帰りの車内
夕方の光が流れる車内。
しばらく無言のまま走る。
「……今日は終わりだな」
「はい。本日の案件は以上です」
いつもの調子。
けれど信号で車が止まった時、
助手席の気配が少し変わる。
和春が横目で見る。
愛華が背もたれに深く預けて――
シートベルトに引かれる位置のまま、わずかにこちらへ体を傾けていた。
距離が、近い。
「どうした」
「少し、疲れました」
珍しい言葉。
和春は前を向いたまま言う。
「珍しいな」
「気を張る仕事でしたから」
走り出す。
次の瞬間、
控えめに袖が引かれる。
和春の腕ではない。
ハンドルを持っていない側の、上着の端。
指先だけでつまんでいる。
「……おい」
「離しません」
淡々と言うが、力は弱い。
「危ねぇだろ」
「運転の邪魔はしてません」
間。
「少しだけ、このままで」
視線は前のまま。
拒まない沈黙が落ちる。
「今日の和春、怖かったです」
「警察相手だからな」
「違います」
小さな声。
「頼もしかった、です」
ハンドルを握る手がわずかに固まる。
「仕事だ」
「ええ」
愛華は袖をつまんだまま言う。
「だから、少し甘えても問題ありません」
「仕事関係ねぇだろ」
「あります。反動です」
信号の赤が車内を染める。
和春は小さく息を吐く。
「……家までだぞ」
「はい」
指は離れない。
触れてはいないのに、近い距離。
恋人じゃないのに、他人でもない距離だった。
◼️帰宅
玄関の扉が閉まる。
外の空気が遮断された瞬間、
さっきまでの距離感が、急に現実に戻る。
「おかえり」
「……ただいまです」
靴を揃える音だけが響く。
愛華は一瞬、何か言いかけて――やめた。
和春はそのまま書斎へ向かう。
「報告書まとめる。今日中に出す」
「……はい」
迷いはない声。
完全に“仕事の声”だった。
ドアが閉まる。
その音を聞いて、愛華は小さく息を吐いた。
⸻
キッチン
ポットに水を入れる。
カチ、とスイッチを押す。
(さっきまであんなに近かったのに)
カップを二つ出してしまって、
一瞬止まる。
「……違いますね」
一つを棚へ戻す。
コーヒー豆を挽く音だけが静かに流れる。
書斎の向こうではキーボードの音。
規則的で、迷いがない。
(仕事の和春)
わかっている。
あの人は切り替える。
どれだけ距離が近くても、日常に戻ると崩れない。
だから――
カップを持ち、書斎の前へ行くが、ノックはしない。
少し迷ってから、ドア横の小さな棚に置いた。
「……置いておきます」
中から「おう」とだけ返る。
それだけ。
⸻
書斎の中
和春は資料を睨んでいた。
PCの画面には数字の羅列。
コンサル報告書と、収支の整理。
公認会計士の領域だ。
売上予測、原価率、損益分岐点。
今日の案件の数字を調整していく。
だが、ふと視線がカップに止まる。
湯気がまだ残っている。
「……」
少しだけ間を置いてから口をつける。
「……苦くしたな」
小さく呟く。
⸻
キッチン
包丁の音が響く。
愛華は無言で野菜を刻む。
(甘えたかった、です)
手が止まる。
(でも、今じゃない)
火をつける。
油の弾ける音が空気を満たす。
「相方、ですから」
そう言い聞かせるように、フライパンを振る。
⸻
少し後
書斎のドアが開く。
「飯できるか」
「あと5分です」
振り向かないまま答える。
間。
背後に立つ気配。
「……今日は助かった」
愛華の手が一瞬止まる。
「仕事です」
「それだけじゃねぇよ」
沈黙。
「……」
愛華は振り向かない。
「盛り付けます。座っててください」
声は平静。
けれど耳だけ赤かった。
和春はそれを見て、何も言わずにリビングへ戻る。
⸻
触れてないのに、
さっきの車内より距離は近かった。
