信永くんは今にも飛び掛かりそうな程強い警戒心を剝き出しにしている。
僕は顔を青ざめ、急いで宥めた。
「の、信永くん。先生の前だよ! そんなことしたら……」
「君、よく見たら信永くんじゃないかぁ。久しぶりだねぇ、ずっと会えないから心配してたんだよ。大和くんと敦くんは元気?」
「大和と敦の名前を軽々しく呼ぶんじゃねーよ。反吐が出る」
信永くんは更に悪態をつく。彼の怖さが一気に凝縮された所に身震いをした。
しかし、椿坂さんは怯むことなく満面の笑みで彼に絡みついている。寧ろ彼の馴れ馴れしい態度に信永くんの表情が崩れかけていた。
「二人とも知り合いなんですか?」
「う~ん、知り合いというかはお世話になっているんだぁ。僕の子供たちがね」
綺麗なウィンク顔で椿坂さんは告げる。
あれ、そう言えばこの前も子供たちって言ってたような……。
信永くんのお家ってそんなに子供いたっけ。
「世話になっているってお前が一方的にだろ。もういい加減に仕事を増やさないでくれるか」
「えぇ? そんなことはないと思うんだけれど……」
無自覚かよと信永くんは呆れ気味に呟いた。とは言え、二人が知り合いだなんて思いもよらず未だに状況を噛み砕くのが遅い。
そんな中でも二人はどんどん会話を繰り広げていく。
信永くんは終始嫌そうにしているが、椿坂さんは穏やかな表情で彼を困らせていた。
「てか、そろそろ帰れよ。暖に金輪際近づくな」
「えぇ? 信永くん酷いよぉ。音羽くんは命の恩人なのにぃ」
「そのまま野垂れ死ねば良かったのにな。暖は惜しい事したんだ」
「君、大和くんに似てきたよねぇ。そんなツンケンした所もそっくりだ」
「だから、あいつの名前を呼ぶんじゃねーよ」
僕はそんな二人を黙って眺めることしかできなかった。
やがて満足したのか椿坂さんはひらりと手を振って、「じゃあ僕は行くねぇ。音羽くんばいばい」とゆったりとした足取りで教室を出て行った。
突然のことで僕も「あ、はい」としか返事が出来ず、去っていく背中を見送ることしかできなかった。
「……」
「暖、それ貸せ。今すぐ捨ててくる」
「え? ちょっと信永くん待ってよ」
無理矢理袋を奪われそうになり、必死に抵抗する。捨ててくるって何でなんだよ。
「そ、そんなに椿坂さんが嫌いなの……?!」
「お前は事情を知らないからそう言えるんだ」
何だよそれ。
僕は言葉を失った。
事情って一体なんだよと今すぐに問いたかったが、信永くんの剣幕に負けてしまい口を窄めてしまう。
「と言うより、あいつと知り合いだったのかよ」
「……ごめん」責められていると思い、自然と謝罪がこぼれ出た。
「別に謝ってほしいわけじゃなくてだな……。椿坂に何か変な事されなかったか?」
「ううん。何もされてないよ、ねぇどういうことなの?」
「そのマスコットから変な臭いがするんだよ」
「臭い?」僕はとある節が思い当たる。
信永くんも「分かったか?」と真剣な眼差しで伺う。けれども、どこかで疑いが拭い切れずにいた。
「今日、家帰ったら詳しく話すからそれでいいか?」
「うん、分かった。でも、これは捨てないで良いでしょ?」
僕はマスコットを手に訴えかける。信永くんは片頬をぴくつかせ無言になったが、やがて渋い顔で折れた。
「だけど、念のため敦と大和にも見せるからな」
「う、うん。分かった……」
有無を言わせない声色に僕の背筋がピンと伸びたのは言うまでもない。
そして、椿坂さんの手作りマスコットに何があるのかと不安が募り始めた。
◇
放課後。僕と信永くんは急いで菊山家に戻り、大和さんたちに今日の出来事を伝える。
やはり、二人とも椿坂さんの名前を出すだけで様子が一変した。
「音羽くん、前にも椿坂に会ったってマジ?!」
「は、はい……」
何故だかいけないような気分に陥り、勝手に罪悪感を抱く。大和さんはそんな僕に「あ、いや。そういう訳じゃなくてだな……」と気難しい面持ちで唸り込んだ。
しかし、敦くんまでもが深刻そうな顔をすると更に不安が襲い掛かる。
「あの、そんなに椿坂さんってヤバい人なんですか?」
僕は純粋な疑問を彼らにぶつける。本当の話、僕には椿坂さんがただの好青年にしか見えなかった。
ただ伸びた口調と穏やかな印象が強く、信永くんとのやりとりもどこかひらり交わし、掴みどころのない。
信永くんが一方的に毛嫌いしているのかと思い込んだくらいだ。
しかし、三人の様子を見れば何やら複雑な事情が絡んでいることは一目瞭然だった。
大和さんは敦くんに目配せをする。きっと、どう話すのか悩んでいるんだろう。
しかし、その輪に入ることなく淡々と述べ始めたのは信永くんだった。
「椿坂は俺の母親の不倫相手」
「ふ、不倫相手ぇ!?」
あまりの衝撃に声が裏返る。彼を見ると至って平然な様子だ。
「ふ、不倫……?」信じられず無意識に言葉を反芻させる。
