会議室は、思っていたよりも静かだった。
テレビ局の一角。
ガラス張りの壁越しに、忙しなく行き交うスタッフの姿が見える。
だが、この部屋の中だけは、妙に落ち着いていた。
「本日はお時間ありがとうございます」
プロデューサーが頭を下げる。
机の上には、分厚い企画書が積まれている。
タイトルはシンプルだった。
――「大学生のリアルな恋」
神代和春は、その文字を一度だけ見て、視線を落とした。
天城愛華は、すでにページをめくり始めている。
指先の動きが、いつもよりほんのわずかに遅い。
(……大学生)
それだけの言葉に、なぜか引っかかりを覚える。
理由は分からない。
分からないからこそ、愛華は何も言わず、読み進めた。
■ 企画の説明
「今回の企画は、
いわゆる恋愛リアリティです」
プロデューサーが続ける。
「男女数名が共同生活を送り、
台本は最小限。
“本当の恋”が生まれる過程を、
できるだけリアルに映したい」
和春は、相槌も打たずに聞いている。
愛華は、黙ってメモを取っていた。
「ただ……」
プロデューサーは一度、言葉を切る。
「過去の類似企画で、
出演者が精神的に不安定になったケースがありまして」
空気が、少しだけ変わる。
「炎上。
SNSでの誹謗中傷。
放送後の人間関係の崩壊」
その言葉を聞いても、和春の表情は変わらない。
「今回は、
心理面の安全設計をしっかり組みたい」
それが、この場に呼ばれた理由だった。
■ 和春の最初の一言
「まず確認したい」
和春が、初めて口を開いた。
声は低く、落ち着いている。
「この企画で、
“リアルな恋”とは何を指している?」
プロデューサーが一瞬、言葉に詰まる。
「……感情が動くこと、ですかね」
「それは結果だ」
和春は、静かに切り返す。
「感情が動く“仕組み”を、
どこまで演出するつもりだ」
会議室が静まる。
スタッフの一人が、恐る恐る口を開いた。
「距離の近さ、
共同生活、
日常的な接触……」
和春は頷いた。
「つまり、
感情誘導はする」
否定ではない。
事実の確認だった。
愛華は、そのやり取りを聞きながら、
企画書のある一文に目を止めていた。
――「カメラは基本的に常時オン」
(……常に、見られる)
その状況を、
自分の生活と重ねてしまいそうになり、
すぐに思考を切り替える。
仕事だ。
■ 境界線の話
「恋愛リアリティで一番危険なのは」
和春が言う。
「恋そのものじゃない」
プロデューサーが身を乗り出す。
「何でしょう」
「境界線が、
本人にも分からなくなることだ」
和春は、ホワイトボードに一本の線を引いた。
「好意」
線の片側に書く。
「錯覚」
反対側に書く。
「距離が近いと、
この二つは簡単に混ざる」
愛華のペンが、一瞬だけ止まった。
(……錯覚)
その言葉が、胸の奥に残る。
「さらに」
和春は続ける。
「そこに
“視聴者の視線”が加わる」
別の言葉を書く。
――承認欲求
「誰かに見られている状態での恋は、
純度が上がるんじゃない」
和春は、はっきりと言った。
「歪む」
会議室に、重い沈黙が落ちる。
■ 愛華の補足
「補足します」
愛華が、静かに口を開いた。
声はいつも通り冷静だった。
「若年層の場合、
自己概念がまだ安定していません」
数名が頷く。
「“自分は誰かにどう見られているか”
それ自体が、
行動の指針になりやすい」
愛華は、企画書の該当箇所を指す。
「共同生活。
カメラ常設。
そして恋愛という強い感情刺激」
淡々と、事実を並べる。
「適切な心理的ケアがなければ、
番組終了後に
“自分が分からなくなる”参加者が出ます」
その言葉に、プロデューサーの表情が引き締まった。
■ 和春の提案
「企画自体を否定するつもりはない」
和春が言う。
