和春は珍しく本当に言われた通り寝た。
愛華に三時間は寝ろと言われ。
最初こそ「二時間半でいいだろ」と抵抗していたが。
結局。布団に入ったら、疲れが一気に出たのかかなり深く眠っていた。
そして昼前。
「……」
和春が寝室から出てくる。
髪は少し乱れている。
まだ眠そうな顔。
リビングへ入る。
そして。
少し止まった。
「……お前」
愛華が振り向く。
「起きましたか」
「珍しいな」
「何がです?」
今日の愛華はメイド服ではなかった。
淡い色のトップス。
落ち着いたロングスカート。
銀色の長い髪も、仕事中より少し柔らかく整えられている。
完全な私服。
和春は少しだけ笑う。
「メイド服じゃない」
「今日は仕事ではありませんから」
「そうだったな」
「和春が無理矢理休みにしたので」
そこはまだ根に持っているらしい。
和春は冷蔵庫へ向かう。
「コーヒー」
「駄目です」
即答。
「起きたんだからいいだろ」
「水を飲んでください」
「ケチ」
「健康管理です」
「はいはい」
和春は素直に水を飲む。
そして少し身体が起きたところで言った。
「じゃあ行くか」
「どちらへ?」
「カフェ」
愛華は一瞬だけ考える。
「近くのですか?」
「いや」
和春は玄関近くの棚から車のキーを取った。
カチャッ。
その音で。
愛華の表情が変わる。
「……車ですか?」
「ああ」
「カフェに行くだけですよね?」
「そうだけど」
「どこのカフェです?」
和春は靴を履きながら。
少し楽しそうに笑った。
「海が見えるでオシャレなカフェで‥」
愛華の眉が僅かに動く。
和春は続ける。
「そこで一人で専門書読んでると。なんか銀髪の美人が寄ってきて」
愛華の目が細くなる。
「……」
「『こんなところで専門書ですか?』とか言って勝手に話しかけてきて、そのうえ」
和春は愛華を見る。
「人が何か言うたびに毒吐いてくるような客がいる店」
愛華の顔が止まった。
数秒。
「……和春」
「なんだよ」
「過去を捏造しないでください」
「どこが」
「私はそんな言い方してません」
「もっと酷かったぞ」
「……」
図星。
愛華が視線を逸らす。
和春は笑った。
「行くぞ」
「……最初から、そこへ行くつもりだったんですね。」
「ああ」
愛華もそこでようやく気付いた。
そのカフェ。
海沿い。
大きな窓から水平線が見える。
テラス席もあり。
休日には若者やカップルで賑わう。
そして和春と愛華が初めて出会った場所。
⸻
車が走り出す。
助手席。
愛華は窓の外を眺めながら。
昔を思い出していた。
あの頃の自分は今思えば酷かった。
かなり。
いや。
相当。
尖っていた。
頭の回転には自信があった。
勉強もできた。
経営。
心理学。
会計。
何を学んでも理解が早かった。
だから分からない人間の感覚が分からなかった。
「なぜ分からないんですか?」
本気でそう思っていた。
一度説明されたら理解できる。
資料を読めば分かる。
勉強すればできる。
自分がそうだったから。
他人も同じだと思っていた。
悪気はなかった。
だが悪気がないからこそ厄介だった。
『それくらい分かりますよね?』
『普通に考えれば分かると思います』
『なぜそこでその選択になるんですか?』
今なら絶対に言わない。
いや思ったとしてもそのまま相手へぶつけることはない。
相手が何を知らないのか。なぜ理解できないのか。
どの説明なら届くのか。
今ならまずそこを考える。
だが当時は違った。
優秀すぎるがゆえに分からない側へ降りることができなかった。
尖ったナイフ。
今思えばまさにそれだった。
切れ味は良い。だが触れた相手まで傷つける。
そしてあの日カフェでそのナイフを真正面から受けた男が神代和春だった。
⸻
愛華が横を見る。
運転している和春。
あの頃と見た目は大きく変わっていない。
相変わらず。
自由。
タメ口。
人の肩書きを気にしない。
ブラックコーヒーばかり飲みたがる。
仕事量も異常。
だが自分は随分変わった。
