■客室 ― 夜の露天風呂
夕食を終えて、しばらくしてから。
部屋の灯りは少し落とされ、外はすっかり夜になっていた。
山の空気は静かで、虫の声だけが遠くから聞こえる。
縁側の先。
客室の露天風呂には、湯気がゆっくりと立ち上っていた。
そして――
和春と愛華は、並んで湯に浸かっていた。
木の縁に背を預け、肩まで温泉に浸かる。
夜風が少しだけ涼しい。
和春が空を見上げる。
「……いいな」
ぽつりと言った。
「何がですか」
愛華が隣で聞く。
「こういうの」
少し間を置く。
「たまには、のんびりするのも悪くない」
愛華は小さく笑った。
「ようやく分かりましたか」
「愛華が止めなかったら仕事してた」
「知ってます」
和春は湯の中で少し体勢を変える。
「温泉も悪くない」
「サウナはぬるかったそうですが」
「それは不満」
愛華はくすっと笑う。
山の夜は静かだった。
街の音もない。
会議もない。
電話も鳴らない。
ただ、温泉の湯と夜風だけ。
和春が少し目を細める。
「……満足だ」
愛華はその横顔を見る。
普段は仕事の顔しか見ない。
冷静で、合理的で、無駄を嫌う顔。
なのに今は――
少しだけ力が抜けていた。
愛華は思う。
(この人)
(こんな顔もするんですね)
湯気がゆっくり流れていく。
そのまま二人は、しばらく何も言わず温泉に浸かっていた。
■旅館の裏側
その頃――
旅館の奥にある事務室。
帳簿の前で、女将は静かにため息をついていた。
「……また赤字ね」
ページをめくる。
今月の売上。
そして経費。
結果は変わらない。
赤字。
ここ数ヶ月ずっと同じだった。
「やっぱり……」
小さく呟く。
理由は分かっている。
山の反対側にできた新しい温泉ホテル。
大型施設。
新しい建物。
広い露天風呂。
レストラン。
バイキング。
そして何より――
安い。
観光客は分かりやすい。
綺麗で。
安くて。
写真映えする。
それだけで人は流れてしまう。
この旅館は歴史がある。
料理も温泉も悪くない。
リフォームもしてきた。
それでも――
客足は減っていた。
「……どうしたものかしら」
帳簿を閉じようとしたその時。
「母さん」
後ろから声がした。
振り返ると、瀬奈が立っていた。
仲居服のまま、少し心配そうな顔をしている。
「まだ仕事してたの?」
女将は苦笑する。
「ちょっとね」
瀬奈は机の上の帳簿を見る。
数字を見て、すぐ理解した。
「……また赤字?」
女将は小さく頷く。
瀬奈は椅子を引き、横に座った。
「新しいホテルの影響?」
「そうね」
女将は窓の外を見る。
「やっぱり安さには勝てないわ」
少し沈黙。
瀬奈は考える。
そして、ふと思い出した。
「……そういえば」
女将が顔を上げる。
「何?」
瀬奈は少し笑った。
「今日泊まってるお客さん」
「神代さん?」
「うん」
女将は頷く。
「落ち着いた方ね。感じもいい」
瀬奈は少し身を乗り出す。
「母さん、あの人すごい人かもしれない」
「どういうこと?」
瀬奈は昼間の会話を思い出す。
大学の講義。
経営の話。
そして――
あの頭の回転。
「愛華先輩の相方なんだけど」
「先輩?」
「大学の先輩」
瀬奈は説明する。
「その人、コンサルなんだ」
女将は少し首を傾げる。
「コンサル?」
「うん」
瀬奈は続ける。
「大学の講義もしてて、企業の経営コンサルもしてて、弁護士資格も取ったばっかり」
女将が驚く。
「そんな人なの?」
瀬奈は苦笑した。
「正直……頭のレベルが違う」
昼間の講義を思い出す。
学生が黙るほどの話。
経営の構造を一瞬で整理する思考。
「もし……」
瀬奈は少しだけ遠慮がちに言う。
「相談してみたらどうかな」
女将は考える。
「旅館の経営を?」
「うん」
瀬奈は少し笑った。
「なんかね」
瀬奈は講義中の和春のことを思い出す。
「この人なら、何か見えるんじゃないかなって」
女将は少し考え込む。
窓の外には、夜の庭。
「……でも」
女将は苦笑する。
「お客様にそんなお願いできないわ」
瀬奈は肩をすくめる。
「まぁ、そうだけど」
そして小さく付け加える。
「でも、あの人」
「?」
「頼んだら普通にやりそう」
女将は少し驚いた顔をした。
