Boundary & Mind     心の境界線

車は海沿いへ向かって走っていた。

助手席の愛華は窓の外を眺めながら。

あの日のことを思い出していた。

和春と初めて出会った日のことを。

⸻

そのカフェは女性客に人気だった。

海が見える大きな窓。

洒落た内装。

写真映えする料理やデザート。

休日ともなれば、若い女性やカップルで賑わう。

だから当然、女性目当てにナンパへ来る男もいる。

一人で来ている女性を探して店内を見回す男。

洒落た小説を片手に。

――こういう場所で本を読む俺、知的だろ?

そんな雰囲気を漂わせるナルシストまでちらほらいる。

当時の愛華にとってそんな人間はどうでもよかった。

興味すらない。声をかけられれば適当にあしらう。

しつこければ二度と近づきたくなくなる程度の毒を吐く。

それだけ‥‥

だから最初、窓際で本を読んでいる若い男を見た時も。

同じ類いだと思った。

「……」

だが違った。

テーブルの上。

一冊ではない。

何冊もの本が置かれていた。

愛華は何気なくタイトルを見る。

心理学。

医学。

脳科学。

精神医学。

それだけではない。

行動経済学らしき専門書まで混ざっている。

しかもほとんどが英文。

(……何ですか、あれ)

小説を一冊置いて格好をつけている人間とは明らかに違う。

一冊を読み終えるわけでもない。

医学書を読む。

途中で何か気になったのか。

心理学の本を開く。

数ページ確認。

今度は別の専門書。

また医学書へ戻る。

ノートも取っていない。

付箋もほとんどない。

それなのに迷いがない。

必要な場所を当然のように開いている。

(医学生……?)

だが心理学の専門書がある。

(心理学部?)

ならなぜ医学。

脳科学。

経済学まで。

しかも読む速度が妙に速い。

流し読みではない。

時々、別の本と見比べている。

(……何を勉強している人なんでしょう。)

興味が湧いた。

それでも最初は放っておくつもりだった。

他人だ。

関係ない。

なのに気付けばまた見ている。

そして当時の愛華の悪い癖が出た。

知りたい。

本当に理解しているのか。

それとも知識人を気取っているだけなのか。

気付けば席を立っていた。

⸻

「それ」

和春が顔を上げる。

銀髪。

紅い瞳。

かなりの美人が立っている。

「なんだ?」

愛想の欠片もない。

だが当時の愛華も。

人のことを言えなかった。

「医学書ですよね?」

「ああ」

「こちらは心理学」

「ああ」

「脳科学までありますが」

「見れば分かるだろ」

「……」

早くも少し腹が立った。

「何を専攻されているんです?」

「別に。」

「別に?」

「大学の勉強じゃないから」

愛華の眉が僅かに動く。

「では趣味で?」

「必要だから読んでる」

「何に必要なんです?」

和春は少し考え。

「色々」

「……随分と曖昧ですね」

「初対面のお前に全部説明する必要ある?」

「ありませんね」

「じゃあいいだろ」

愛華は普通ならここで離れる。

だが逆だった。

余計に興味が湧いた。

「少しお話しても?」

「もうしてるだろ」

「では座ります」

「好きにしろ」

勝手に座った。

それが二人の始まりだった。

⸻

最初。

愛華は軽い確認程度のつもりだった。

「心理学と医学を同時に?」

「別々に考える方がおかしいだろ」

「と言いますと?」

「人間の精神活動を心理だけで説明できるわけない」

和春は医学書を閉じる。

「脳があって神経系があって、内分泌もある。薬理だって関係する。身体状態で認知も感情も変わる。心理学だけ覚えて人の心分かりましたって顔する方が危ない」

愛華の目が僅かに細くなる。

まともそれどころかかなり理解している。

なら少し深く。愛華も医学が専門というわけではない。

だが幅広く勉強していた。

その辺の学生に知識で劣るつもりはない。

質問する。

和春が答える。

さらに踏み込む。

また答える。

心理学。

認知。

脳機能。

精神医学。

行動経済学。

話題が広がっていく。

愛華も少し楽しくなってきた。

だからわざと難しくする。

前提を変える。例外を混ぜる。

複数の要因を絡ませる。

普通ならどこかで止まる。

だが‥

「それなら前提変わる」

和春は即座に修正する。

「その条件ならこっち」

そして愛華が出した条件だけでは終わらない。

「ただ、それだと家庭環境の情報がない」

別の要素を追加する。

「社会的な立場も必要」

さらに増える。

「あと本人の経済状況」

また増える。

「疾患があるなら服薬状況も」

愛華が一瞬止まる。

(……)

