Boundary & Mind     心の境界線

姉への報告を終えたあと。

愛華はしばらくスマートフォンを見つめていた。

「……」

次に残っている相手は父。

天城剛玄。

別に父親と仲が悪いわけではない。

むしろ娘として大切にされてきた自覚はある。

ただ今回の電話は少し‥いや‥かなり意味が違う。

「……はぁ」

愛華が珍しくため息をつく。

少し離れた場所で和春が見る。

「まだ電話しないの?」

「今からします」

「そうか」

「……」

「なんだよ」

「誰のせいで緊張していると思っているんですか?」

「俺?」

「あなた以外に誰がいるんです!」

「別に俺が電話してもいいぞ」

「絶対やめてください!」

即答。

絶対に最初は自分から話した方がいい。

この男に電話させたら。

『愛華と結婚前提で付き合ってる。挨拶行きたいんだけどいつ空いてる?』

本当にその程度の軽さで言いかねない。

愛華は意を決して電話をかけた。

数回のコール。

『愛華か』

聞き慣れた。

低く威厳のある声。

「父さん」

『珍しいな。どうした』

「少しお話が‥」

『ほう』

愛華は一度息を整える。

「私‥‥神代和春と、お付き合いすることになりました」

『…………』

沈黙。

「……父さん?」

そして。

『そうか』

あまりにも普通だった。

「……それだけですか?」

『何を言ってほしい』

「いえ……」

もっと驚くと思っていた。

剛玄はむしろ電話の向こうで僅かに笑っていた。

『ようやくか』

「……はい?」

『いや、何でもない』

「今、何か言いましたよね?」

『気にするな』

愛華の眉が寄る。

何だろうこの反応……

愛華は本題へ入る。

「それと和春が……」

『うむ』

「父さんに、きちんと挨拶をしたいと言っています」

『挨拶?』

「はい」

愛華は少しだけ言いづらそうに続ける。

「結婚を前提として私と付き合いたいと」

『……』

「ですので、父さんに一度お会いして、きちんと許可をいただきたいそうです」

今度こそ沈黙。

愛華の胃がきゅっと縮む。

こんな感覚仕事では滅多にない。

何百億という金が動く企業案件でも。

もっと冷静でいられる。

なのに今は父親の返事一つが妙に怖い。

『……くく』

「?」

笑った。

『ははははは!』

「……父さん?」

剛玄は明らかに愉快そうだった。

『そうかあの神代和春がな』

愛華が少し驚く。

「あの?」

『こちらの話だ』

当然剛玄は知っている娘と暮らしている男。

神代和春。以前探偵まで使い徹底的に調べた。十代で海外の大学へ進み。飛び級で卒業。

公認会計士。

社会福祉士。

精神保健福祉士。

司法試験予備試験。

そして司法試験本試験まで突破。

心理学。

経済。

法律。

会計。

福祉。

医学知識。

複数言語。

異常な記憶力。

そしてコンサルタントとして、

歩く専門書。

化け物。

そんな異名まで付けられている。

何より調べれば調べるほど仕事の実績が異常だった。

大企業だけではない。

中小企業。

個人事業主。

時には普通の個人相談。

相手によって態度を変えることもない。

金だけを追っている男でもない。

娘を任せる相手としてどこの馬の骨か分からない。

低スペックな男そんな心配をする必要は。

少なくともなかった。

むしろ剛玄にとっては別の意味で興味深い男だった。

『いいだろう』

剛玄が言う。

「……!」

愛華の表情が少し明るくなる。

『来なさい』

「ありがとうございます」

『いつがいい』

「和春は父さんの予定に合わせると言っています」

『ほう』

剛玄は少し考える。

『なら――』

いくつか。

日程を確認する。

そして一日都合のいい日を決めた。

「では、その日に」

『ああ』

「和春にも伝えておきます。」

『わかった』

ここまで驚くほどスムーズ。愛華は少しだけ安心した。

思っていたより普通に終わりそうだ。

――その時。

電話の向こう。

剛玄がふと黙った。

『……』

「父さん?」

剛玄の頭に一つ面白い考えが浮かんだ。

娘が選んだ男。

あの神代和春。

資料だけなら申し分ない。

いや、申し分ないどころではない。

頭脳。

知識。

実績。

資格。

将来性。

どれを見ても文句をつける方が難しい。

なら――本人を見てみよう。

しかもただ会うだけでは面白くない。

剛玄の口元がゆっくり上がった。

『……くく』

「……」

愛華の表情が一瞬で変わる。

「父さん」

『何だ』

「いま何か変なことを考えませんでした?」

『何も』

「絶対に嘘ですね」

『気のせいだ』

「父さん」

『では、その日に待っている』

「ちょっと――」

『和春君にもよろしく伝えておけ』

「待ってください!」

『楽しみにしているぞ』

プツッ。

通話終了。

愛華はスマートフォンを耳に当てたまま。

固まっていた。

数秒。ゆっくり下ろす。

和春が聞く。

「どうだった?」

「日程は決まりました」

「じゃあいいじゃん」

「よくありません」

「どうした?」

愛華は自分の胃の辺りを押さえる。

「……胃が痛いです」

「珍しいな」

「誰のせいですか」

「また俺?」

「今回は父もです」

和春は少し笑う。

「親父さん、なんか言ってた?」

「いえ」

愛華は嫌な予感しかしない顔で答える。

「だから怖いんです。」

「?」

「最後、明らかに何か思いついた時の父の笑い方でした。」

和春の目が少しだけ楽しそうになる。

愛華がその表情を見逃さなかった。

「和春楽しそうにしないでください。」

「してない」

「しています」

「気のせい」

「父と同じことを言わないでください」

愛華は本気で思った。

どうして自分の周りにはこういう男しかいないのだろう。

一方。

天城グループ。

社長室。

通話を終えた剛玄は椅子へ深く腰掛け。

実に楽しそうな顔をしていた。

「神代和春、か」

資料で見る限り。

化け物。

娘が自分の意思で選んだ男。

そして結婚の許可を真正面から取りに来る。

剛玄は机の上の内線電話へ手を伸ばした。

「……せっかくだ」

その顔は娘を奪われる父親というより。

面白い相手を見つけた経営者。

いや悪戯を思いついた父親の顔だった。

「少し、準備しておくか」

その頃愛華の胃が理由も分からず。

もう一度きりっと痛んだ。