「……そろそろ帰るぞ」
和春が立ち上がる。
カードで会計を済ませると、愛華の肩に軽く手を添えた。
「歩けるか」
「たぶん」
たぶん、と言った瞬間にふらつく。
「たぶんじゃねぇな」
腕を取ると、愛華は自然に寄りかかってくる。
さっきと同じ距離。
店を出ると、夜風が頬に触れた。
タクシーを呼ぼうとスマホを取り出した瞬間――
「……待ってください」
袖を掴まれる。
「風、当たりたいです」
「酔ってるときの外は危ねぇ」
「大丈夫です」
大丈夫と言いながら、もう片方の腕に抱きつく。
「ほら危ねぇ」
「和春がいます」
即答だった。
諦めたように息を吐き、
スマホをしまう。
「少しだけだぞ」
「はい」
歩き出す。
愛華は離れない。
腕に体重を預けたまま、ゆっくり進む。
夜の街は静かだった。
信号待ち。
愛華が肩へ額を寄せる。
「……外、気持ちいいです」
「冷えるぞ」
「温かいので平気です」
腕を抱く力が少し強くなる。
数分歩く。
足取りは遅い。
だが、どちらも急がない。
やがて――
通りの先に、ネオンが見えた。
ピンク色の控えめな光。
和春の足が一瞬止まる。
愛華も止まる。
視線の先を見て、小さく呟いた。
ホテル前
「……休憩します」
冗談の声音だった。
けれど、腕を掴む力だけが冗談じゃない。
和春はすぐに答えない。
ネオンの光が二人の足元を染める。
「歩けなくなりました」
「さっき歩いてただろ」
「……今、歩けません」
顔を上げないまま言う。
沈黙。
夜風が通り過ぎる。
愛華の指が、ゆっくり離れかける。
「嫌なら、やめます」
弱い声だった。
冗談の逃げ道。
断られても壊れないための言葉。
その瞬間――
和春の手が、わずかに動いた。
離れかけた指を、止める。
「……入るぞ」
短く言う。
愛華の呼吸が止まる。
⸻
― 室内 ―
静かな部屋だった。
外のネオンがカーテン越しにぼやけている。
急に現実味がなくなる。
ドアが閉まる音だけが、はっきり響いた。
さっきまで支えられていた距離が、消える。
数歩分の空間。
それだけで、空気が変わる。
愛華が小さく息を吐く。
「……すみません」
「何が」
「お酒のせいです」
一拍置く。
「たぶん」
和春は何も言わない。
愛華は続ける。
「今日だけです」
自分に言い聞かせるような声。
「忘れてください」
静かな沈黙が落ちる。
和春が近づく。
一歩だけ。
それだけで距離が戻る。
「忘れねぇよ」
低い声。
愛華が顔を上げる。
視線が揺れる。
「……困ります」
和春は答えない。
代わりに、軽く額に触れる距離で止まる。
触れないまま。
「帰るか」
逃げ道の言葉。
愛華の指が、そっとシャツを掴む。
「……帰りません」
小さな声。
「今日は」
続けられない。
代わりに目を閉じる。
数秒の沈黙。
それから――
和春の手が背に回る。
抱き寄せるほど強くない。
離れない程度。
愛華の肩の力が抜ける。
額が胸元に触れる。
「……今だけです」
言い訳の声。
和春は否定しない。
⸻
カーテンの隙間から光が揺れる。
言葉はもう続かなかった。