まだ底が見えない。

それなら経済の話。

ついてくる。

法律。

普通に返ってくる。

社会制度。

答える。

統計。

問題ない。

心理へ戻す。

当然のように繋げる。

(……何なんですか、この人)

愛華は途中から明確に気付いた。

最初は自分が和春を試しているつもりだった。

どこまで知っているのか。
本当に理解しているのか。

だが違う。

(この人の底が……)

見えない。

質問すれば答えが返る。

それだけなら。

知識量が多い人間で説明できる。

だがこの男は違う。

知識と知識が全部繋がっている。

医学の話から。

心理へ。

心理から。

経済。

法律。

福祉。

社会制度。

そしてまた人間へ戻る。

しかも。単なる暗記ではない。

条件が変われば使う知識も変える。

答えそのものを平然と捨てる。

(……)

愛華は自分の飲み物に手を伸ばす。

もうかなり温くなっていた。

それすら忘れていた。

和春が何気なく言う。

「で?」

「……はい?」

「次は何聞くんだ?」

愛華の紅い瞳が僅かに開く。

和春は普通の顔をしていた。

その瞬間。

愛華はもう一つ気付いた。

(……この人)

自分が試されていることも。

最初から分かっていた。

「……面白いですね、あなた」

「初対面の奴に言われてもな」

「褒めています」

「お前の褒め方分かりにくい」

「では訂正します」

愛華は少しだけ笑った。

「思っていたより、遥かに頭がいいんですね」

和春の眉が動く。

「お前やっぱ失礼だな」

「事実を認めただけですよ」

「最初どんだけ俺を馬鹿だと思ってたんだよ」

「医学書を並べて格好をつけている方かと」

「そんな奴いんの?」

「いますよ」

「暇だな」

「同感です」

そこで初めて二人の意見が一致した。

出会いとしては決して良くなかった。

愛華は失礼。

和春は無愛想。

互いに遠慮がない。

それでも愛華は席を立たなかった。

和春も本を読むことをやめ。

いつの間にか二人で話し続けていた。

医学。

心理学。

経営。

法律。

人間。

社会。

話題は尽きなかった。

そして愛華は帰る頃になっても。

結局。

一つの答えを出せなかった。

――この男はどこまで知っているのだろう。

⸻

車内。

現在。

愛華は。

昔の自分を思い出して。

小さく笑った。

「……」

「なんだよ?」

運転している和春が聞く。

「いえ」

「初めて会った時のことを思い出していました」

「俺に喧嘩売った日?」

「だから売っていません」

「売ってた」

「少し能力を確認しただけです」

「それを初対面でやるのが失礼なんだよ」

「……今なら分かります」

「成長したな」

「誰のせいだと思っているんです?」

「知らん」

愛華は窓の外を見る。

海が近づいている。

そして心の中でふと思う。

あの日、和春の底が見えないと思った。

それは今でも変わっていない。

むしろ隣で仕事をするようになった今の方が。

よく分かる。

(……本当についていくの、大変なんですよ)

和春は覚える。

異常なほどに。

医学。

心理。

法律。

経済。

会計。

福祉。

経営。

その他。

案件に必要なら。

さらに新しい分野まで平然と取り込んでいく。

同じやり方で追いかけようとしたら。

愛華でも無理だ。

だから。

途中からやり方を変えた。

和春と同じ量を。

全部覚えようとしない。

必要な知識を精査する。

今、何が必要なのか。

和春がどの方向へ思考を進めているのか。

そこを読む。

必要な情報を拾い。

整理し。

繋げる。

そして和春が次に必要とする場所へ。

先回りして置いておく。

そうしなければこの男の隣にはついていけない。

(私以外は隣にいられない)

以前。

西野に言った言葉。

あれは自信だけで言ったわけではない。

実際。

必死なのだ。

和春の相方でいるというのは、ただ頭が良ければ務まる仕事ではない。

和春の思考を読み。

必要な知識を選び。

繋ぎ。

時には。

和春本人より先に次の一手を用意する。

そこまでしてようやく隣を歩ける。

愛華は運転している和春を横目で見る。

本人はそんな苦労など知らない顔で運転している。

(……本当に)

心の中で少しだけ毒を吐く。

(面倒な人を相方にしてしまいましたね)

だが不思議と後悔はなかった。

むしろあの日。

あのカフェで。

何冊もの専門書を広げる変な男に声をかけた自分を今の愛華は少しだけ褒めてやりたかった。