夕方の光が流れる車内。
しばらく無言のまま走る。
「……今日は終わりだな」
「はい。本日の案件は以上です」
いつもの調子。
けれど信号で車が止まった時、
助手席の気配が少し変わる。
和春が横目で見る。
愛華が背もたれに深く預けて――
シートベルトに引かれる位置のまま、わずかにこちらへ体を傾けていた。
距離が、近い。
「どうした」
「少し、疲れました」
珍しい言葉。
和春は前を向いたまま言う。
「珍しいな」
「気を張る仕事でしたから」
走り出す。
次の瞬間、
控えめに袖が引かれる。
和春の腕ではない。
ハンドルを持っていない側の、上着の端。
指先だけでつまんでいる。
「……おい」
「離しません」
淡々と言うが、力は弱い。
「危ねぇだろ」
「運転の邪魔はしてません」
間。
「少しだけ、このままで」
視線は前のまま。
拒まない沈黙が落ちる。
「今日の和春、怖かったです」
「警察相手だからな」
「違います」
小さな声。
「頼もしかった、です」
ハンドルを握る手がわずかに固まる。
「仕事だ」
「ええ」
愛華は袖をつまんだまま言う。
「だから、少し甘えても問題ありません」
「仕事関係ねぇだろ」
「あります。反動です」
信号の赤が車内を染める。
和春は小さく息を吐く。
「……家までだぞ」
「はい」
指は離れない。
触れてはいないのに、近い距離。
恋人じゃないのに、他人でもない距離だった。
◼️帰宅
玄関の扉が閉まる。
外の空気が遮断された瞬間、
さっきまでの距離感が、急に現実に戻る。
「おかえり」
「……ただいまです」
靴を揃える音だけが響く。
愛華は一瞬、何か言いかけて――やめた。
和春はそのまま書斎へ向かう。
「報告書まとめる。今日中に出す」
「……はい」
迷いはない声。
完全に“仕事の声”だった。
ドアが閉まる。
その音を聞いて、愛華は小さく息を吐いた。
⸻
キッチン
ポットに水を入れる。
カチ、とスイッチを押す。
(さっきまであんなに近かったのに)
カップを二つ出してしまって、
一瞬止まる。
「……違いますね」
一つを棚へ戻す。
コーヒー豆を挽く音だけが静かに流れる。
書斎の向こうではキーボードの音。
規則的で、迷いがない。
(仕事の和春)
わかっている。
あの人は切り替える。
どれだけ距離が近くても、日常に戻ると崩れない。
だから――
カップを持ち、書斎の前へ行くが、ノックはしない。
少し迷ってから、ドア横の小さな棚に置いた。
「……置いておきます」
中から「おう」とだけ返る。
それだけ。
⸻
書斎の中
和春は資料を睨んでいた。
PCの画面には数字の羅列。
コンサル報告書と、収支の整理。
公認会計士の領域だ。
売上予測、原価率、損益分岐点。
今日の案件の数字を調整していく。
だが、ふと視線がカップに止まる。
湯気がまだ残っている。
「……」
少しだけ間を置いてから口をつける。
「……苦くしたな」
小さく呟く。
⸻
キッチン
包丁の音が響く。
愛華は無言で野菜を刻む。
(甘えたかった、です)
手が止まる。
(でも、今じゃない)
火をつける。
油の弾ける音が空気を満たす。
「相方、ですから」
そう言い聞かせるように、フライパンを振る。
⸻
少し後
書斎のドアが開く。
「飯できるか」
「あと5分です」
振り向かないまま答える。
間。
背後に立つ気配。
「……今日は助かった」
愛華の手が一瞬止まる。
「仕事です」
「それだけじゃねぇよ」
沈黙。
「……」
愛華は振り向かない。
「盛り付けます。座っててください」
声は平静。
けれど耳だけ赤かった。
和春はそれを見て、何も言わずにリビングへ戻る。
⸻
触れてないのに、
さっきの車内より距離は近かった。
