相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

 大学の大講義室は、開始前からざわついていた。

「今日の外部講師、誰だ?」
「経営コンサルらしい」
「若いって聞いたけど……」

 そんな声があちこちで交差する。

 後方の席に、相沢瀬奈は座っていた。

 今日は任意参加の特別講義。

 だが、内容が「実務家による経営学」と聞いて、迷わず来た。

 そして――

 教壇横の扉が開いた瞬間。

 ざわめきが、質を変えた。

「……え?」

 最初に出てきたのは、天城愛華だった。

 銀髪のロングヘア。
 そして――メイド服。

 黒を基調にした、どこまでも整った正装。

 一瞬、教室が静まり返り、次の瞬間ざわつく。

「メイド……?」
「え、コスプレ?」
「いや、雰囲気ガチじゃね?」

 瀬奈も完全に固まっていた。

(……先輩?
 え、メイド服?)

 大学で見る愛華は、常に理知的で冷静で、少し怖い先輩だった。

 そんな彼女が、メイド服で講義室に立っている。

 理解が追いつかない。

 だが愛華は、周囲の視線を一切気にしない。

 淡々と教壇横に立つ。

 そして。

 もう一人、男性が入ってきた。

 ざわめきが一瞬止まり、次に一段大きくなる。

「……若っ」
「え、あの人が講師?」

 神代和春。

 黒板の前に立ち、短く言った。

「……神代です」

 短い自己紹介。

 拍手は少ない。

 だが、興味の視線は集まっていた。

「今日は“経営”の話をする」

 黒板に一言だけ書く。

 ―― 人

 学生たちが首を傾げる。

「経営って聞くと、何思い浮かべる?」

 静かな問い。

 数人が答える。

「利益!」
「戦略!」
「マーケティング!」

 和春は頷く。

「全部正しい。けど、全部“結果”だ」

 教室が少し静まる。

「じゃあ質問」

 チョークが止まる。

「売上が落ちた店。
 最初に見るのはどこだ?」

 学生たちが考える。

「広告費?」
「値段?」
「SNS?」

 和春は首を横に振った。

「現場」

 ざわっと空気が動く。

「スタッフの顔、声のトーン、動き。
 それが経営の入口だ」

 瀬奈の手が止まる。

(……こないだと同じ話。でも、少し違う)

 和春は続ける。

「ここで専門用語。
 “心理的安全性”」

 少し間。

 愛華が一歩前に出る。

「心理的安全性とは、
 “失敗を話しても否定されない空気”です」

 学生が頷く。

「Googleの研究でも、生産性の高いチームは
 能力より“発言できる空気”が強いと言われています」

 分かりやすい補足。

 学生のペンが一斉に動く。

 和春が黒板に図を書く。

 売上=客数×客単価。

「じゃあ問題」

 教室を見渡す。

「売上を上げるなら、どっちが現実的?」

 沈黙。

 瀬奈が手を挙げる。

「……客単価?」

「理由は?」

「既存客の満足度を上げる方が、
 新規を増やすより再現性があるから……?」

 和春が少し目を細めた。

「いい答えだ」

 瀬奈の頬が少し赤くなる。

 周囲の学生が振り向く。

 講義は続く。

「マーケティングって、難しい言葉に聞こえるけど」

 黒板に書く。

 STP分析
 ・Segmentation
 ・Targeting
 ・Positioning

 学生たちがざわつく。

「怖い顔するな」

 和春が淡々と言う。

「要は“誰に売るか決めろ”って話だ」

 笑いが起きた。

 愛華が補足する。

「例えば同じコーヒーでも、
 “仕事帰りの社会人向け”か
 “学生の勉強用”かで設計が変わります」

「それがポジショニングですね」

 理解の空気が広がる。

 和春はさらに続ける。

「次。
 LTV――顧客生涯価値」

 学生がざわつく。

 愛華が横で説明する。

「一人のお客様が、
 長期的にどれだけ価値を生むか、という指標です」

「短期の売上より、
 長く関係を続ける方が利益が安定する」

 和春の言葉は短い。

 だが刺さる。

 瀬奈の心臓が少し速くなる。

(……この人、教え方が違う)

 講義はさらに深くなる。

「心理学の話も少し」

 黒板に書く。

 ・損失回避性
 ・アンカリング効果
 ・社会的証明

 学生たちがざわつく。

 愛華が一歩前に出る。

「損失回避性とは、
 “得するより損したくない”という人の心理です」

「だから“限定○名”や“残りわずか”が効く」

 和春が付け足す。

 学生たちが一斉にメモを取る。

 講義はもはや講義ではなく、対話だった。

「じゃあ逆に聞く」

 和春が教室を見渡す。

「完璧な戦略があっても、失敗する理由は?」

 沈黙。

 瀬奈が思わず呟く。

「……人が動かないから」

 和春が頷いた。

「それが経営だ」

 静かな言葉。

 教室が、完全に引き込まれていた。

 瀬奈の胸が熱くなる。

(……先輩が信頼する理由、分かる)

 そして気づく。

 横に立つ愛華の表情。

 少し誇らしげだった。

 昔の冷たい先輩じゃない。

 誰かと並んで立つ、柔らかい表情。

 講義は終盤へ。

「最後に」

 和春が言う。

「経営は、特別な才能の話じゃない」

 静かな声。

「人を見て、環境を整えて、続けるだけだ」

 教室が静まり返る。

 数秒の沈黙のあと。

 拍手が起こった。

 最初は小さく。

 だが次第に大きくなる。

 瀬奈は立ち上がりそうになるほど興奮していた。

(……すごい)

 ただの講義じゃない。

 考え方そのものを変えられた気がした。

 そして初めて思う。

(……この人、普通じゃないかもしれない)

 まだ“化け物じみた頭脳”とは気づいていない。

 でも。

 確実に、興味が芽生えていた。

 講義後。

 和春が荷物をまとめる。

 愛華が隣でタブレットを閉じる。

「……やっぱり向いてますね」

「何が」

「教育者」

 小さく笑う。

「学生、全員顔変わってました」

「そうか」

 相変わらず無自覚だ。

 講義後。

 学生たちがざわざわと立ち上がる中、瀬奈は前へ進んだ。

 瀬奈が近づいてくる。

 少し迷ってから、声をかける。

「……和春さん」

 和春が振り返る。

「今日の講義……すごかったです」

 素直な声だった。

 尊敬と驚きが、はっきり混じっている。

「こないだ、話してた人と、
 今日の講師が同じ人だって……」

 言葉を失い、少し笑う。

「……正直、まだ整理できてません」

 和春は肩をすくめた。

「よくある」

 愛華が、少し誇らしげに微笑む。

 瀬奈はその二人を見て、はっきり理解した。

 先輩が最近、柔らかくなった理由。

 怖かった先輩が、今は“憧れの先輩”になっている理由。

(……この二人、ただの仕事仲間じゃない)

 Boundary & Mind。

 境界線を越える講義は――

 学生たちだけでなく、
 一人の後輩の認識も、確かに変えていた。