「おい信、いきなりじゃ驚かせるに決まってるだろ」
大和さんは信永くんの肩を掴む。信永くんは亭主関白のように堂々としている。
「俺はまどろっこしいのが嫌いだからな。端的に言った方が分かりやすいだろ。ていうか、母さんはお前の姉だろ? 大和が言わねーでどうするんだよ」
「そうじゃなくてだなぁ……。俺にも段取りっていうのがあるんだよ」
大和さんは気まずそうに後頭部を掻いた。「困ったなぁ」と小さく呟いていたのが耳に聞こえてきた。
ずっと触れずにいたが、菊山家で信永くんたちの母親を見たことがないのは不倫が理由なのか。
父親の事情は信永くん経由で知ったため、特に疑問が生じることはなかった。
それでも叔父である大和さんは何かを隠しているようにも見据えた。
「音羽くん」
「は、はい!」ふいに大和さんから名前を呼ばれ背筋が伸びる。
「そ、そんなに畏まらなくて大丈夫だから。ただ、俺も気持ちの整理が追いついてないっていうのが正直なところなんだ……」
「大和さん……」
「でも、最初からそうだった訳じゃねーんだ。姉さんはサバサバしてたけれど、曲がったことが嫌いな人だったからな。不倫をするような人じゃないって思ってたんだよ。それまでは子守係の仕事を真っ当にこなしてたし、俺も彫師の仕事をしながら姉さんの手伝いをすることもあったよ」
「俺は東京に住みながら彫師の仕事をしてたからな。帰るのは偶にだったが」改まった口調で大和さんは語り始める。
時折、視線を逸らして言葉を詰まらせる様子が何度も見られた。
僕はこれから、菊山家の奥深くに眠る禁忌に触れるのだと顔が強張った。
「信たちの父親は元々病弱で、あまり外に出る人じゃなかったけれど穏やかで頭が良かった。子守係の仕事を楽しそうにやってたのが印象的だよ。そんで信と敦が生まれた時は、誰よりも姉さんが可愛がってて……。喧嘩も言い合いもあったけど、幸せそうな家族って微笑ましかった」
独り言のように語られるそれは、大和さんの記憶を忠実に表現していた。信永くんたちを見て悲痛そうに唇を噛み締めていた。
きっとこの家庭がいつまでも続くと思っていたんだろうな。
そんなことを考えていると、途端に大和さんの表情が一変する。
「でも、椿坂が人形の供養をして欲しいと家にやってきた時からだったな。椿坂家は人形師の世界じゃ有名で、人形供養の仕事を手伝っている上で名前だけは知っていたんだ。最初は、爽やかそうな優男で逆に舐められそうな見た目とは思ってたけれどな。でもな……」
「でも……?」
「その日から椿坂はよく人形を預けにくるようになったんだよ。人形師のことだから、家に眠っている人形を捨てるのに躊躇でもしてるんだろって気にせずにいたんだけれどさ。そっから、椿坂は姉さんと仲良くなったんだよ。最初はただ、頻繁に来るからという理由で話が弾んでるのかと思ってたんだ」
最初ということは、その次に何かあったのかと予測できた。
やはり、その読みは合っていた。大和さんは話すのを止め、何度も深呼吸を繰り返した。そして、神妙な面持ちで鉛のように重い口が開かれた。
「単刀直入に言うと俺の姉さん……いや、信たちの母親は椿坂と駆け落ちをしようとした」
「駆け落ち……?! じゃあ、本当に……」僕も感情移入して、言葉に詰まる。
「すぐに居場所を突き止めて色々詰め寄ったんだ。でも、ただ単に姉さんが椿坂に一方的に夢中になっているだけだった。「これは仕方のないこと」と一点張りでさ。あの姉さんがだぜ? こんな不正な事一番嫌っていたのに、可笑しいって思ったんだ」
「でも、それ以上に許せないことが出来てよ……」大和さんの唸るような声に肩の力が入る。
「ゆ、許せないことですか?」
「ある日仕事中に、敦から連絡が来たんだ。すっげー血相を掻いたような声で、「お父さんが倒れた」って」
「え!?」
「姉さんはどうしたんだって聞いたら、あいつ性懲りもなく椿坂の所に出向いてやがったんだよ。一番大事な時に責任取らなくちゃいけない奴が仕事と家庭を放棄して、敦たちを置き去りにしやがったんだ。それが原因で、旦那さんはストレスからくる体調不良が悪化したんだ。余程、姉さんの行動が悪目立ちしてたんだろうな。それで、救急搬送されたから大事にはならなかったけれど、容態が安定しないまま旦那さんは亡くなっちまったんだよ」
「そんな……」
大和さんから語られた事実は想像していたよりも残酷だった。一番傍にいるべき人間が何故いなかったのか。
悔やんでも悔やみきれないんじゃないかと密かに芽生える。
「それならどうして、椿坂さんは今でも教師として……」
「不倫した決定的な証拠がどこにもないんだよ。でも証拠がない以上、椿坂と姉さんはただの依頼関係で収まっちまった。現に椿坂は姉さんのことを異性として見てなかったからな。体の関係を持っていた可能性も低いし、ただ姉さんが空振り三振したって感じなんだよな」
