相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

夕方の道路は少し混んでいた。

 エンジン音と、規則的なウインカーの音だけが車内に流れる。

 神代和春はハンドルを握ったまま前を見ている。

 隣の助手席。

 タブレットを膝に置いたまま、天城愛華は静かに外を眺めていた。

 ――講義中。

 胸の奥で何かがはっきりした。

 でも。

 それを言葉にする気はない。

(言語化は認知を固定する)

 心理学の基本。

 感情に名前を与えた瞬間、脳はそれを現実として整理してしまう。

 まだいい。

 考えているだけなら、制御できる。

 視線を少しだけ横へ動かす。

 ハンドルを握る和春の手。

 落ち着いた呼吸。

 何も変わっていない横顔。

 ――だからこそ。

 小さく口を開いた。

「……如月弁護士と、昔ご関係があったんですか?」

 声はいつも通り。

 でも、ほんの少しだけ硬い。

「随分と親しそうでしたが」

 毒舌ではない。

 ただの質問でもない。

 少しだけ――棘がある。

 和春の指先が、ハンドルの上でわずかに止まる。

「……」

 すぐには答えない。

 ウインカーの音が続く。

 信号で車が止まった。

 沈黙。

 愛華は自分でも分かるくらい、呼吸が浅くなっているのを感じた。

(……聞く必要、ありましたか)

 内心で自分に問いかける。

 けれど。

 もう遅い。

 和春は少し困ったように息を吐いた。

「……別に大した話じゃねぇ」

 前を向いたまま言う。

 でも言葉を選んでいるのが分かる。

 その曖昧さに、胸の奥がわずかにざわついた。

 愛華は視線を落とす。

 そして――

 自分でも少し驚くほど自然に、言葉が出た。

「昔の……恋人とかですか?」

 最後だけ少し声が小さくなる。

 複雑そうな顔。

 それを自覚した瞬間、心臓が一拍だけ強く鳴った。

 和春が小さく息を吐いた。

「ちげぇーよ……」

 信号が青に変わる。

 車がゆっくり動き出す。

「昔、ちゃんと断った」

 短い言葉。

 余計な説明はない。

 でも。

 嘘じゃないと分かる声だった。

「……」

 愛華は何も言わない。

 和春は続けた。

「まぁ……なんだかんだで、友人みたいな関係はあるけどな」

 少し困ったような表情。

 ハンドルを握る手が、ほんの少しだけ力を抜いた。

 車内に静かな空気が戻る。



■ 言葉にしない理解

(……そう、ですか)

 胸の奥が少し軽くなる。

 理由は言葉にしない。

 しない方がいい。

 分かっている。

 心理学的にも。

 言葉は感情を固定する。

 ラベルは思考を閉じる。

 だから。

 ただ考えるだけでいい。

 それならまだ、ブレーキは効く。

 窓の外に流れる夕焼け。

 愛華は小さく息を整えた。

「……如月弁護士、優秀な方でしたね」

 話題を戻す。

 いつもの仕事のトーン。

「まぁな」

「ハルくん、と呼ばれていました」

 ほんの少しだけ間を置いて言う。

 棘は、もうほとんどない。

 和春は苦笑した。

「昔からだ」

「……そうですか」

 短い返事。

 それ以上は追及しない。

 助手席の距離。

 近すぎず、遠すぎない。

 でも。

 愛華の中だけで、ひとつだけ変わったことがある。

(……この隣は)

 自分が立つ場所だと、理解してしまった。

 言葉にはしない。

 けれど。

 確かにそこにある感覚。

 夕焼けがフロントガラスを染める。

 名前のない関係。

 それでも。

 隣にいる理由は、もう迷わなかった。