「恋愛を描くことも、
感情が動くことも、
悪じゃない」
一度、間を置く。
「だが」
声が低くなる。
「責任は、
演出する側が持て」
和春は、企画書を閉じた。
「・カメラオフの時間を設ける
・心理面の定期面談
・番組終了後のフォロー」
一つずつ、挙げていく。
「“リアル”を売るなら、
“現実に戻る導線”も
同時に設計しろ」
プロデューサーは、深く息を吐いた。
「……正直、
そこまで考えられていませんでした」
「だから、今ここで話している」
和春の声は、責める調子ではなかった。
ただ、線を引いているだけだった。
■ 愛華の一瞬の揺らぎ
会議が終盤に差しかかった頃。
愛華は、無意識に口を開いていた。
「……でも」
全員の視線が、彼女に集まる。
愛華自身も、少し驚いた。
「近い距離だからこそ、
生まれるものも……
ありますよね」
言い終えた瞬間、
自分が何を言ったのか、
分からなくなる。
仕事としては、
言わなくてもよかった一言。
和春が、ほんの一瞬だけ愛華を見る。
何も言わない。
何も聞かない。
その沈黙が、
逆に胸に残った。
(……今の、何)
愛華は、視線を落とす。
ペンを握る指に、
わずかに力が入る。
■ 会議の終わり
「……非常に参考になりました」
プロデューサーが頭を下げる。
「この企画、
一度持ち帰って
再設計します」
Boundary & Mindの二人は、静かに席を立った。
仕事は、きちんと終わった。
なのに。
愛華の胸の奥に、
小さな違和感だけが残っていた。
――錯覚。
和春の言葉が、頭をよぎる。
(……じゃあ、
今感じているこれは)
愛華は、その先を考えなかった。
考えてしまうと、
仕事の線を越えてしまいそうだったから。
会議室のドアが閉まる。
外の喧騒が、戻ってくる。
恋を設計するという仕事の裏で、
名前のない感情が、
静かに息をしていた。
テレビ局の一角。
ガラス張りの壁越しに、忙しなく行き交うスタッフの姿が見える。
だが、この部屋の中だけは、妙に落ち着いていた。
「本日はお時間ありがとうございます」
プロデューサーが頭を下げる。
机の上には、分厚い企画書が積まれている。
タイトルはシンプルだった。
――「大学生のリアルな恋」
神代和春は、その文字を一度だけ見て、視線を落とした。
天城愛華は、すでにページをめくり始めている。
指先の動きが、いつもよりほんのわずかに遅い。
(……大学生)
それだけの言葉に、なぜか引っかかりを覚える。
理由は分からない。
分からないからこそ、愛華は何も言わず、読み進めた。
■ 企画の説明
「今回の企画は、
いわゆる恋愛リアリティです」
プロデューサーが続ける。
「男女数名が共同生活を送り、
台本は最小限。
“本当の恋”が生まれる過程を、
できるだけリアルに映したい」
和春は、相槌も打たずに聞いている。
愛華は、黙ってメモを取っていた。
「ただ……」
プロデューサーは一度、言葉を切る。
「過去の類似企画で、
出演者が精神的に不安定になったケースがありまして」
空気が、少しだけ変わる。
「炎上。
SNSでの誹謗中傷。
放送後の人間関係の崩壊」
その言葉を聞いても、和春の表情は変わらない。
「今回は、
心理面の安全設計をしっかり組みたい」
それが、この場に呼ばれた理由だった。
■ 和春の最初の一言
「まず確認したい」
和春が、初めて口を開いた。
声は低く、落ち着いている。
「この企画で、
“リアルな恋”とは何を指している?」
プロデューサーが一瞬、言葉に詰まる。
「……感情が動くこと、ですかね」
「それは結果だ」
和春は、静かに切り返す。
「感情が動く“仕組み”を、
どこまで演出するつもりだ」
会議室が静まる。
スタッフの一人が、恐る恐る口を開いた。