「……」
「でも、だからと言って信や敦をほっぽって不倫しようとする奴なんて親失格だろ? 例え姉でも、そこまで見逃す程俺は優しくない。だから、こいつらの世話をするのと同時に、彫師の仕事も子守係の仕事も両方やるって決めたんだ」
「それであの、信永くんたちのお母さんは……」
「それがさ、ある日どっか出かけたっきり戻ってこなくなったんだわ。本当、笑える話だよ。酒の肴にでもしたいくらいだわ」
「ははは」と乾いた笑い声が聞こえる。暫くした後、大和さんは大きなため息を吐いた。
「ま、どんなに誠実な奴でも、ちょっと環境が変われば汚染されたみたいに変わっちゃうんだよ。気付いた時にはもう戻れない所までいたし。何より、信と敦には今まで通りの生活をさせてやれないのが少し申し訳ないが」
「そんな訳ねーだろ」信永くんが割り込む。彼の表情は俯いていて見えない。
それでも、大和さんは何とも言えない顔で「そんなことあるんだよ」と諭した。
「姉さんはさ、それまではちゃんと母親をやってただろ? 愛情も沢山貰って幸せそうだったのに。一体、何でこんなことになったんだろうな。……そもそも、こんな変な家系に生まれたせいでもあるのか……って考えることもある」
「大和さん……」
敦くんは胸元をぎゅっと握りしめた。
僕たちの間に重苦しい雰囲気が立ち込める。信永くんも敦くんも口を噤んだまま大和さんを見つめていた。
大和さんは畳を一点集中と眺めていた。
やがて、一息吐いて僕に向かって告げた。
「こんな長々と喋って悪かったな。少し疲れただろ、ちょっと休憩でもするか」
「は、はい。あ、ありがとうございます」
申し訳なさを滲みだした彼の前で僕はお礼を言う事しかできなかった。
何と返せば良いか分からなかった。
どう答えても大和さんに失礼な事をしてしまうんじゃないかと考えると、心臓の鼓動が速くなる。
僕が子守係の仕事をし始めて暫く経つ。家系が特殊であればある程、想像もしなかった出来事に出くわすのは不本意である。
彼らからの口振りからして、本当に幸せな家族だったんだと察する。
あんなに優しかった母親が、自分たちそっちのけで他の男に夢中になるのはどれ程辛かったんだろう。
僕は理解できなかった。
実の母親には怒鳴られっぱなしの記憶しか残っていない。嬉しい記憶も、棗ちゃんを貰ったあの日しか思い浮かばなかった。
「そう言えば、僕も棗ちゃんを貰ったあの日からお母さんの様子が可笑しくなったんだっけ」
狂ったように肌身離さず持ち歩く姿が今でも鮮明に思い出される。触ろうとしただけで、怒鳴られたこともあった。
信永くんたちの表情は一変して、僕を一斉に見つめた。
「どういうことだ、それ」
信永くんの低い声に何かやらかしたかと後悔した。彼の逆鱗に触れないよう、僕は慎重に言葉を選んだ。
「ただ……。お母さんも人形のことで怖い顔をすることがあったから……。それで、似ているなって思って……」
「お前……どうしてそんなこと今まで言わなかったんだよ!」
「だって、あの時は捨てることに必死で本当に怖くて……。お母さんがおかしくなったのもただ人形が欲しいかったからってそう思ってたから………」
人形が壊れちゃったときも、今まで見たことない形相で罵詈雑言を浴びせられた。
殴られたことはないが、それよりも人形の心配をする母親がどうしても目が離せなかった。
そこから、人の怒鳴り声や大声には敏感になってきてしまった。
ぶっちゃけ言って、呆れ顔の信永くんにさえも僅かな恐怖を抱きながら肩を縮こませていた。
「怖かったってお前なぁ……」
信永くんはやれやれと頭を抱える。内心不安でいっぱいだったが、いつもの信永くんに戻って何故だかほっとしてしまった。
すると、話を聞いていた大和さんが疑問を抱いた。
「なぁ、その人形について何か言われたことってあるか? 誕生日のプレゼントだったからきっと、サプライズをしたかったんだって思っているんだ」
「今だから分かるんですけれど、棗ちゃんは知り合いの人形師に頼んだっていうのを思い出したんです。その人形師に依頼をして、奮発したって言ってたような……」
「奮発、か……」
「あの、何かまた変な事言っちゃいましたか?」
再び険しい顔になる大和さんを見てそう聞かずにはいられなかった。
「これはただの憶測なんだが、その棗ちゃんも椿坂に作られたものなんじゃないか?」
「な、棗ちゃんが椿坂さんに!? どうして」
僕は驚きを露わにして叫ぶ。
「まずは奮発して買ったっていうのが気になるんだよな。オーダーメイドなんだろ? 余程気になってたみたいじゃねーか。サプライズという名目で何か裏があると思ったし。何より、その人形師とは知り合いなんだろ?」
「で、でもそれだけで確証はできないというか……」
怪しいと企むのは理解できる。だけど、そんな都合の良い展開なんてあるのか?
