夜の道路を、車が静かに走っていた。
ハンドルを握っているのは神代和春。
一定の速度。
無駄のない操作。
助手席では、天城愛華がシートベルトに軽く背を預けていた。
会議が終わってから、まだあまり言葉を交わしていない。
エンジン音だけが、車内に穏やかに響いている。
「……静かですね」
愛華がぽつりと呟く。
「いつもだろ」
短い返事。
和春は前を見たまま、視線を動かさない。
その横顔を、愛華は無意識に見ていた。
街灯の光が流れるたび、輪郭がわずかに浮かび上がる。
(……錯覚)
会議室で聞いた言葉が、頭の中で繰り返される。
距離が近いと、
好意と錯覚は混ざる。
心理学的には正しい。
だからこそ、厄介だった。
愛華は視線を前に戻す。
だが数秒後、また横を見てしまう。
運転中の和春は、いつも通り静かだった。
無理に会話を作らない。
沈黙を嫌がらない。
その空気が、妙に落ち着く。
(……仕事の帰りです)
自分に言い聞かせる。
だが思考は、会議の内容から離れていく。
昨夜のソファ。
白湯の湯気。
体温が分かる距離。
そして――
脱衣所での事故。
風呂上がりで、体を拭いていた瞬間。
開かれた扉。
合ってしまった視線。
悪い…の言葉で閉じられた扉。
それなのに。
あの一瞬が、まだ消えない。
「……愛華」
「はい」
名前を呼ばれ、肩がわずかに揺れる。
「寒くないか」
「……大丈夫です」
短いやり取り。
それだけなのに、胸の奥が少し温かい。
和春は、再び前を見る。
何も気にしていないような声。
それが、余計に意識を引き寄せる。
赤信号で車が止まった。
静止した時間。
横顔を見る。
まばたきの間隔。
ハンドルに置かれた手。
呼吸のリズム。
何も変わっていないはずなのに。
なぜか、少しだけ近く感じる。
(……錯覚)
その言葉を思い浮かべた瞬間、
胸の奥が小さく揺れた。
本当に、そうなのか。
もし全部が環境の影響なら。
この落ち着く感覚も、
ただの条件反射なのか。
信号が青に変わる。
車が再び走り出した。
「……さっきの会議」
愛華が口を開きかけて、少し迷う。
「……私、変なこと言いましたよね」
「どれだ」
「近い距離だからこそ、生まれるものもあるって」
ほんの少しだけ、声が小さい。
和春はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙。
「……別に」
それだけ。
否定もしない。
掘り下げもしない。
ただ、受け止めただけの返事。
その距離感が、妙に胸に残る。
(……どうして)
もっと理屈で返す人のはずなのに。
今日は、違う。
愛華は窓の外を見る。
夜の街が流れていく。
車内は静かだった。
音楽も流していない。
エンジン音だけ。
なのに、沈黙は重くない。
むしろ、落ち着く。
だから余計に、分からなくなる。
この感覚が、何なのか。
ただの錯覚なのか。
それとも――
考えそうになり、愛華は小さく息を吐いた。
(……仕事です)
そう思うことで、線を引く。
相方としての距離。
それ以上でも、それ以下でもない。
車が自宅の近くへ差しかかる。
「……もうすぐ着くな」
「はい」
短い会話。
それだけなのに、心臓が少し速くなる。
名前はまだない。
名前をつける必要もない。
ただ。
隣にいることが、
ほんの少しだけ、前より意識に残る夜だった。
ハンドルを握っているのは神代和春。
一定の速度。
無駄のない操作。
助手席では、天城愛華がシートベルトに軽く背を預けていた。
会議が終わってから、まだあまり言葉を交わしていない。
エンジン音だけが、車内に穏やかに響いている。
「……静かですね」
愛華がぽつりと呟く。
「いつもだろ」
短い返事。
和春は前を見たまま、視線を動かさない。
その横顔を、愛華は無意識に見ていた。
街灯の光が流れるたび、輪郭がわずかに浮かび上がる。
(……錯覚)
会議室で聞いた言葉が、頭の中で繰り返される。
距離が近いと、
好意と錯覚は混ざる。
心理学的には正しい。
だからこそ、厄介だった。
愛華は視線を前に戻す。
だが数秒後、また横を見てしまう。
運転中の和春は、いつも通り静かだった。
無理に会話を作らない。
沈黙を嫌がらない。
その空気が、妙に落ち着く。
(……仕事の帰りです)
自分に言い聞かせる。
だが思考は、会議の内容から離れていく。
昨夜のソファ。
白湯の湯気。
体温が分かる距離。
そして――
脱衣所での事故。
風呂上がりで、体を拭いていた瞬間。
開かれた扉。
合ってしまった視線。
悪い…の言葉で閉じられた扉。
それなのに。
あの一瞬が、まだ消えない。
「……愛華」
「はい」
名前を呼ばれ、肩がわずかに揺れる。
「寒くないか」
「……大丈夫です」
短いやり取り。
それだけなのに、胸の奥が少し温かい。
和春は、再び前を見る。
何も気にしていないような声。
それが、余計に意識を引き寄せる。
赤信号で車が止まった。
静止した時間。
横顔を見る。
まばたきの間隔。
ハンドルに置かれた手。
呼吸のリズム。
何も変わっていないはずなのに。
なぜか、少しだけ近く感じる。
(……錯覚)
その言葉を思い浮かべた瞬間、
胸の奥が小さく揺れた。
本当に、そうなのか。
もし全部が環境の影響なら。
この落ち着く感覚も、
ただの条件反射なのか。
信号が青に変わる。
車が再び走り出した。
「……さっきの会議」
愛華が口を開きかけて、少し迷う。
「……私、変なこと言いましたよね」
「どれだ」
「近い距離だからこそ、生まれるものもあるって」
ほんの少しだけ、声が小さい。
和春はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙。
「……別に」
それだけ。
否定もしない。
掘り下げもしない。
ただ、受け止めただけの返事。
その距離感が、妙に胸に残る。
(……どうして)
もっと理屈で返す人のはずなのに。
今日は、違う。
愛華は窓の外を見る。
夜の街が流れていく。
車内は静かだった。
音楽も流していない。
エンジン音だけ。
なのに、沈黙は重くない。
むしろ、落ち着く。
だから余計に、分からなくなる。
この感覚が、何なのか。
ただの錯覚なのか。
それとも――
考えそうになり、愛華は小さく息を吐いた。
(……仕事です)
そう思うことで、線を引く。
相方としての距離。
それ以上でも、それ以下でもない。
車が自宅の近くへ差しかかる。
「……もうすぐ着くな」
「はい」
短い会話。
それだけなのに、心臓が少し速くなる。
名前はまだない。
名前をつける必要もない。
ただ。
隣にいることが、
ほんの少しだけ、前より意識に残る夜だった。