夕食を終えて、しばらくしてから。
部屋の灯りは少し落とされ、外はすっかり夜になっていた。
山の空気は静かで、虫の声だけが遠くから聞こえる。
縁側の先。
客室の露天風呂には、湯気がゆっくりと立ち上っていた。
そして――
和春と愛華は、並んで湯に浸かっていた。
木の縁に背を預け、肩まで温泉に浸かる。
夜風が少しだけ涼しい。
和春が空を見上げる。
「……いいな」
ぽつりと言った。
「何がですか」
愛華が隣で聞く。
「こういうの」
少し間を置く。
「たまには、のんびりするのも悪くない」
愛華は小さく笑った。
「ようやく分かりましたか」
「愛華が止めなかったら仕事してた」
「知ってます」
和春は湯の中で少し体勢を変える。
「温泉も悪くない」
「サウナはぬるかったそうですが」
「それは不満」
愛華はくすっと笑う。
山の夜は静かだった。
街の音もない。
会議もない。
電話も鳴らない。
ただ、温泉の湯と夜風だけ。
和春が少し目を細める。
「……満足だ」
愛華はその横顔を見る。
普段は仕事の顔しか見ない。
冷静で、合理的で、無駄を嫌う顔。
なのに今は――
少しだけ力が抜けていた。
愛華は思う。
(この人)
(こんな顔もするんですね)
湯気がゆっくり流れていく。
そのまま二人は、しばらく何も言わず温泉に浸かっていた。
■旅館の裏側
その頃――
旅館の奥にある事務室。
帳簿の前で、女将は静かにため息をついていた。
「……また赤字ね」
ページをめくる。
今月の売上。
そして経費。
結果は変わらない。
赤字。
ここ数ヶ月ずっと同じだった。
「やっぱり……」
小さく呟く。
理由は分かっている。
山の反対側にできた新しい温泉ホテル。
大型施設。
新しい建物。
広い露天風呂。
レストラン。
バイキング。
そして何より――
安い。
観光客は分かりやすい。
綺麗で。
安くて。
写真映えする。
それだけで人は流れてしまう。
この旅館は歴史がある。
料理も温泉も悪くない。
リフォームもしてきた。
それでも――
客足は減っていた。
「……どうしたものかしら」
帳簿を閉じようとしたその時。
「母さん」
後ろから声がした。
振り返ると、瀬奈が立っていた。
仲居服のまま、少し心配そうな顔をしている。
「まだ仕事してたの?」
女将は苦笑する。
「ちょっとね」
瀬奈は机の上の帳簿を見る。
数字を見て、すぐ理解した。
「……また赤字?」
女将は小さく頷く。
瀬奈は椅子を引き、横に座った。
「新しいホテルの影響?」
「そうね」
女将は窓の外を見る。
「やっぱり安さには勝てないわ」
少し沈黙。
瀬奈は考える。
そして、ふと思い出した。
「……そういえば」
女将が顔を上げる。
「何?」
瀬奈は少し笑った。
「今日泊まってるお客さん」
「神代さん?」
「うん」
女将は頷く。
「落ち着いた方ね。感じもいい」
瀬奈は少し身を乗り出す。
「母さん、あの人すごい人かもしれない」
「どういうこと?」
瀬奈は昼間の会話を思い出す。
大学の講義。
経営の話。
そして――
あの頭の回転。
「愛華先輩の相方なんだけど」
「先輩?」
「大学の先輩」
瀬奈は説明する。
「その人、コンサルなんだ」
女将は少し首を傾げる。
「コンサル?」
「うん」
瀬奈は続ける。
「大学の講義もしてて、企業の経営コンサルもしてて、弁護士資格も取ったばっかり」
女将が驚く。
「そんな人なの?」
瀬奈は苦笑した。
「正直……頭のレベルが違う」
昼間の講義を思い出す。
学生が黙るほどの話。
経営の構造を一瞬で整理する思考。
「もし……」
瀬奈は少しだけ遠慮がちに言う。
「相談してみたらどうかな」
女将は考える。
「旅館の経営を?」
「うん」
瀬奈は少し笑った。
「なんかね」
瀬奈は講義中の和春のことを思い出す。
「この人なら、何か見えるんじゃないかなって」
女将は少し考え込む。
窓の外には、夜の庭。
「……でも」
女将は苦笑する。
「お客様にそんなお願いできないわ」
瀬奈は肩をすくめる。
「まぁ、そうだけど」
そして小さく付け加える。
「でも、あの人」
「?」
「頼んだら普通にやりそう」
女将は少し驚いた顔をした。