疑念が晴れないまま僕は大和さんの推測に耳を傾ける。
「あとは、執着する対象は違うが同じく豹変している点が引っ掛かるな……。結果的にどこに捨てても帰ってきたんだろ? どうも怪しいんだよな」
「どうして、椿坂さんが棗ちゃんを作ったと思ったんですか?」
「これを言うのもなんだが、実は菊山家に来る人形は大体が曰くつきで殆どが椿坂家の作品なんだ」
「え!?」
衝撃的な事実に言葉を失いかける。それでも大事な情報だと大和さんは言葉を止めなかった。
「音羽くんって付喪神って聞いたことあるか?」
「えっと、まぁ聞いたことなら……」
「日本では物を長年使用し続けると付喪神が宿るって言い伝えがあるんだ。特に人型のものって魂が宿りやすく、人形が代表的な例だな。大きな神社とか寺だと人形供養祭という行事を開いて行われることがあるんだ」
確かに物に愛着が湧くと簡単に捨てることができないのはそのせいなのかもしれない。
人形供養にはお焚き上げや御祈祷、読経などが挙げられるが、その中でも子守係は極めて珍しい供養方法である。
「待ってください。じゃあ、ビオラちゃんたちって……」
「あぁ。ビオラとパンジーも椿坂家で制作された人形なんだよ。あいつらは元々別の人の手に渡っていたが、間もない内にここで引き取られた」
大和さんの浮かない表情が全てを物語らせる。
ビオラちゃんはいつからこの家にいるんだろう。
子守係としてひよっこな僕をいつも気にかけてくれている。
信永くんとの関係に宥めてくれたり、パンジーちゃんと言い争いになりかけた際には庇ってくれた。
人形を捨てた僕のことを嫌と言わずに傍に居てくれる彼女にもどかしさを覚える。
最初は僕だけが彼女たちの声を聞けることに違和感があったが、今ならその原因が分かった気がした。
ビオラちゃんもパンジーちゃんも呪われている。
だから、同じである僕が唯一彼女たちの意思表明を理解できる。
こんな辛い事実があっても良いのかと目を逸らしたくなった。
「人形たちの穢れが消えるまで、子守係の仕事に終わりはない。俺たちはいづれその呪いの元凶に触れることになるかもしれない。姉さんが消えたように、俺もまた魅入られるんじゃないかと思うと眠れない日もあるよ」
「大和さんは何も悪くないですよ……」
「ありがとうな、敦。でも、実の姉だから気がかりなのはずっとそうだ。だから、一つの家庭を壊しても今でものうのうと生きている椿坂を少し憎んでもいる」
「……そうだったんですね」
「でも安心しろ、この家にいる限り音羽くんの安心安全は俺らが保証するから」
屈託のない笑顔の裏で、大和さんの拳が密かに震えているのを見逃さなかった。
信永くんたちの母親が居なくなった時、本当は彼が何を思ったのか分からない。
それでも、信永くんたちに心配させないよう必死に取り繕っているのだ。
本当は今でも不安な筈なのに。
「僕も……」
「音羽くん?」
「僕も皆さんの役に立てるよう頑張ります。ただ、呪われているだけじゃきっとどうにもならないし……。それに、信永くんたちのお母さんのことや棗ちゃんのことも、この目で真実を知りたいんです」
彼らが手を差し伸べてくれるように、自分も信永くんたちの恩を仇で返すことはないように。
「まだ子守係として未熟者ですけれど、これからも精一杯頑張ります。だから、よろしくお願いします!」
三人の前で勢いよく頭を下げる。その瞬間、大和さんたちは何も喋らなくなった。
自分今、可笑しなことをいっている気がする。頭が混乱してついさっきの何を発したかうろ覚えになりかけているが、どうしても伝えなきゃと必死だった。
「ふはっ!」頭上から腑抜けた笑い声が上がる。咄嗟に頭を上げると、大和さんが手を叩きながらけらけらと笑った。
訳が分からず呆然としていると、
「こりゃ頼もしいなぁ。音羽くんって意外と心臓に毛が生えているタイプ?」
「えぇ?」
心臓に毛なんて生えないだろうと指摘したくなったが、大和さんの笑い声でかき消される。
それよりも、あんなに厳つい見た目をした大和さんの表情が崩れていることに心底驚いた。
「まぁ、そん時はお言葉に甘えて音羽くんにも相談するよ。身内だけじゃ視野が狭くなる一方だからなぁ」
「はぁ? それだと俺らが出来てねーみたいな言い方じゃねーか」信永くんの不満げな口ぶりに、大和さんは更に無邪気に笑う。
「んなこと言う訳ねーだろ? 信も敦も俺にとって大切な家族だからな」
「大和さん……」今度は敦くんが込み上げそうなものをぐっと抑えていた。
「音羽くんありがとな。俺、めーっちゃ元気出たよ。こいつらが絆されるのもよく分かるわ」
「は、はぁ……」
途中意味不明なことを呟かれたが、きっとこれで良かったのだろう。
一件落着と言ったところで僕はほっと一息を吐く。同時に意識的に心臓を締め付けるような苦しさもあった。
