相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

 講義室を出たあとも、相沢瀬奈の頭はずっと熱を持っていた。

 ノートを抱えたまま、廊下のベンチに腰を下ろす。

 ページを開いても、文字が目に入らない。

(……すごかった)

 それが、最初に浮かんだ感想だった。

 神代和春。

 昨日まで「先輩の知り合い」「話しやすい大人」くらいの認識だった人。

 それが今日――
 大講義室を静かに支配していた。

 声を荒げることもなく、
 知識を振り回すこともなく、
 ただ質問を投げて、考えさせて、気づかせる。

(……あれ、ずるい)

 瀬奈は思う。

 教えられている感覚がないのに、
 気づいたら視点が変わっている。

 それが、いちばん怖くて、いちばんすごかった。

 でも。

 瀬奈の意識は、自然と別のところへ向かっていく。

 ――天城愛華。

 メイド服で教壇横に立つ、あの姿。

(……正直、びっくりした)

 大学での愛華は、いつも完璧だった。

 冷静で、理知的で、隙がなくて。

 正直、少し怖かった。

 話しかければちゃんと答えてくれるけど、
 距離はきっちり保たれている感じ。

 それが普通だと思っていた。

 でも今日。

 和春の隣に立つ愛華は、どこか違って見えた。

 補足を入れるタイミング。
 視線の向け方。
 言葉を選ぶ間。

 全部が自然で、柔らかい。

(……あんな顔、大学に居たときは見たことない)

 誇らしそうで、安心していて、
 どこか楽しそうだった。

 瀬奈は、ノートを閉じる。

(……あれ)

 ふと、胸の奥でピースが一つはまる感覚があった。

 思い返せば、最近の愛華は変わっていた。

 話しかけたときの声が柔らかくなった。
 質問に対して、前より一歩踏み込んでくれる。
 笑う回数が、少し増えた。

 それを「忙しさが落ち着いたから」だと思っていた。

 でも、違う。

(……理由、あの人だ)

 瀬奈は、はっきりそう思った。

 和春が話しているとき、
 愛華は一度も口を挟みすぎなかった。

 でも、必要なところでは必ず補足する。

 まるで――

(……信頼してる人の隣)

 それも、かなり深い信頼。

 仕事仲間。

 相方。

 それだけじゃ説明できない距離。

 瀬奈は、ゆっくり息を吐いた。

(……先輩、気づいてないですよね)

 そこまで考えて、ふっと笑ってしまう。

 あの愛華が、自分の気持ちに鈍感。

 少し前までなら、ありえないと思っていた。

 でも、今なら分かる。

 頭がいい人ほど、
 感情を後回しにする。

 整理できないものを、
 「まだ定義できない」と棚上げする。

(……たぶん、先輩は)

(……仕事仲間として大事”って思ってるだけ)

 それが、恋に変わりかけていることに、
 まだ名前をつけていない。

 瀬奈は、立ち上がる。

 キャンパスの外へ出ると、夕方の風が吹いた。

 講義室の方向を振り返る。

 もう、二人の姿は見えない。

(……ずるいな)

 小さく呟く。

 あんな人の隣に立って、
 あんな顔をして。

 しかも本人は、
 「仕事がうまくいってるだけ」くらいに思っていそうで。

 瀬奈は苦笑する。

(……でも)

 それは、それでいいのかもしれない。

 気づいてしまうより、
 気づかないまま大切にしている時間のほうが、
 きっと、長くて、静かで、強い。

 スマホを取り出し、メモアプリを開く。

 今日の講義内容を、もう一度整理する。

 そして最後に、こう書き足した。

――
「経営は人を見ること」
 それを一番体現しているのは、
 たぶん、あの二人だ。

 瀬奈はスマホを閉じ、歩き出した。

 まだ誰にも言わない。

 まだ確信でもない。

 でも。

 先輩が、誰かを大切に思っていること。
 そしてその相手が、かなりとんでもない人だということ。

 それだけは、はっきり見えてしまった。

 ――本人が、まだ気づいていないとしても。