食卓
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚の香り。
向かい合って座る。
以前と同じ光景。
――なのに、静けさが柔らかい。
「いただきます」
「いただきます」
箸が当たる音だけが少し続く。
沈黙は気まずくない。
だが、どこか落ち着かない。
愛華は一口食べてから、何でもない声で言った。
「今日の案件ですが」
「ん?」
「オーナーの方、距離感が近い人でしたね」
和春は魚をほぐす手を止めない。
「ああいう業界は多い」
淡々。
いつもの返答。
愛華は続ける。
「私に働かないかとおっしゃっていましたね」
一瞬だけ、和春の箸が止まる。
すぐに戻る。
「言ってたな」
「……」
間。
愛華は味噌汁を飲む。
湯気で視線が隠れる。
「その時、少し機嫌が悪かったように見えました」
和春は顔を上げない。
「気のせいだろ」
即答。
愛華の指先が椀の縁をなぞる。
「そうですか」
短い返事。
だが、そこで終わらない。
「私は別に、働くつもりはありませんよ」
「だろうな」
「もし働くと言ったら?」
今度は、和春の視線が上がる。
数秒。
「止める」
あまりにも早い答え。
愛華の瞳が揺れる。
「理由を伺っても?」
「……向いてねぇ」
「それだけですか?」
沈黙。
箸が置かれる。
「――ああいう目で見られるの、慣れてねぇだろお前」
低い声。
怒りではない。
抑えた感情。
愛華は少し笑う。
「心配ですか?」
「仕事にならなくなる」
「私がですか?」
「俺がだ」
止まる。
空気が変わる。
愛華の呼吸が一瞬乱れる。
和春は何事もなかったように味噌汁を飲む。
「……」
愛華は視線を落とし、箸を持ち直す。
「そういうことにしておきます」
小さな声。
だが口元は、ほんの少し緩んでいた。
◼️洗い物
和春が自分の皿を持って立ち上がる。
流しに置き、そのままリビングへ戻ろうとした。
その瞬間――
袖を、引かれる。
「……」
振り返ると、愛華の手が和春の手首を軽く掴んでいた。
強くはない。
だが、離す気のない掴み方だった。
「今日は、手伝ってください」
「……」
「流しに置くまでが家事じゃありません」
「それは初めて聞いた理論だな」
「本日限定です」
「限定かよ」
「はい。特別です」
一瞬だけ間が落ちる。
和春は小さく息を吐き、袖を引かれたままシンクへ戻る。
「……何すればいい」
「まず、逃げないでください」
「難易度高いな」
「では皿、洗ってください」
「割るぞ」
「割ったら弁償です」
「帰る」
ぐっと、もう一度引かれる。
「帰れません」
視線が合う。
近い。
けれど――愛華は離さない。
「今日は、手伝ってください」
今度は、さっきより少しだけ柔らかい声だった。
和春は数秒黙り――
「……スポンジどれだ」
愛華の指先が、ほんの少しだけ緩む。
「黄色です。ご主人様」
「やめろその呼び方」
「本日限定です」
リビング ― 夜
シャワーを終えた後の静かな部屋。
湯気の残る空気。
ソファに並んで座る二人。
一つのタブレットを中央に置き、同じ画面を見ている。
「明日の導線、入口はこっち側が自然ですね」
「いや、客の視線はまずカウンターに行く。こっちだな」
和春が画面を指す。
その瞬間、愛華の肩が少し触れる。
どちらも避けない。
「……距離、近くないですか」
「タブレット一つだからな」
合理的な返答。
だが――
近い理由にはなっていない。
愛華は少しだけ身体を引こうとして、やめる。
むしろ角度を合わせるように寄る。
髪がまだ完全に乾いていない。
柔らかな香りがふわりと届く。
和春の視線が一瞬だけ止まる。
「……」
すぐ画面へ戻す。
「この売り場、死角できる」
「はい。防犯カメラの死角にもなりますね」
指が重なる。
タブレットをスクロールしようとして、同じ場所に触れた。
止まる。
離れるまでの一秒が長い。
愛華は何事もないように指を退ける。
「和春、少し右」
「……ああ」
声がわずかに低い。
ポーカーフェイスは崩れていない。
だが、ほんの少しだけ呼吸が乱れる。
愛華がページを拡大するため前かがみになる。
距離が縮まる。
肩が完全に触れる。
熱が伝わる。
「……愛華」
「はい」
「集中しろ」
「してます」
「してない」
小さく笑う気配。
「和春がしてません」
和春は何も言わない。
ただ視線を画面に戻す。
しかし、次のページをめくる手が止まる。
愛華の濡れた髪先が腕に触れていた。
わずかな水滴。
一瞬、視線が落ちる。
すぐ戻す。
「……乾かしてこい」
「乾いてます」
「乾いてない」
「問題ありません」
間。
和春は小さく息を吐く。
「……仕事の効率が落ちる」
愛華は少しだけ視線を逸らす。
「誰のですか」
答えはない。
沈黙だけが落ちる。
同じ画面を見ているのに、内容が頭に入らない。
距離は変わらないまま。