彼らの内部に触れた以上、僕は真剣にこの仕事と向き合わなければならない。
そして、棗ちゃんのことも椿坂さんのことも。
絶対に手掛かりを見つけなくちゃ。
僕は顔を青ざめ、急いで宥めた。
「の、信永くん。先生の前だよ! そんなことしたら……」
「君、よく見たら信永くんじゃないかぁ。久しぶりだねぇ、ずっと会えないから心配してたんだよ。大和くんと敦くんは元気?」
「大和と敦の名前を軽々しく呼ぶんじゃねーよ。反吐が出る」
信永くんは更に悪態をつく。彼の怖さが一気に凝縮された所に身震いをした。
しかし、椿坂さんは怯むことなく満面の笑みで彼に絡みついている。寧ろ彼の馴れ馴れしい態度に信永くんの表情が崩れかけていた。
「二人とも知り合いなんですか?」
「う~ん、知り合いというかはお世話になっているんだぁ。僕の子供たちがね」
綺麗なウィンク顔で椿坂さんは告げる。
あれ、そう言えばこの前も子供たちって言ってたような……。
信永くんのお家ってそんなに子供いたっけ。
「世話になっているってお前が一方的にだろ。もういい加減に仕事を増やさないでくれるか」
「えぇ? そんなことはないと思うんだけれど……」
無自覚かよと信永くんは呆れ気味に呟いた。とは言え、二人が知り合いだなんて思いもよらず未だに状況を噛み砕くのが遅い。
そんな中でも二人はどんどん会話を繰り広げていく。
信永くんは終始嫌そうにしているが、椿坂さんは穏やかな表情で彼を困らせていた。
「てか、そろそろ帰れよ。暖に金輪際近づくな」
「えぇ? 信永くん酷いよぉ。音羽くんは命の恩人なのにぃ」
「そのまま野垂れ死ねば良かったのにな。暖は惜しい事したんだ」
「君、大和くんに似てきたよねぇ。そんなツンケンした所もそっくりだ」
「だから、あいつの名前を呼ぶんじゃねーよ」
僕はそんな二人を黙って眺めることしかできなかった。
やがて満足したのか椿坂さんはひらりと手を振って、「じゃあ僕は行くねぇ。音羽くんばいばい」とゆったりとした足取りで教室を出て行った。
突然のことで僕も「あ、はい」としか返事が出来ず、去っていく背中を見送ることしかできなかった。
「……」
「暖、それ貸せ。今すぐ捨ててくる」
「え? ちょっと信永くん待ってよ」
無理矢理袋を奪われそうになり、必死に抵抗する。捨ててくるって何でなんだよ。
「そ、そんなに椿坂さんが嫌いなの……?!」
「お前は事情を知らないからそう言えるんだ」
何だよそれ。
僕は言葉を失った。
事情って一体なんだよと今すぐに問いたかったが、信永くんの剣幕に負けてしまい口を窄めてしまう。
「と言うより、あいつと知り合いだったのかよ」
「……ごめん」責められていると思い、自然と謝罪がこぼれ出た。
「別に謝ってほしいわけじゃなくてだな……。椿坂に何か変な事されなかったか?」
「ううん。何もされてないよ、ねぇどういうことなの?」
「そのマスコットから変な臭いがするんだよ」
「臭い?」僕はとある節が思い当たる。
信永くんも「分かったか?」と真剣な眼差しで伺う。けれども、どこかで疑いが拭い切れずにいた。
「今日、家帰ったら詳しく話すからそれでいいか?」
「うん、分かった。でも、これは捨てないで良いでしょ?」
僕はマスコットを手に訴えかける。信永くんは片頬をぴくつかせ無言になったが、やがて渋い顔で折れた。
「だけど、念のため敦と大和にも見せるからな」
「う、うん。分かった……」
有無を言わせない声色に僕の背筋がピンと伸びたのは言うまでもない。
そして、椿坂さんの手作りマスコットに何があるのかと不安が募り始めた。
◇
放課後。僕と信永くんは急いで菊山家に戻り、大和さんたちに今日の出来事を伝える。
やはり、二人とも椿坂さんの名前を出すだけで様子が一変した。
「音羽くん、前にも椿坂に会ったってマジ?!」
「は、はい……」
何故だかいけないような気分に陥り、勝手に罪悪感を抱く。大和さんはそんな僕に「あ、いや。そういう訳じゃなくてだな……」と気難しい面持ちで唸り込んだ。
しかし、敦くんまでもが深刻そうな顔をすると更に不安が襲い掛かる。
「あの、そんなに椿坂さんってヤバい人なんですか?」
僕は純粋な疑問を彼らにぶつける。本当の話、僕には椿坂さんがただの好青年にしか見えなかった。
ただ伸びた口調と穏やかな印象が強く、信永くんとのやりとりもどこかひらり交わし、掴みどころのない。
信永くんが一方的に毛嫌いしているのかと思い込んだくらいだ。
しかし、三人の様子を見れば何やら複雑な事情が絡んでいることは一目瞭然だった。
大和さんは敦くんに目配せをする。きっと、どう話すのか悩んでいるんだろう。
しかし、その輪に入ることなく淡々と述べ始めたのは信永くんだった。
「椿坂は俺の母親の不倫相手」
「ふ、不倫相手ぇ!?」
あまりの衝撃に声が裏返る。彼を見ると至って平然な様子だ。
「ふ、不倫……?」信じられず無意識に言葉を反芻させる。
