相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

カフェを出たあと。

和春はすぐには車へ戻らなかった。

「ちょっと海行くか」

「いいですよ」

二人はそのまま浜辺へ向かった。

春先の海。

まだ少し冷たい風が吹いている。

ザァ――。

ザァ――。

一定の間隔で。

波が寄せては引いていく。

和春は浜辺に腰を下ろした。

愛華も隣へ座る。

しばらく二人とも何も話さなかった。

ただ海を見る。

和春は海の音が好きだった。

子供の頃から海が好きだったかと言われればそうでもない。

少なくとも特別な感情を持っていた記憶はない。

だがいつの間にか波の音を聞くと落ち着くようになった。

考えてみればそう感じるようになったのはあの事故のあとだった。

「……」

和春は海を眺めながら、ふと思い出したように口を開いた。

「そういや愛華」

「はい?」

「お前に話したことなかったな」

「何をです?」

「俺の記憶力」

愛華が和春を見る。

「記憶力?」

「ああ」

和春は砂を軽く弄る。

「俺、昔から本は好きだったんだよ」

「それは想像できます」

「普通に成績も良かった」

「……」

愛華が止まる。

「普通?」

「なんだよ」

「その記憶力で普通のわけがないでしょう」

和春が笑った。

「だから違うって」

「何がです?」

「元々は普通なんだよ」

「……和春基準では?」

「本当に普通」

「信用できませんね」

「ひでぇな」

和春は笑う。

「本読むのは好きだったし、それなりに勉強もできた。理解も早い方だったとは思う。でも学年トップだったわけでもないぞ」

愛華が少し驚く。

「本当に?」

「ああ」

「一度読んだ本を全て覚えていたとか」

「無理」

「授業を一度聞けば忘れないとか」

「ない」

「教科書を一周すれば試験で満点とか」

「普通に試験勉強してたよ」

「……」

愛華には今の和春から想像する方が難しかった。

一度見た資料。

読んだ論文。

法律。

数字。

相談者との会話。

何年も前に読んだ専門書。

必要になれば。

恐ろしい精度で引き出してくる。

歩く専門書。

そんな異名まで付けられた男が。

昔は単に少し勉強のできる少年だった。

「では」

愛華が聞く。

「いつからなんです?」

和春は海を見る。

「中学卒業したあとだな」

「卒業後?」

「ああ」

和春は少し懐かしそうに目を細める。

「高校入るまで少し時間あるだろ。その頃、祖母の実家がある島に、しばらく世話になってたんだよ」

「不思議な姉妹と出会った、あの島ですか‥」

「ああ」

「どのくらい?」

「しばらく」

「随分曖昧ですね」

「昔の話だからな」

和春は軽く笑う。

島で過ごした時間。

そこについて和春は詳しく話さなかった。

そして愛華も特に追及しなかった。

今、和春が話そうとしているのは。

そこではない。

「高校の入学準備もあるから」

和春が続ける。

「そろそろ実家に戻らなきゃならなくなって島を出た」

「船で?」

「ああ」

和春は海を見る。

「中型船。フェリーみたいな馬鹿でかいやつじゃないけど、それなりに大きい船だった。」

愛華が頷く。

「それで実家へ?」

「その予定だった」

その言い方に愛華が僅かに反応する。

「……予定?」

「ああ」

和春は淡々と続ける。

「途中で急に天気が変わった」

「天気?」

「局地的な嵐」

「本当に突然だった。異常と言ってもおかしくない‥本当に急に嵐になった‥」

和春の目が遠くの水平線を見る。

「少し前まで普通だったのに風が一気に強くなって、海が荒れて船もかなり揺れた」

愛華の表情が少しずつ真剣になる。

「その時‥‥」

和春は続ける。

「俺、甲板にいたんだよ」

「……」

「で、馬鹿みたいに船が揺れて、足取られて」

少し間。

「海に落ちた」

愛華が固まる。

「……海に?」

「ああ」

「その船から?」

「そう」

「それなりに大きな船ですよね?」

「だからそう言っただろ」

「……」

愛華の顔から僅かに血の気が引く。

だが和春の話は。

そこで終わらない。

「落ちた場所も悪かった」

「……どういう意味です?」

和春は自分でも少し呆れたように笑う。

「スクリュー側に流された」

「…………」

愛華が完全に止まった。

「そのまま」

和春は言う。

「巻き込まれた」

「…………はい?」

愛華がゆっくり和春を見る。

「いま‥」

「ん?」

「何と言いました?」

「スクリューに巻き込まれた」

「船の?」

「船の話してんだから船のだろ」

「和春!」

珍しく。

愛華の声が大きくなった。

「何だよ」

「何だよ、ではありません!」

「船のスクリューですよ!?」

「ああ」

「ああ、じゃありません!」

和春は少し笑う。

「昔の話だぞ」