夜だけが深くなっていく。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚の香り。
向かい合って座る。
以前と同じ光景。
――なのに、静けさが柔らかい。
「いただきます」
「いただきます」
箸が当たる音だけが少し続く。
沈黙は気まずくない。
だが、どこか落ち着かない。
愛華は一口食べてから、何でもない声で言った。
「今日の案件ですが」
「ん?」
「オーナーの方、距離感が近い人でしたね」
和春は魚をほぐす手を止めない。
「ああいう業界は多い」
淡々。
いつもの返答。
愛華は続ける。
「私に働かないかとおっしゃっていましたね」
一瞬だけ、和春の箸が止まる。
すぐに戻る。
「言ってたな」
「……」
間。
愛華は味噌汁を飲む。
湯気で視線が隠れる。
「その時、少し機嫌が悪かったように見えました」
和春は顔を上げない。
「気のせいだろ」
即答。
愛華の指先が椀の縁をなぞる。
「そうですか」
短い返事。
だが、そこで終わらない。
「私は別に、働くつもりはありませんよ」
「だろうな」
「もし働くと言ったら?」
今度は、和春の視線が上がる。
数秒。
「止める」
あまりにも早い答え。
愛華の瞳が揺れる。
「理由を伺っても?」
「……向いてねぇ」
「それだけですか?」
沈黙。
箸が置かれる。
「――ああいう目で見られるの、慣れてねぇだろお前」
低い声。
怒りではない。
抑えた感情。
愛華は少し笑う。
「心配ですか?」
「仕事にならなくなる」
「私がですか?」
「俺がだ」
止まる。
空気が変わる。
愛華の呼吸が一瞬乱れる。
和春は何事もなかったように味噌汁を飲む。
「……」
愛華は視線を落とし、箸を持ち直す。
「そういうことにしておきます」
小さな声。
だが口元は、ほんの少し緩んでいた。
◼️洗い物
和春が自分の皿を持って立ち上がる。
流しに置き、そのままリビングへ戻ろうとした。
その瞬間――
袖を、引かれる。
「……」
振り返ると、愛華の手が和春の手首を軽く掴んでいた。
強くはない。
だが、離す気のない掴み方だった。
「今日は、手伝ってください」
「……」
「流しに置くまでが家事じゃありません」
「それは初めて聞いた理論だな」
「本日限定です」
「限定かよ」
「はい。特別です」
一瞬だけ間が落ちる。
和春は小さく息を吐き、袖を引かれたままシンクへ戻る。
「……何すればいい」
「まず、逃げないでください」
「難易度高いな」
「では皿、洗ってください」
「割るぞ」
「割ったら弁償です」
「帰る」
ぐっと、もう一度引かれる。
「帰れません」
視線が合う。
近い。
けれど――愛華は離さない。
「今日は、手伝ってください」
今度は、さっきより少しだけ柔らかい声だった。
和春は数秒黙り――
「……スポンジどれだ」
愛華の指先が、ほんの少しだけ緩む。
「黄色です。ご主人様」
「やめろその呼び方」
「本日限定です」
リビング ― 夜
シャワーを終えた後の静かな部屋。
湯気の残る空気。
ソファに並んで座る二人。
一つのタブレットを中央に置き、同じ画面を見ている。
「明日の導線、入口はこっち側が自然ですね」
「いや、客の視線はまずカウンターに行く。こっちだな」
和春が画面を指す。
その瞬間、愛華の肩が少し触れる。
どちらも避けない。
「……距離、近くないですか」
「タブレット一つだからな」
合理的な返答。
だが――
近い理由にはなっていない。
愛華は少しだけ身体を引こうとして、やめる。
むしろ角度を合わせるように寄る。
髪がまだ完全に乾いていない。
柔らかな香りがふわりと届く。
和春の視線が一瞬だけ止まる。
「……」
すぐ画面へ戻す。
「この売り場、死角できる」
「はい。防犯カメラの死角にもなりますね」
指が重なる。
タブレットをスクロールしようとして、同じ場所に触れた。
止まる。
離れるまでの一秒が長い。
愛華は何事もないように指を退ける。
「和春、少し右」
「……ああ」
声がわずかに低い。
ポーカーフェイスは崩れていない。
だが、ほんの少しだけ呼吸が乱れる。
愛華がページを拡大するため前かがみになる。
距離が縮まる。
肩が完全に触れる。
熱が伝わる。
「……愛華」
「はい」
「集中しろ」
「してます」
「してない」
小さく笑う気配。
「和春がしてません」
和春は何も言わない。
ただ視線を画面に戻す。
しかし、次のページをめくる手が止まる。
愛華の濡れた髪先が腕に触れていた。
わずかな水滴。
一瞬、視線が落ちる。
すぐ戻す。
「……乾かしてこい」
「乾いてます」
「乾いてない」
「問題ありません」
間。
和春は小さく息を吐く。
「……仕事の効率が落ちる」
愛華は少しだけ視線を逸らす。
「誰のですか」
答えはない。
沈黙だけが落ちる。
同じ画面を見ているのに、内容が頭に入らない。
距離は変わらないまま。
夜だけが深くなっていく。