「……懐かしいですね」
愛華がぽつりと言う。
「何が?」
「初めて会った頃です」
和春は前を見たまま笑う。
「お前、マジで性格悪かったよな」
愛華が即座に睨む。
「そこまで言います?」
「言う。初対面の人間に」
和春は愛華の昔の口調を真似する。
「『それ、医学書ですよね? 内容ちゃんと理解して読んでるんですか?』」
愛華の頬が僅かに引きつる。
「……そんな言い方でしたか?」
「ほぼ」
「かなり誇張されています」
「じゃあ」
和春は続ける。
「俺が説明したら」
「『そこまで分かっていて、なぜその結論になるんです?』」
「……」
「そのあと。『思ったより頭は悪くなさそうですね』」
愛華が顔を覆う。
「もうやめてください」
和春が笑う。
「事実だろ」
「若気の至りです」
「そんな昔じゃねぇだろ」
「精神的な話です」
和春はさらに笑った。
愛華は少し恥ずかしそうに窓の外を見る。
でも嫌ではなかった。
むしろその頃の自分を今の和春と一緒に笑えることが少し嬉しかった。
「でも」
和春が言う。
愛華が見る。
「今は変わったな」
その一言。
愛華の表情が少し柔らかくなる。
「そうですか?」
「ああ。毒は吐くけど」
「余計です」
「でも今は‥」
和春は少し考える。
「人が分からない理由まで見るようになった。言い方も考える。俺が難しく言いすぎたら、勝手に分かりやすく直すし」
「勝手ではありません。必要だからです」
「はいはい」
和春は笑う。
「まあ。今の方がいい」
愛華の紅い瞳がほんの少し揺れた。
「……ありがとうございます」
その返事は昔の愛華なら。
たぶん言わなかった。
和春もそれ以上何も言わない。
車は海へ向かって走る。
そして愛華はまだ知らない。
今日、和春が自分をこの場所へ連れて行く理由。
単に昔を懐かしむためではないことを。
和春はちゃんと覚えていた。
二人が出会った場所。
最初は最悪だった。
だからこそ。
もし二人の関係を今日から変えるなら。
始まりの場所が一番自然だと思った。
愛華に三時間は寝ろと言われ。
最初こそ「二時間半でいいだろ」と抵抗していたが。
結局。布団に入ったら、疲れが一気に出たのかかなり深く眠っていた。
そして昼前。
「……」
和春が寝室から出てくる。
髪は少し乱れている。
まだ眠そうな顔。
リビングへ入る。
そして。
少し止まった。
「……お前」
愛華が振り向く。
「起きましたか」
「珍しいな」
「何がです?」
今日の愛華はメイド服ではなかった。
淡い色のトップス。
落ち着いたロングスカート。
銀色の長い髪も、仕事中より少し柔らかく整えられている。
完全な私服。
和春は少しだけ笑う。
「メイド服じゃない」
「今日は仕事ではありませんから」
「そうだったな」
「和春が無理矢理休みにしたので」
そこはまだ根に持っているらしい。
和春は冷蔵庫へ向かう。
「コーヒー」
「駄目です」
即答。
「起きたんだからいいだろ」
「水を飲んでください」
「ケチ」
「健康管理です」
「はいはい」
和春は素直に水を飲む。
そして少し身体が起きたところで言った。
「じゃあ行くか」
「どちらへ?」
「カフェ」
愛華は一瞬だけ考える。
「近くのですか?」
「いや」
和春は玄関近くの棚から車のキーを取った。
カチャッ。
その音で。
愛華の表情が変わる。
「……車ですか?」
「ああ」
「カフェに行くだけですよね?」
「そうだけど」
「どこのカフェです?」
和春は靴を履きながら。
少し楽しそうに笑った。
「海が見えるでオシャレなカフェで‥」
愛華の眉が僅かに動く。
和春は続ける。
「そこで一人で専門書読んでると。なんか銀髪の美人が寄ってきて」
愛華の目が細くなる。
「……」
「『こんなところで専門書ですか?』とか言って勝手に話しかけてきて、そのうえ」
和春は愛華を見る。
「人が何か言うたびに毒吐いてくるような客がいる店」
愛華の顔が止まった。
数秒。
「……和春」
「なんだよ」
「過去を捏造しないでください」
