相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

 玄関のドアが閉まる。

 外の空気と、家の空気が入れ替わった瞬間だった。

「……ふぅ」

 神代和春が、ほとんど無意識に息を吐く。

 靴を脱ぎ、壁に軽く背を預ける。

 工場での緊張が、ゆっくりほどけていく。

「お疲れさまです、和春」

 天城愛華が鍵を閉めながら振り返る。

 今日もメイド服のまま。
 外でも家でも、それは彼女にとって自然な姿だった。

「……愛華もお疲れ」

「はい」

 それだけの会話。

 前なら、ただの帰宅だった。

 けれど今は――
 ほんの少しだけ、空気が違う。

 理由は、分かっている。

 あの日…

 脱衣所のドアをなにも考えずに開けてしまった。
 そして脱衣所で体を拭いていた愛華
 見てしまった愛華の裸体…

 すぐに視線は外した。

 でも、確かに“何か”が残った。

 それ以来、距離が同じでも、
 体温の感じ方だけが変わってしまった。

■ リビング

 ソファに腰を下ろした和春の前に、湯気の立つマグカップが置かれる。

「今日はこれです」

 白湯だった。

 和春が少しだけ眉を寄せる。

「……ブラックが――」

「ダメです」

 即座に遮られる。

 愛華は少しだけ目を細めた。

「工場で缶コーヒー飲んでましたよね」

 和春の手が止まる。

「……見てたのか」

「見てなくても分かります」

 淡々とした口調。

「なので今日は無しです」

 その言い方は、叱っているようで、
 どこか優しかった。

「相方、厳しいな」

「相方兼メイドですから」

 当然のように返される。

 愛華が隣に腰を下ろした。

 距離が近い。

 前なら何も思わなかった距離。

 今は――
 体温が分かる距離だった。

 触れてはいない。

 でも、確かに隣にいる。

 二人は白湯を飲む。

 会話は続かない。

 それでも、沈黙は不思議と心地よかった。

■ 軽い食事

「……何か食べますか?」

「軽くでいい」

「分かりました」

 愛華がキッチンに立つ。

 包丁の音。
 フライパンに火が入る音。

 日常の音が、ゆっくりと部屋を満たしていく。

 数分後。

 簡単なパスタとスープがテーブルに並んだ。

「今日は軽めです」

「十分だ」

 向かい合って座る。

 仕事の話は出ない。

 テレビもつけない。

 ただ、食器の触れる音だけが響く。

 時々、視線が合いそうになって、
 どちらかが先に逸らす。

 それが、妙にぎこちない。

 けれど、嫌じゃない。

■ ソファ

 食事を終え、二人は再びソファへ戻る。

 愛華が少し姿勢を変える。

 ソファが沈み、距離が数センチ縮まる。

 触れてはいない。

 でも、体温が分かる。

 和春は何も言わない。

 離れもしない。

 ただ、そのまま。

 愛華の髪がわずかに揺れ、
 甘い香りが近づく。

 和春は視線を落とした。

(……意識しすぎだ)

 分かっている。

 でも、あの日の光景が消えない。

 濡れた髪。
 綺麗な肌。
 驚いた瞳。

 慌てて閉じたドアの音。

「……静かですね」

 愛華がぽつりと言う。

「いつもだろ」

「今日は、特に」

 和春は答えなかった。

■ 夜の支度

 愛華が立ち上がる。

 メイド服の裾が揺れる。

「……先にお風呂どうぞ」

「いや、後でいい」

 短いやり取り。

 少し間を置いて、愛華が振り返る。

「……寝る前に」

「ん?」

「ちゃんとシャワー浴びてくださいね」

「……分かってる」

「“分かってる”じゃなくて、“はい”です」

「……はい」

 思わず笑いが混じる。

 その空気が、少しだけ柔らかい。

■ 廊下

 部屋へ向かう途中。

 二人の足音が重なる。

 距離は、前と同じ。

 でも、前とは違う。

 何もしていない。

 何も言っていない。

 それなのに。

 あの日から、
 境界線が少しだけ曖昧になった。

 和春は、愛華の背中を見る。

 愛華は、前を向いたまま歩く。

 振り返らない。

 でも、歩幅がほんの少しだけ揃っていた。

 それが、今の二人の距離だった。