「おい信、いきなりじゃ驚かせるに決まってるだろ」
大和さんは信永くんの肩を掴む。信永くんは亭主関白のように堂々としている。
「俺はまどろっこしいのが嫌いだからな。端的に言った方が分かりやすいだろ。ていうか、母さんはお前の姉だろ? 大和が言わねーでどうするんだよ」
「そうじゃなくてだなぁ……。俺にも段取りっていうのがあるんだよ」
大和さんは気まずそうに後頭部を掻いた。「困ったなぁ」と小さく呟いていたのが耳に聞こえてきた。
ずっと触れずにいたが、菊山家で信永くんたちの母親を見たことがないのは不倫が理由なのか。
父親の事情は信永くん経由で知ったため、特に疑問が生じることはなかった。
それでも叔父である大和さんは何かを隠しているようにも見据えた。
「音羽くん」
「は、はい!」ふいに大和さんから名前を呼ばれ背筋が伸びる。
「そ、そんなに畏まらなくて大丈夫だから。ただ、俺も気持ちの整理が追いついてないっていうのが正直なところなんだ……」
「大和さん……」
「でも、最初からそうだった訳じゃねーんだ。姉さんはサバサバしてたけれど、曲がったことが嫌いな人だったからな。不倫をするような人じゃないって思ってたんだよ。それまでは子守係の仕事を真っ当にこなしてたし、俺も彫師の仕事をしながら姉さんの手伝いをすることもあったよ」
「俺は東京に住みながら彫師の仕事をしてたからな。帰るのは偶にだったが」改まった口調で大和さんは語り始める。
時折、視線を逸らして言葉を詰まらせる様子が何度も見られた。
僕はこれから、菊山家の奥深くに眠る禁忌に触れるのだと顔が強張った。
「信たちの父親は元々病弱で、あまり外に出る人じゃなかったけれど穏やかで頭が良かった。子守係の仕事を楽しそうにやってたのが印象的だよ。そんで信と敦が生まれた時は、誰よりも姉さんが可愛がってて……。喧嘩も言い合いもあったけど、幸せそうな家族って微笑ましかった」
独り言のように語られるそれは、大和さんの記憶を忠実に表現していた。信永くんたちを見て悲痛そうに唇を噛み締めていた。
きっとこの家庭がいつまでも続くと思っていたんだろうな。
そんなことを考えていると、途端に大和さんの表情が一変する。
「でも、椿坂が人形の供養をして欲しいと家にやってきた時からだったな。椿坂家は人形師の世界じゃ有名で、人形供養の仕事を手伝っている上で名前だけは知っていたんだ。最初は、爽やかそうな優男で逆に舐められそうな見た目とは思ってたけれどな。でもな……」
「でも……?」
「その日から椿坂はよく人形を預けにくるようになったんだよ。人形師のことだから、家に眠っている人形を捨てるのに躊躇でもしてるんだろって気にせずにいたんだけれどさ。そっから、椿坂は姉さんと仲良くなったんだよ。最初はただ、頻繁に来るからという理由で話が弾んでるのかと思ってたんだ」
最初ということは、その次に何かあったのかと予測できた。
やはり、その読みは合っていた。大和さんは話すのを止め、何度も深呼吸を繰り返した。そして、神妙な面持ちで鉛のように重い口が開かれた。
「単刀直入に言うと俺の姉さん……いや、信たちの母親は椿坂と駆け落ちをしようとした」
「駆け落ち……?! じゃあ、本当に……」僕も感情移入して、言葉に詰まる。
「すぐに居場所を突き止めて色々詰め寄ったんだ。でも、ただ単に姉さんが椿坂に一方的に夢中になっているだけだった。「これは仕方のないこと」と一点張りでさ。あの姉さんがだぜ? こんな不正な事一番嫌っていたのに、可笑しいって思ったんだ」
「でも、それ以上に許せないことが出来てよ……」大和さんの唸るような声に肩の力が入る。
「ゆ、許せないことですか?」
「ある日仕事中に、敦から連絡が来たんだ。すっげー血相を掻いたような声で、「お父さんが倒れた」って」
「え!?」
「姉さんはどうしたんだって聞いたら、あいつ性懲りもなく椿坂の所に出向いてやがったんだよ。一番大事な時に責任取らなくちゃいけない奴が仕事と家庭を放棄して、敦たちを置き去りにしやがったんだ。それが原因で、旦那さんはストレスからくる体調不良が悪化したんだ。余程、姉さんの行動が悪目立ちしてたんだろうな。それで、救急搬送されたから大事にはならなかったけれど、容態が安定しないまま旦那さんは亡くなっちまったんだよ」
「そんな……」
大和さんから語られた事実は想像していたよりも残酷だった。一番傍にいるべき人間が何故いなかったのか。
悔やんでも悔やみきれないんじゃないかと密かに芽生える。
「それならどうして、椿坂さんは今でも教師として……」
「不倫した決定的な証拠がどこにもないんだよ。でも証拠がない以上、椿坂と姉さんはただの依頼関係で収まっちまった。現に椿坂は姉さんのことを異性として見てなかったからな。体の関係を持っていた可能性も低いし、ただ姉さんが空振り三振したって感じなんだよな」
