相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

 玄関のドアが閉まる音が、家の中に柔らかく響いた。

「……ただいま」

 和春が短く言う。

「おかえりなさい」

 愛華は靴を揃えながら答えた。

 外の空気が切り替わる。

 それはいつもと同じはずなのに、今日は少しだけ違った。

 ――恋愛リアリティの会議。

 あの時間が、まだ胸のどこかに残っている。

 愛華は自然な動きでキッチンへ向かった。

「先に食事、作りますね」

「ああ。俺は少し仕事やる」

 和春はリビングのテーブルにノートパソコンを開く。

 キーボードを叩く音が、静かに部屋に広がった。

 それは、いつもの光景だった。

■ キッチン

 水の音。

 まな板に包丁が当たる音。

 フライパンに火が入る小さな音。

 日常のリズムが、少しずつ部屋を満たしていく。

 愛華は手を動かしながら、無意識に視線を横へ向けた。

 リビング。

 和春は画面に向かい、淡々と資料を修正している。

 姿勢も、表情も、いつも通り。

(……意識、してないんでしょうか)

 ふと、そんな考えがよぎる。

 すぐに首を振る。

 仕事だ。

 生活だ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 包丁を動かす手が、ほんの少しだけ遅れる。

 頭の中に浮かぶのは、会議での言葉。

 距離が近いと、
 好意と錯覚は混ざる。

 なら。

 最近のこの感覚は――

(……錯覚)

 そう整理すれば、楽なはずだった。

 なのに、なぜか胸が少しだけ痛む。

■ リビング

 和春はキーボードを叩きながら、時々キッチンの気配を感じていた。

 料理の匂い。

 足音。

 食器が触れる音。

 いつも通り。

 だが、今日は妙に静かだ。

「……愛華」

「はい?」

 すぐに返事が返ってくる。

「無理すんな。簡単なのでいい」

「分かっています」

 短い会話。

 それだけなのに、愛華の胸が少しだけ揺れた。

(……優しい)

 いつも通りの言葉。

 でも今日は、少し違って聞こえる。

■ 食事

 テーブルに並んだのは、軽めの和食だった。

「今日はあっさりです」

「助かる」

 二人で向かい合って座る。

 会話は少ない。

 だが、不思議と居心地はいい。

 愛華は箸を持ちながら、何度か視線を上げた。

 和春の目線は、食事と資料を行き来している。

 いつも通り。

 変わらない。

 変わっていないはずなのに――

(……どうして、気になるんでしょう)

 食事を終え、食器を片付ける。

 水の音が流れる。

 その背中越しに、キーボードの音が聞こえる。

 一定のリズム。

 落ち着く音。

 でも今日は、妙に意識してしまう。

■ 気づき未満

 愛華は手を拭き、ふとリビングを見た。

 和春の横顔。

 真剣な表情。

 何も変わらないはずの距離。

 なのに、なぜか少し遠く感じる。

(……私)

 思考が止まる。

 胸の奥に、小さな疑問が浮かんだ。

 和春は、私のことを――

 まったく意識していないんでしょうか。

 その瞬間、自分でも驚くほど自然に、次の考えが浮かんだ。

(……あれ?)

 息が、少しだけ浅くなる。

(私……)

 和春に、意識してほしいって……思ってる?

 手に持っていたタオルが、わずかに止まる。

 すぐに、首を横に振った。

「……違います」

 小さく呟く。

 聞こえないほどの声で。

 これは仕事の距離だ。

 相方としての感情だ。

 それ以上ではない。

 そう思おうとして――

 なぜか胸の奥が少し熱くなった。

■ ソファ

「……終わった」

 和春がノートパソコンを閉じる。

 その音に、愛華は少しだけ肩を揺らした。

「お疲れさまです」

 自然に言葉が出る。

 和春はソファに身体を預けた。

 愛華も、少し間を置いて隣に座る。

 距離は、前と同じ。

 触れていない。

 でも体温が分かる。

 沈黙。

 静かな時間。

 テレビもつけない。

 ただ、二人で座っているだけ。

 なのに、心臓の音だけがやけに大きい。

(……意識してほしいなんて)

 そんなこと、思っていないはずなのに。

 思っていない、と言い切れない自分がいる。

 愛華は、そっと視線を横へ向けた。

 和春は目を閉じ、少しだけ休んでいる。

 無防備な横顔。

 仕事中とは違う、静かな表情。

 その姿を見ていると――

 胸の奥が、ふっと柔らかくなった。

 理由は、まだ分からない。

 名前も、つけられない。

 ただ。

 この距離が、少しだけ特別に感じ始めていることだけは、確かだった。