ホテルを出ると、朝の空気は思ったより冷たかった。
夜の温度がまだ残っている身体に、現実が触れる。
しばらく無言で歩く。
歩幅は同じはずなのに、少しだけ距離がある。
和春はいつも通りだった。
速度も、姿勢も、視線の向きも。
変わらない。
変わっていないのに――
愛華だけが、変わってしまった気がした。
(……あれ)
胸の奥が、少しざわつく。
自分から誘った。
あの夜、止めなかったのは自分だ。
お酒のせいにする逃げ道も、もう残っていない。
なのに。
隣を歩く男は、普段と同じ顔をしている。
(私だけ……意識してます?)
わずかに眉が寄る。
歩く足が少し遅れる。
それでも和春は振り返らない。
ただ、歩幅だけを自然に合わせる。
そのさりげなさが、少しだけ腹立たしい。
(何も変わらないんですか)
胸の奥に小さな棘が刺さる。
身体の距離は越えた。
でも、言葉は越えていない。
好きとも、付き合うとも――言っていない。
だからこれは、何なのか。
思考がそこで止まる。
(名前のない関係……)
――違う。
すぐに自分で否定する。
(私たちは)
一歩、前に出る。
和春の隣へ並ぶ。
「……」
言葉は出さない。
ただ同じ歩幅に戻る。
(相方兼メイドです)
それが二人の名前だ。
和春が普通でいるなら、
今はそれでいい。
そう決めると、少しだけ息が楽になる。
朝の光の中、
二人は並んで歩き続けた。
⸻
― 帰り道 ―
しばらく歩いて、和春が先に口を開いた。
「腹減ってねぇか」
唐突だった。
愛華は一瞬だけ間を空ける。
「……減ってません」
「そうか」
それ以上続かない。
数歩進む。
「和春は?」
「減ってる」
「ではコンビニ寄りますか」
「いや、帰る」
いつも通りの調子。
その“いつも通り”が、少しだけ引っかかる。
愛華は横目で見る。
変わらない歩幅。
変わらない声。
(本当に……何もない顔ですね)
少しだけ唇を尖らせる。
「……昨夜」
言いかけて、止める。
和春は特に反応しない。
代わりに、
「今日の予定確認したか」
仕事の声だった。
愛華の背筋が自然と伸びる。
「はい。本日は店舗コンサルです」
「業種」
「コンセプトカフェ。アルコール提供あり。
ただし隣席接客は無し、キャバクラ形態ではありません」
「イベント型か」
「ええ。コスプレイベント・グッズ販売・キャストドリンクが主収益ですね」
仕事の話になると、空気が安定する。
「トラブル系か、売上系か」
「両方です。客層と接客距離の線引きが曖昧になり始めています」
「ありがちだな」
一拍。
愛華は小さく息を吐く。
(……助かります)
いつもの距離。
いつもの会話。
それでいい。
今は、それで。
⸻
― 帰宅 ―
玄関のドアが閉まる。
靴を脱いだ瞬間、少しだけ空気が緩む。
だが愛華はすぐに動いた。
「先に準備します」
寝室へ向かい、数分後。
いつものメイド服姿で戻ってくる。
表情も、声も、整っている。
「資料、タブレットにまとめてあります」
「早いな」
「移動中に」
和春はソファに座りながら頷く。
「問題点は?」
愛華が淡々と説明を始める。
「キャストドリンクによる滞在時間の偏り。
特定客との関係が深くなりすぎ、疑似接待化しています」
「線引きが崩れてるな」
「はい。隣に座らない形式でも“特別扱い”が発生しています」
「コンカフェの一番壊れやすいところだな」
愛華が頷く。
「イベント時はさらに顕著です。
コスプレ衣装で距離が縮まり、勘違いする客が増えています」
「キャバ化しかけてる」
「その通りです」
一拍置く。
「本来は“会話の体験価値”の店ですが、
“疑似関係の価値”へ移行し始めています」
和春が小さく笑う。
「じゃあ直すか」
仕事の空気に戻る。
愛華も頷く。
「はい」
ほんの一瞬だけ、
二人の視線が合った。
それ以上は、何も言わない。