「……」
「でも、だからと言って信や敦をほっぽって不倫しようとする奴なんて親失格だろ? 例え姉でも、そこまで見逃す程俺は優しくない。だから、こいつらの世話をするのと同時に、彫師の仕事も子守係の仕事も両方やるって決めたんだ」
「それであの、信永くんたちのお母さんは……」
「それがさ、ある日どっか出かけたっきり戻ってこなくなったんだわ。本当、笑える話だよ。酒の肴にでもしたいくらいだわ」
「ははは」と乾いた笑い声が聞こえる。暫くした後、大和さんは大きなため息を吐いた。
「ま、どんなに誠実な奴でも、ちょっと環境が変われば汚染されたみたいに変わっちゃうんだよ。気付いた時にはもう戻れない所までいたし。何より、信と敦には今まで通りの生活をさせてやれないのが少し申し訳ないが」
「そんな訳ねーだろ」信永くんが割り込む。彼の表情は俯いていて見えない。
それでも、大和さんは何とも言えない顔で「そんなことあるんだよ」と諭した。
「姉さんはさ、それまではちゃんと母親をやってただろ? 愛情も沢山貰って幸せそうだったのに。一体、何でこんなことになったんだろうな。……そもそも、こんな変な家系に生まれたせいでもあるのか……って考えることもある」
「大和さん……」
敦くんは胸元をぎゅっと握りしめた。
僕たちの間に重苦しい雰囲気が立ち込める。信永くんも敦くんも口を噤んだまま大和さんを見つめていた。
大和さんは畳を一点集中と眺めていた。
やがて、一息吐いて僕に向かって告げた。
「こんな長々と喋って悪かったな。少し疲れただろ、ちょっと休憩でもするか」
「は、はい。あ、ありがとうございます」
申し訳なさを滲みだした彼の前で僕はお礼を言う事しかできなかった。
何と返せば良いか分からなかった。
どう答えても大和さんに失礼な事をしてしまうんじゃないかと考えると、心臓の鼓動が速くなる。
僕が子守係の仕事をし始めて暫く経つ。家系が特殊であればある程、想像もしなかった出来事に出くわすのは不本意である。
彼らからの口振りからして、本当に幸せな家族だったんだと察する。
あんなに優しかった母親が、自分たちそっちのけで他の男に夢中になるのはどれ程辛かったんだろう。
僕は理解できなかった。
実の母親には怒鳴られっぱなしの記憶しか残っていない。嬉しい記憶も、棗ちゃんを貰ったあの日しか思い浮かばなかった。
「そう言えば、僕も棗ちゃんを貰ったあの日からお母さんの様子が可笑しくなったんだっけ」
狂ったように肌身離さず持ち歩く姿が今でも鮮明に思い出される。触ろうとしただけで、怒鳴られたこともあった。
信永くんたちの表情は一変して、僕を一斉に見つめた。
「どういうことだ、それ」
信永くんの低い声に何かやらかしたかと後悔した。彼の逆鱗に触れないよう、僕は慎重に言葉を選んだ。
「ただ……。お母さんも人形のことで怖い顔をすることがあったから……。それで、似ているなって思って……」
「お前……どうしてそんなこと今まで言わなかったんだよ!」
「だって、あの時は捨てることに必死で本当に怖くて……。お母さんがおかしくなったのもただ人形が欲しいかったからってそう思ってたから………」
人形が壊れちゃったときも、今まで見たことない形相で罵詈雑言を浴びせられた。
殴られたことはないが、それよりも人形の心配をする母親がどうしても目が離せなかった。
そこから、人の怒鳴り声や大声には敏感になってきてしまった。
ぶっちゃけ言って、呆れ顔の信永くんにさえも僅かな恐怖を抱きながら肩を縮こませていた。
「怖かったってお前なぁ……」
信永くんはやれやれと頭を抱える。内心不安でいっぱいだったが、いつもの信永くんに戻って何故だかほっとしてしまった。
すると、話を聞いていた大和さんが疑問を抱いた。
「なぁ、その人形について何か言われたことってあるか? 誕生日のプレゼントだったからきっと、サプライズをしたかったんだって思っているんだ」
「今だから分かるんですけれど、棗ちゃんは知り合いの人形師に頼んだっていうのを思い出したんです。その人形師に依頼をして、奮発したって言ってたような……」
「奮発、か……」
「あの、何かまた変な事言っちゃいましたか?」
再び険しい顔になる大和さんを見てそう聞かずにはいられなかった。
「これはただの憶測なんだが、その棗ちゃんも椿坂に作られたものなんじゃないか?」
「な、棗ちゃんが椿坂さんに!? どうして」
僕は驚きを露わにして叫ぶ。
「まずは奮発して買ったっていうのが気になるんだよな。オーダーメイドなんだろ? 余程気になってたみたいじゃねーか。サプライズという名目で何か裏があると思ったし。何より、その人形師とは知り合いなんだろ?」
「で、でもそれだけで確証はできないというか……」
怪しいと企むのは理解できる。だけど、そんな都合の良い展開なんてあるのか?
