和春にとって、日付というものはあまり意味を持たなかった。
毎日が仕事朝起きて案件を確認し。
人と会い。
話を聞き。
問題を分解し。
選択肢を増やし。
夜になれば資料をまとめる。
その繰り返し。
世間がクリスマスだろうが。
大晦日だろうが。
年が明けようが。
和春の生活はほとんど変わらない。
司法試験の合格通知が届いたのは十一月。
あの時は愛華も珍しく嬉しそうにしていた。
だがそこからまた仕事。
仕事。
仕事。
気付けば――
三月も終わりそうだ。
ある夜。晩飯を食べ終えた和春は、書斎の椅子に深く腰掛けながらカレンダーを見ていた。
十二月。
クリスマス。
何かしたかと思い返してみる。
愛華が夕食にチキンを出していた。
少し普段より豪華だった気もする。
だが和春は。
「今日なんかあったっけ」
そんなことを言って愛華に呆れられた記憶がある。
年末。
普通に仕事。
年明け。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
愛華にそう言われ。
「今年もよろしく」
それだけ。
初詣へ行くでもなく。
正月料理を囲んで特別な時間を過ごすでもなく。
三日後にはもう通常運転。
誕生日も似たようなものだった。
愛華が料理を少し豪華にする。
小さなプレゼントが置いてある。
和春は礼を言う。
そして翌日には仕事へ戻る。
一か月など。
本当に一瞬だった。
数え切れない企業。
経営者。
学生。
個人相談。
様々な人間の人生を覗き。
問題に触れ。
気付けば季節が変わっている。
だからクリスマスも正月も多くの人にとっては大切な一日なのだろう。
だが、和春にとっては長い人生の中で風化していく一ページ。わざわざ語る必要もない時間だった。
――今までは。
和春は机に肘をつく。
「……」
仕事の資料は開いていない。
珍しく。
何もしていない。
考えているのは。
仕事ではない。
愛華のことだった。
麗華に聞かれた言葉。
――愛華は、あなたにとってただの仕事の相方なんですか?
あの時。
和春は逃げた。
言葉を並べ。
定義の話をして。
まるで中身のない政治討論のように論点をずらした。
理由は分かっている。
怖かった。
告白することそのものではない。
自分の気持ちはもう分かっている。
愛華が好きだ。
かなり前から。
おそらく自分が認めるよりずっと前から。
問題は口にした後。
「好きだ。付き合ってくれ」
そう言えば愛華にも選択を迫ることになる。
今までの和春なら選択肢を並べる。
本人が選ぶまで待つ。
だが恋愛は自分から一つの選択肢を差し出さなければ始まらない。
愛華が選ぶなら。
和春はその答えを受け入れる。
断られても。
受け入れる。
だが自分から言葉にする。
それをずっと避けていた。
和春は椅子にもたれる。
「……いい加減だよな」
自分で分かっている。
生活は一緒。
仕事も一緒。
旅行にも行った。
身体の関係だってある。
なのに名前だけがない。
相方兼メイド。
そんな言葉で。
一番大事な部分だけ曖昧にしている。
「ちゃんと言うか」
声に出す。
逃げる理由はもうない。
愛華にも自分の口で好きだと伝える。
和春は少し考える。
「……デートでも誘うか?」
だがすぐに眉を寄せる。
高級レストラン。
花束。
夜景。
そんな自分を想像する。
「……違うな」
似合わない。
愛華だって急にそんなことをされたら警戒するだろう。
変に気張れば自分らしくなくなる。
普段通りでいい。
一緒に出掛け。
飯でも食って。
少し歩いて。
自然な流れで。
ちゃんと言う。
「それでいい」
和春は頷いた。
そして机の横に積まれた書類へ目を向ける。
月末が近い。
明日は愛華が会計処理と書類整理をする予定だった。
請求。
入金確認。
契約関係。
経費。
案件別の資料整理。
かなり多い。
和春は時計を見る。
深夜。
「……。」
数秒。
椅子を引く。
ノートパソコンを開いた。
カタカタカタカタ――。
静かな夜。
Boundary & Mindの事務所に異常な速度のタイピング音だけが響き始めた。
⸻
翌朝。
愛華がリビングへ入ってくる。
今日もいつものメイド服。
「おはようございます」
和春は缶のブラックコーヒーを飲んでいた。
「おはよ」
「今日は月末処理がありますので、午前中から――」
「愛華」
「はい?」
和春は普通の顔で言った。
「今日、ちょっと出掛けるから付き合ってくれ」
愛華が止まる。
「……今日ですか?」
「ああ」
「どちらへ?」
「まだ決めてない」
愛華の眉が寄る。
「でしたら無理です」
即答だった。
「月末近いんですよ?書類整理。請求処理。入金確認。会計業務」
指を折りながら並べていく。
「それに来月分の案件整理まであります。そんな余裕ありません」
和春は平然と言った。
「もう終わった」
「…………」
愛華が止まった。
「はい?」
和春はコーヒーを飲む。
「全部、夜中にやっといた」
沈黙。
愛華の紅い瞳が。
ゆっくり細くなる。
「……和春」
その声で和春は悟った。
まずい。
「な、なんだよ‥」
「夜中に?」
