Boundary & Mind     心の境界線

氷が溶けるのが早い。

和春は、もう一杯頼んでいた。

「珍しいですね、今日は」

店主がグラスを差し出す。

「そうか?」

「ええ。いつもは止める側でしょう」

和春は答えない。
代わりにグラスを傾ける。

喉を落ちる酒の熱が、妙に静かだった。

隣で愛華がメニューを見ている。

「……それ、強いぞ」

「知っています」

指差したのは、いつも頼まない銘柄だった。

「やめとけ」

「大丈夫です」

珍しく、引かない。

和春は一瞬だけ視線を向けたが、止めなかった。

「……好きにしろ」

運ばれてきたグラス。
透明な液体に光が揺れる。

愛華は一口飲んだ。

数秒、何も言わない。

それから――小さく息を吐いた。

「……熱いですね」

「言ったろ」

だがグラスは置かない。
二口、三口と続ける。

その頃には、目の焦点が少しだけ柔らいでいた。

⸻

時間が過ぎる。

会話は途切れ途切れ。
けれど居心地は悪くない。

愛華がカウンターに肘をつく。

普段は絶対にやらない姿勢だった。

「……和春」

呼び方が、少しだけ遅い。

「なんだ」

返事も、少し柔らかい。

愛華はしばらく何も言わない。
ただ、和春の横顔を見ている。

そして、ゆっくり身体を寄せた。

肩が触れる。

離れない。

店主が一瞬だけ視線を上げ、何も言わずグラスを拭き始めた。

周囲の客から見れば、完全に恋人の距離だった。

和春は動かない。

「……酔ってるな」

「少しだけです」

声が近い。

近すぎる。

愛華は額を軽く肩へ預ける。

「おい」

拒まないことを分かっている距離だった。

「……今日は、静かですね」

「いつもだろ」

「違います」

小さく首を振る。

髪が触れる。

「今日は、優しいです」

和春は何も答えない。

代わりにグラスを持つ手が止まる。

愛華の指が袖を軽くつまんだ。

無意識の動き。

「……離れろ」

声は強くない。

愛華は少しだけ笑う。

「嫌です」

周囲の客がちらりと見る。

完全に、甘えている恋人のそれだった。

「和春、温かいですね」

「酒のせいだ」

「そうかもしれません」

だが離れない。

むしろ距離はゼロに近い。

肩に預けたまま、ぽつりと呟く。

「……安心します」

和春の視線が一瞬だけ揺れた。

しかし、それ以上は動かない。

拒まない。

受け入れもしない。

ただ、その距離を保つ。

店主が水を置いた。

「お連れさん、ペース速いですよ」

「分かってる」

愛華は顔を上げないまま言う。

「帰りません」

「まだ帰らん」

短い返答。

そのまま沈黙。

だが、互いに離れない。

グラスの氷が鳴る音だけが、静かに響いていた。