疑念が晴れないまま僕は大和さんの推測に耳を傾ける。
「あとは、執着する対象は違うが同じく豹変している点が引っ掛かるな……。結果的にどこに捨てても帰ってきたんだろ? どうも怪しいんだよな」
「どうして、椿坂さんが棗ちゃんを作ったと思ったんですか?」
「これを言うのもなんだが、実は菊山家に来る人形は大体が曰くつきで殆どが椿坂家の作品なんだ」
「え!?」
衝撃的な事実に言葉を失いかける。それでも大事な情報だと大和さんは言葉を止めなかった。
「音羽くんって付喪神って聞いたことあるか?」
「えっと、まぁ聞いたことなら……」
「日本では物を長年使用し続けると付喪神が宿るって言い伝えがあるんだ。特に人型のものって魂が宿りやすく、人形が代表的な例だな。大きな神社とか寺だと人形供養祭という行事を開いて行われることがあるんだ」
確かに物に愛着が湧くと簡単に捨てることができないのはそのせいなのかもしれない。
人形供養にはお焚き上げや御祈祷、読経などが挙げられるが、その中でも子守係は極めて珍しい供養方法である。
「待ってください。じゃあ、ビオラちゃんたちって……」
「あぁ。ビオラとパンジーも椿坂家で制作された人形なんだよ。あいつらは元々別の人の手に渡っていたが、間もない内にここで引き取られた」
大和さんの浮かない表情が全てを物語らせる。
ビオラちゃんはいつからこの家にいるんだろう。
子守係としてひよっこな僕をいつも気にかけてくれている。
信永くんとの関係に宥めてくれたり、パンジーちゃんと言い争いになりかけた際には庇ってくれた。
人形を捨てた僕のことを嫌と言わずに傍に居てくれる彼女にもどかしさを覚える。
最初は僕だけが彼女たちの声を聞けることに違和感があったが、今ならその原因が分かった気がした。
ビオラちゃんもパンジーちゃんも呪われている。
だから、同じである僕が唯一彼女たちの意思表明を理解できる。
こんな辛い事実があっても良いのかと目を逸らしたくなった。
「人形たちの穢れが消えるまで、子守係の仕事に終わりはない。俺たちはいづれその呪いの元凶に触れることになるかもしれない。姉さんが消えたように、俺もまた魅入られるんじゃないかと思うと眠れない日もあるよ」
「大和さんは何も悪くないですよ……」
「ありがとうな、敦。でも、実の姉だから気がかりなのはずっとそうだ。だから、一つの家庭を壊しても今でものうのうと生きている椿坂を少し憎んでもいる」
「……そうだったんですね」
「でも安心しろ、この家にいる限り音羽くんの安心安全は俺らが保証するから」
屈託のない笑顔の裏で、大和さんの拳が密かに震えているのを見逃さなかった。
信永くんたちの母親が居なくなった時、本当は彼が何を思ったのか分からない。
それでも、信永くんたちに心配させないよう必死に取り繕っているのだ。
本当は今でも不安な筈なのに。
「僕も……」
「音羽くん?」
「僕も皆さんの役に立てるよう頑張ります。ただ、呪われているだけじゃきっとどうにもならないし……。それに、信永くんたちのお母さんのことや棗ちゃんのことも、この目で真実を知りたいんです」
彼らが手を差し伸べてくれるように、自分も信永くんたちの恩を仇で返すことはないように。
「まだ子守係として未熟者ですけれど、これからも精一杯頑張ります。だから、よろしくお願いします!」
三人の前で勢いよく頭を下げる。その瞬間、大和さんたちは何も喋らなくなった。
自分今、可笑しなことをいっている気がする。頭が混乱してついさっきの何を発したかうろ覚えになりかけているが、どうしても伝えなきゃと必死だった。
「ふはっ!」頭上から腑抜けた笑い声が上がる。咄嗟に頭を上げると、大和さんが手を叩きながらけらけらと笑った。
訳が分からず呆然としていると、
「こりゃ頼もしいなぁ。音羽くんって意外と心臓に毛が生えているタイプ?」
「えぇ?」
心臓に毛なんて生えないだろうと指摘したくなったが、大和さんの笑い声でかき消される。
それよりも、あんなに厳つい見た目をした大和さんの表情が崩れていることに心底驚いた。
「まぁ、そん時はお言葉に甘えて音羽くんにも相談するよ。身内だけじゃ視野が狭くなる一方だからなぁ」
「はぁ? それだと俺らが出来てねーみたいな言い方じゃねーか」信永くんの不満げな口ぶりに、大和さんは更に無邪気に笑う。
「んなこと言う訳ねーだろ? 信も敦も俺にとって大切な家族だからな」
「大和さん……」今度は敦くんが込み上げそうなものをぐっと抑えていた。
「音羽くんありがとな。俺、めーっちゃ元気出たよ。こいつらが絆されるのもよく分かるわ」
「は、はぁ……」
途中意味不明なことを呟かれたが、きっとこれで良かったのだろう。
一件落着と言ったところで僕はほっと一息を吐く。同時に意識的に心臓を締め付けるような苦しさもあった。
彼らの内部に触れた以上、僕は真剣にこの仕事と向き合わなければならない。
そして、棗ちゃんのことも椿坂さんのことも。
絶対に手掛かりを見つけなくちゃ。