「ああ」
「一人で?」
「そうだな‥‥」
「全部?」
「だからそう言ってる」
愛華は無言でパソコンへ向かった。
確認する。
請求関係。
完了。
入金照合。
完了。
領収書。
整理済み。
経費処理。
完了。
契約書。
案件別に分類済み。
来月分のスケジュール下準備まで終わっている。
「…………」
確かに全部終わっていた。
しかも雑ではない。
愛華がやるのとほとんど変わらない精度。
いや処理速度だけなら明らかに異常。
愛華がゆっくり振り返る。
「和春」
「ん」
「何時まで起きていたんですか?」
「まあ」
「何時です?」
「朝方」
「寝ました?」
「ちょっと」
「何時間。」
「……」
「何時間です?」
和春が目を逸らす。
「30分くらい」
愛華のこめかみが動いた。
「和春!!」
「うるさい」
「また寝ないで仕事したんですか!」
「今日空けたかったから仕方ないだろ」
「仕方なくありません!」
「この量!」
愛華は机を指す。
「私でも一日仕事ですよ!」
「一晩で一人で片付ける量ではありません!」
和春は肩をすくめる。
「終わったんだからいいだろ」
「良くありません!しかも何なんですか、この速度!私が昨日確認した時点では、かなり残っていたでしょう!」
「集中した」
「集中で説明できる量ではありません!」
和春はコーヒーを飲む。
愛華の視線が。
缶コーヒーに落ちる。
「……」
和春が止まる。
嫌な予感。
「コーヒー」
愛華が手を出す。
「なんだよ‥」
「没収です」
「なんでだよ!」
「睡眠30分の人間に追加のカフェインは不要です」
「必要だろ」
「不要です」
「今日出掛けるんだぞ」
「だからです!」
愛華は和春の手からコーヒーを取り上げた。
「まず寝てください」
「嫌だ!」
「寝てください!」
「出掛けるって言っただろ!」
「そんな状態で?」
「平気だ」
「信用しません」
完全にいつもの流れ。
和春は深いため息をつく。
せっかく自分なりに今日を空けた。
愛華と出掛けるためにちゃんと話すために。
その結果は朝一番から怒られている。
「……」
和春は少し考えてから言った。
「じゃあ二時間寝る」
「最低三時間です」
「長い」
「短いです」
「二時間半」
「値切るものではありません」
和春が眉を寄せる。
愛華は腕を組んでいる。
譲る気はない。
「……分かったよ」
ようやく折れた。
愛華は満足そうに頷く。
「では寝室へ」
「子供じゃねぇんだから」
「子供より手がかかります」
「お前な‥‥」
愛華は小さく笑う。
「起きたら出掛けるのでしょう?」
和春が一瞬止まる。
「ああ」
「でしたら」
愛華は何気なく言う。
「私も準備しておきます」
和春はその言葉を聞いて。
少しだけ笑った。
「頼む」
愛華はまだ知らない。
今日、和春がなぜ突然予定を全部空けたのか。
なぜ徹夜までして一日を作ったのか。
そして和春自身も何時にどこでどう言うのかまだ決めていない。
ただ一つ決めていることがある。
今日こそ言葉にする。
長い間、名前のなかった二人の関係に。
自分から一つの選択肢を差し出すために。
毎日が仕事朝起きて案件を確認し。
人と会い。
話を聞き。
問題を分解し。
選択肢を増やし。
夜になれば資料をまとめる。
その繰り返し。
世間がクリスマスだろうが。
大晦日だろうが。
年が明けようが。
和春の生活はほとんど変わらない。
司法試験の合格通知が届いたのは十一月。
あの時は愛華も珍しく嬉しそうにしていた。
だがそこからまた仕事。
仕事。
仕事。
気付けば――
三月も終わりそうだ。
ある夜。晩飯を食べ終えた和春は、書斎の椅子に深く腰掛けながらカレンダーを見ていた。
十二月。
クリスマス。
何かしたかと思い返してみる。
愛華が夕食にチキンを出していた。
少し普段より豪華だった気もする。
だが和春は。
「今日なんかあったっけ」
そんなことを言って愛華に呆れられた記憶がある。
年末。
普通に仕事。
年明け。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
愛華にそう言われ。
「今年もよろしく」
それだけ。
初詣へ行くでもなく。
正月料理を囲んで特別な時間を過ごすでもなく。
三日後にはもう通常運転。
誕生日も似たようなものだった。
愛華が料理を少し豪華にする。
小さなプレゼントが置いてある。
和春は礼を言う。
そして翌日には仕事へ戻る。
一か月など。
本当に一瞬だった。
数え切れない企業。
経営者。
学生。
個人相談。
様々な人間の人生を覗き。
問題に触れ。
気付けば季節が変わっている。
だからクリスマスも正月も多くの人にとっては大切な一日なのだろう。
だが、和春にとっては長い人生の中で風化していく一ページ。わざわざ語る必要もない時間だった。
――今までは。
和春は机に肘をつく。
「……」
仕事の資料は開いていない。
珍しく。
何もしていない。
考えているのは。
仕事ではない。
愛華のことだった。
麗華に聞かれた言葉。
――愛華は、あなたにとってただの仕事の相方なんですか?
