如月法律事務所を出た直後、外の空気が少しだけ冷たく感じた。
昼過ぎの街は平和で、さっき手渡されたファイルの重さと妙に釣り合わない。
助手席で愛華がタブレットを操作する。
「概要を整理しますね」
和春は運転しながら頷く。
「頼む」
「依頼人は二十代女性。
中小企業勤務。退職トラブル。
ただし単純な未払い賃金ではありません」
「家庭絡みか」
「はい。
会社と家庭が“相互拘束”になっています」
和春の視線が少し鋭くなる。
「人格支配型だな」
「おそらく」
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■依頼人
二人が指定された場所へ向かうと、そこは法律事務所ではなく小さな公共相談室だった。
椅子に座っていた女性は、ひどく疲れた顔をしていた。
目の下にうっすら隈。
服装は整っているのに、生気が薄い。
「こんにちは」
和春はいつも通りの声で言う。
優しくも冷たくもない、ただ“平坦”な声。
それだけで女性の肩が少し下がった。
「……あの、本当に弁護士さんですか?」
「違う。コンサルだ」
「は?」
「今日は“解決”しに来た」
愛華が補足する。
「法的整理と心理整理を同時に行います。安心してください」
女性は少し戸惑いながら頷いた。
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■状況整理
話は典型的なブラック企業とは違った。
・会社は退職を認めない
・母親が会社側の意見を支持
・退職を申し出ると体調不良を理由に引き止め
・“あなたが辞めたら会社が潰れる”と言われ続けている
和春は一度も遮らず最後まで聞いた。
そして言う。
「辞められない理由、三つあるな」
女性が顔を上げる。
「え?」
「法律じゃない。心理だ」
指を折る。
「①責任の押し付け
②恩義の錯覚
③孤立の恐怖」
女性の目が揺れる。
愛華が柔らかく続ける。
「あなたは“辞めると誰かが壊れる”と思わされている状態です」
女性の手が震えた。
「……だって、社長が倒れるって……」
和春は即答する。
「倒れない」
「え…?」
「人は他人の退職で倒れない。
倒れるなら元から限界だ。責任はそいつの経営能力」
沈黙。
女性の目に涙が溜まる。
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■法的整理
和春は資料に線を引く。
「退職は自由。民法627条。
2週間で終了」
愛華が補足する。
「有期契約でもやむを得ない事由があれば即時可能です」
「あなたの場合は精神的拘束がある。十分成立」
女性が震えながら言う。
「でも、母が……」
和春は少しだけ声を落とす。
「それは“会社の問題”じゃない。“家族の支配”だ」
空気が変わる。
女性の呼吸が止まった。
「あなたは仕事を辞めたいんじゃない。
“許可が欲しい”だけだ」
沈黙。
涙が落ちた。
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■心理解除
和春は一枚の紙を出す。
「ここに書け」
「え…?」
「“辞めたら起きる最悪の未来”」
女性は震える手で書く。
・会社が潰れる
・母が怒る
・自分はダメ人間になる
和春はそれを見て言う。
「全部、事実じゃない。予測だ」
愛華が静かに続ける。
「人は予測を事実と誤認すると行動できなくなります」
和春は紙を裏返す。
「次。“実際に起きる未来”を書け」
女性は止まる。
何も書けない。
「ほらな」
和春は言う。
「恐怖は具体化できない。だから支配に使われる」
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■解決
翌日。
会社へ内容証明を送付。
退職通知、接触制限、連絡窓口変更。
さらに母親には別の書面を送る。
「家族関係の切断じゃない。役割の切断だ」
愛華が説明する。
「“会社と親の役割混同”を解除します」
数日後。
会社は連絡を止めた。
理由は単純だった。
“支配が効かなくなった”から。
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プロボノ ― 回復
一週間後。
相談室に女性が来た。
顔色がまるで違う。
「眠れました」
それが最初の言葉だった。
和春は頷くだけ。
「職場からも母からも連絡来てません」
「来ない。連絡しても意味がないと理解したからだ」
女性が深く頭を下げる。
「私…これでいいんすよね」
和春は即答する。
「当たり前だ」
愛華が続ける。
「あなたは“役割”から解放されただけです。価値は変わってません」
女性は泣きながら笑った。
こうしてプロボノ案件は終わった。