「距離の近さ、
共同生活、
日常的な接触……」
和春は頷いた。
「つまり、
感情誘導はする」
否定ではない。
事実の確認だった。
愛華は、そのやり取りを聞きながら、
企画書のある一文に目を止めていた。
――「カメラは基本的に常時オン」
(……常に、見られる)
その状況を、
自分の生活と重ねてしまいそうになり、
すぐに思考を切り替える。
仕事だ。
■ 境界線の話
「恋愛リアリティで一番危険なのは」
和春が言う。
「恋そのものじゃない」
プロデューサーが身を乗り出す。
「何でしょう」
「境界線が、
本人にも分からなくなることだ」
和春は、ホワイトボードに一本の線を引いた。
「好意」
線の片側に書く。
「錯覚」
反対側に書く。
「距離が近いと、
この二つは簡単に混ざる」
愛華のペンが、一瞬だけ止まった。
(……錯覚)
その言葉が、胸の奥に残る。
「さらに」
和春は続ける。
「そこに
“視聴者の視線”が加わる」
別の言葉を書く。
――承認欲求
「誰かに見られている状態での恋は、
純度が上がるんじゃない」
和春は、はっきりと言った。
「歪む」
会議室に、重い沈黙が落ちる。
■ 愛華の補足
「補足します」
愛華が、静かに口を開いた。
声はいつも通り冷静だった。
「若年層の場合、
自己概念がまだ安定していません」
数名が頷く。
「“自分は誰かにどう見られているか”
それ自体が、
行動の指針になりやすい」
愛華は、企画書の該当箇所を指す。
「共同生活。
カメラ常設。
そして恋愛という強い感情刺激」
淡々と、事実を並べる。
「適切な心理的ケアがなければ、
番組終了後に
“自分が分からなくなる”参加者が出ます」
その言葉に、プロデューサーの表情が引き締まった。
■ 和春の提案
「企画自体を否定するつもりはない」
和春が言う。
「恋愛を描くことも、
感情が動くことも、
悪じゃない」
一度、間を置く。
「だが」
声が低くなる。
「責任は、
演出する側が持て」
和春は、企画書を閉じた。
「・カメラオフの時間を設ける
・心理面の定期面談
・番組終了後のフォロー」
一つずつ、挙げていく。
「“リアル”を売るなら、
“現実に戻る導線”も
同時に設計しろ」
プロデューサーは、深く息を吐いた。
「……正直、
そこまで考えられていませんでした」
「だから、今ここで話している」
和春の声は、責める調子ではなかった。
ただ、線を引いているだけだった。
■ 愛華の一瞬の揺らぎ
会議が終盤に差しかかった頃。
愛華は、無意識に口を開いていた。
「……でも」
全員の視線が、彼女に集まる。
愛華自身も、少し驚いた。
「近い距離だからこそ、
生まれるものも……
ありますよね」
言い終えた瞬間、
自分が何を言ったのか、
分からなくなる。
仕事としては、
言わなくてもよかった一言。
和春が、ほんの一瞬だけ愛華を見る。
何も言わない。
何も聞かない。
その沈黙が、
逆に胸に残った。
(……今の、何)
愛華は、視線を落とす。
ペンを握る指に、
わずかに力が入る。
■ 会議の終わり
「……非常に参考になりました」
プロデューサーが頭を下げる。
「この企画、
一度持ち帰って
再設計します」
Boundary & Mindの二人は、静かに席を立った。
仕事は、きちんと終わった。
なのに。
愛華の胸の奥に、
小さな違和感だけが残っていた。
――錯覚。
和春の言葉が、頭をよぎる。
(……じゃあ、
今感じているこれは)
愛華は、その先を考えなかった。
考えてしまうと、
仕事の線を越えてしまいそうだったから。
会議室のドアが閉まる。
外の喧騒が、戻ってくる。
恋を設計するという仕事の裏で、
名前のない感情が、
静かに息をしていた。