「どこが」
「私はそんな言い方してません」
「もっと酷かったぞ」
「……」
図星。
愛華が視線を逸らす。
和春は笑った。
「行くぞ」
「……最初から、そこへ行くつもりだったんですね。」
「ああ」
愛華もそこでようやく気付いた。
そのカフェ。
海沿い。
大きな窓から水平線が見える。
テラス席もあり。
休日には若者やカップルで賑わう。
そして和春と愛華が初めて出会った場所。
⸻
車が走り出す。
助手席。
愛華は窓の外を眺めながら。
昔を思い出していた。
あの頃の自分は今思えば酷かった。
かなり。
いや。
相当。
尖っていた。
頭の回転には自信があった。
勉強もできた。
経営。
心理学。
会計。
何を学んでも理解が早かった。
だから分からない人間の感覚が分からなかった。
「なぜ分からないんですか?」
本気でそう思っていた。
一度説明されたら理解できる。
資料を読めば分かる。
勉強すればできる。
自分がそうだったから。
他人も同じだと思っていた。
悪気はなかった。
だが悪気がないからこそ厄介だった。
『それくらい分かりますよね?』
『普通に考えれば分かると思います』
『なぜそこでその選択になるんですか?』
今なら絶対に言わない。
いや思ったとしてもそのまま相手へぶつけることはない。
相手が何を知らないのか。なぜ理解できないのか。
どの説明なら届くのか。
今ならまずそこを考える。
だが当時は違った。
優秀すぎるがゆえに分からない側へ降りることができなかった。
尖ったナイフ。
今思えばまさにそれだった。
切れ味は良い。だが触れた相手まで傷つける。
そしてあの日カフェでそのナイフを真正面から受けた男が神代和春だった。
⸻
愛華が横を見る。
運転している和春。
あの頃と見た目は大きく変わっていない。
相変わらず。
自由。
タメ口。
人の肩書きを気にしない。
ブラックコーヒーばかり飲みたがる。
仕事量も異常。
だが自分は随分変わった。
「……懐かしいですね」
愛華がぽつりと言う。
「何が?」
「初めて会った頃です」
和春は前を見たまま笑う。
「お前、マジで性格悪かったよな」
愛華が即座に睨む。
「そこまで言います?」
「言う。初対面の人間に」
和春は愛華の昔の口調を真似する。
「『それ、医学書ですよね? 内容ちゃんと理解して読んでるんですか?』」
愛華の頬が僅かに引きつる。
「……そんな言い方でしたか?」
「ほぼ」
「かなり誇張されています」
「じゃあ」
和春は続ける。
「俺が説明したら」
「『そこまで分かっていて、なぜその結論になるんです?』」
「……」
「そのあと。『思ったより頭は悪くなさそうですね』」
愛華が顔を覆う。
「もうやめてください」
和春が笑う。
「事実だろ」
「若気の至りです」
「そんな昔じゃねぇだろ」
「精神的な話です」
和春はさらに笑った。
愛華は少し恥ずかしそうに窓の外を見る。
でも嫌ではなかった。
むしろその頃の自分を今の和春と一緒に笑えることが少し嬉しかった。
「でも」
和春が言う。
愛華が見る。
「今は変わったな」
その一言。
愛華の表情が少し柔らかくなる。
「そうですか?」
「ああ。毒は吐くけど」
「余計です」
「でも今は‥」
和春は少し考える。
「人が分からない理由まで見るようになった。言い方も考える。俺が難しく言いすぎたら、勝手に分かりやすく直すし」
「勝手ではありません。必要だからです」
「はいはい」
和春は笑う。
「まあ。今の方がいい」
愛華の紅い瞳がほんの少し揺れた。
「……ありがとうございます」
その返事は昔の愛華なら。
たぶん言わなかった。
和春もそれ以上何も言わない。
車は海へ向かって走る。
そして愛華はまだ知らない。
今日、和春が自分をこの場所へ連れて行く理由。
単に昔を懐かしむためではないことを。
和春はちゃんと覚えていた。
二人が出会った場所。
最初は最悪だった。
だからこそ。
もし二人の関係を今日から変えるなら。
始まりの場所が一番自然だと思った。

