってたっけ?」
「さあ? さっきまで晴れてたよな」

 耳を澄ますと、また音がする。
 ぽたん、ぽたん、と、一定の間隔で。
 階段を降りても、その音は遠ざからず、背後にまとわりつくように続いていた。
 ふと、圭の耳に――一拍遅れた足音が混じっているように思えた。
 自分たちのものより、ほんのわずかに遅い。まるで、誰かが少し後ろを歩いているかのような錯覚。
 圭は思わず振り返った。
 そこには、誰もいない。

「……なあ、これ」

 昇降口へ向かう途中、小谷が足を止める。
 床に、濡れた足跡が残っていた。裸足のものにも見えるそれは、廊下の奥から続き、目の前でぷつりと途切れている。

「誰かいるのか?」

 圭は周囲を見回した。近くの教室はすべて明かりが落ち、ドアには鍵が掛かっている。
 足跡の途切れた先には、小さな水溜りが残っていた。その水面が、わずかに揺れる。
 理由もなく背筋が粟立ち、圭はスクールバッグの紐を強く握りしめた。
 さっきまで笑っていたはずの口元が、いつの間にか引きつっている。

「……やばくね? 帰ろうぜ」

 誰かが言った瞬間、張り詰めていた空気が一斉に崩れた。
 クラスメイトたちは半ば冗談めかしながらも、我先にと出口へ走り出す。

「おい圭、置いてくぞ!」

 声をかけられた、そのとき。
 圭の足がもつれた。

「う、わっ!?」

 勢いよく床に倒れ込み、全身を強かに打ちつける。
 その拍子に、軽い金属の音が廊下に転がった。
 はっと息を呑み、床に落ちた鞄を引き寄せる。
 ――ない。
 鞄につけていたキーホルダーが消えている。
 兄からもらった、剣道着を着たカエルの小さなチャーム。
 胸の奥で、心臓がひとつ余計に跳ねた。
 圭は慌てて視線を巡らせ、それから、ゆっくりと振り返る。
 そこに人の姿はない。
 あるのは、壁に伸びる『影』だけだった。
 影は、実在しない誰かの輪郭をなぞるように、わずかに揺れている。
 まるで、そこに『いるはずだった誰か』の痕跡のように。
 背筋を冷たいものがなぞり、喉の奥がひくりと引きつった。