「昔なら安全なんですか!?」

「安全ではない」

「でしょう!?」

愛華は改めて和春を見る。

中型船。

それなりの大きさ。

その船から荒れた海へ落下。

さらにスクリューへ巻き込まれた。

普通なら‥

「……」

愛華は少し言葉を失う。

「よく……」

そしてようやく出た。

「生きていましたね」

和春は海を見ながら言う。

「医者にも言われた。生きてるのが奇跡だって」

「当然でしょう。」

「俺もそう思う」

和春は笑う。

だが愛華は笑えない。

「怪我は?」

「かなり酷かったらしい。」

「……らしい?」

「ああ」

和春は自分の頭を指差す。

「事故前後の記憶が曖昧なんだよ」

「海に落ちたところまでは?」

「覚えてる」

「スクリューに巻き込まれた辺りから?」

「断片的」

「その後は?」

「気付いたら病院」

和春は淡々としている。

「結構長いこと意識なかったみたいだぞ。一週間くらい生死も彷徨ってたらしい」

「……」

愛華は黙って聞いている。

和春が続ける。

「で、退院して高校入ってしばらくして気付いた」

「何にです?」

和春は。

自分の頭を軽く叩いた。

「忘れなくなってた」

愛華の紅い瞳が。

僅かに開く。

「本読んだら残る。ページのどこに何が書いてあったかまで授業聞いても残る。数字も。文章も。人との会話も。時間が経っても」

和春は少し笑う。

「ほとんど消えない」

「……。」

「事故のあとからだよ。俺の記憶力がおかしくなったの」

愛華は。

すぐには言葉を返さなかった。

事故による脳への影響。

そう考えるのが。

一番自然なのだろう。

「病院では?」

「検査した」

「原因は?」

「分からん」

「……分からない?」

「この記憶力を説明できるような異常は見つかってない」

和春は肩をすくめる。

「だから俺は。事故の後遺症みたいなもんだと思ってる」

愛華は考える。

だが、ふと、別の疑問が浮かんだ。

「……和春。」

「何。」

「傷は?」

「傷?」

「スクリューの」

和春は。

少し考え。

「ああ」

自分の身体を見る。

「残ってないな」

「……。」

愛華が黙った。

「何だよ」

「残っていない?」

「ああ。」

「……本当に?」

和春が愛華を見る。

「それはお前が一番分かってるだろ」

「…………」

一瞬。

愛華の顔が。

僅かに赤くなる。

「そういう言い方をしないでください」

「事実だろ」

「事実でもです」

だが確かに愛華は知っている。

和春の身体を。

胸。

腹部。

背中。

腕。

脚。

大きな古傷などどこにもない。

まして。船のスクリューに巻き込まれ。

生死を彷徨った人間とは思えない。

「……」

愛華の表情から。

照れが消える。

おかしい。

年月が経てば傷痕が薄くなることはある。

だが、それほどの事故。

それほどの大怪我。

それが完全に何も残らない。

そんなことがあるのだろうか。

そして愛華の頭に先日の高校での出来事が浮かぶ。

屋上から落下した和春。

救助マットはあった。

だが。衝撃そのものが消えるわけではない。

それなのに病院で検査した時には。

ほぼ無傷で内出血すら確認できなかった。

「……和春」

「ん?」

「事故のあと」

愛華が慎重に聞く。

「怪我の治りが早くなった、と感じたことは?」

「知らん」

「知らない?」

「気にしたことない」

あまりにも。

和春らしい。

「怪我なんて治ればいいだろ」

「そういう問題ではありません」

「治らないよりマシだろ」

「程度というものがあります」

和春は笑う。

愛華は笑えなかった。

事故以前。

和春は普通だった。

少し勉強ができる。

本が好きな少年。

中学を卒業。

高校入学まで祖母の実家がある島で過ごす。

そして高校入学準備のため島を離れた。

中型船。

突然の局地的な嵐。

甲板から転落。

スクリュー事故。

生死を彷徨う。

そしてそのあと異常な記憶力。

さらに大怪我をしたはずの身体には現在傷痕すらない。

愛華は海を見る。

まだ何も分からない。

偶然。

体質。

医療技術。

本人の記憶違い。

いくらでも可能性はある。

だから結論は出さない。

ただ違和感だけは。

確実に残った。

ザァ――。

ザァ――。

波の音が響く。

和春はその音を聞きながら。

穏やかな顔をしている。

「俺さ」

「はい?」

「この音。好きなんだよな」

愛華が見る。

「波の音ですか?」

「ああ」

和春は少し考える。

「たぶん。あの事故のあとから」

「……」

「変だよな」

和春が笑う。

「海で死にかけたのに海の音聞いてるとなんか落ち着く」

愛華は和春の横顔を見る。

何も言わない。

ただ心の中で一つだけ思った。

(……あなた本当に、あの事故で何があったんですか)

答えはまだ誰も知らなかった。