あの時。
和春は逃げた。
言葉を並べ。
定義の話をして。
まるで中身のない政治討論のように論点をずらした。
理由は分かっている。
怖かった。
告白することそのものではない。
自分の気持ちはもう分かっている。
愛華が好きだ。
かなり前から。
おそらく自分が認めるよりずっと前から。
問題は口にした後。
「好きだ。付き合ってくれ」
そう言えば愛華にも選択を迫ることになる。
今までの和春なら選択肢を並べる。
本人が選ぶまで待つ。
だが恋愛は自分から一つの選択肢を差し出さなければ始まらない。
愛華が選ぶなら。
和春はその答えを受け入れる。
断られても。
受け入れる。
だが自分から言葉にする。
それをずっと避けていた。
和春は椅子にもたれる。
「……いい加減だよな」
自分で分かっている。
生活は一緒。
仕事も一緒。
旅行にも行った。
身体の関係だってある。
なのに名前だけがない。
相方兼メイド。
そんな言葉で。
一番大事な部分だけ曖昧にしている。
「ちゃんと言うか」
声に出す。
逃げる理由はもうない。
愛華にも自分の口で好きだと伝える。
和春は少し考える。
「……デートでも誘うか?」
だがすぐに眉を寄せる。
高級レストラン。
花束。
夜景。
そんな自分を想像する。
「……違うな」
似合わない。
愛華だって急にそんなことをされたら警戒するだろう。
変に気張れば自分らしくなくなる。
普段通りでいい。
一緒に出掛け。
飯でも食って。
少し歩いて。
自然な流れで。
ちゃんと言う。
「それでいい」
和春は頷いた。
そして机の横に積まれた書類へ目を向ける。
月末が近い。
明日は愛華が会計処理と書類整理をする予定だった。
請求。
入金確認。
契約関係。
経費。
案件別の資料整理。
かなり多い。
和春は時計を見る。
深夜。
「……。」
数秒。
椅子を引く。
ノートパソコンを開いた。
カタカタカタカタ――。
静かな夜。
Boundary & Mindの事務所に異常な速度のタイピング音だけが響き始めた。
⸻
翌朝。
愛華がリビングへ入ってくる。
今日もいつものメイド服。
「おはようございます」
和春は缶のブラックコーヒーを飲んでいた。
「おはよ」
「今日は月末処理がありますので、午前中から――」
「愛華」
「はい?」
和春は普通の顔で言った。
「今日、ちょっと出掛けるから付き合ってくれ」
愛華が止まる。
「……今日ですか?」
「ああ」
「どちらへ?」
「まだ決めてない」
愛華の眉が寄る。
「でしたら無理です」
即答だった。
「月末近いんですよ?書類整理。請求処理。入金確認。会計業務」
指を折りながら並べていく。
「それに来月分の案件整理まであります。そんな余裕ありません」
和春は平然と言った。
「もう終わった」
「…………」
愛華が止まった。
「はい?」
和春はコーヒーを飲む。
「全部、夜中にやっといた」
沈黙。
愛華の紅い瞳が。
ゆっくり細くなる。
「……和春」
その声で和春は悟った。
まずい。
「な、なんだよ‥」
「夜中に?」
「ああ」
「一人で?」
「そうだな‥‥」
「全部?」
「だからそう言ってる」
愛華は無言でパソコンへ向かった。
確認する。
請求関係。
完了。
入金照合。
完了。
領収書。
整理済み。
経費処理。
完了。
契約書。
案件別に分類済み。
来月分のスケジュール下準備まで終わっている。
「…………」
確かに全部終わっていた。
しかも雑ではない。
愛華がやるのとほとんど変わらない精度。
いや処理速度だけなら明らかに異常。
愛華がゆっくり振り返る。
「和春」
「ん」
「何時まで起きていたんですか?」
「まあ」
「何時です?」
「朝方」
「寝ました?」
「ちょっと」
「何時間。」
「……」
「何時間です?」
和春が目を逸らす。
「30分くらい」
愛華のこめかみが動いた。
「和春!!」
「うるさい」
「また寝ないで仕事したんですか!」
「今日空けたかったから仕方ないだろ」
「仕方なくありません!」
「この量!」
愛華は机を指す。
「私でも一日仕事ですよ!」
「一晩で一人で片付ける量ではありません!」
和春は肩をすくめる。
「終わったんだからいいだろ」
「良くありません!しかも何なんですか、この速度!私が昨日確認した時点では、かなり残っていたでしょう!」
「集中した」
「集中で説明できる量ではありません!」
和春はコーヒーを飲む。
愛華の視線が。
缶コーヒーに落ちる。
「……」
和春が止まる。
嫌な予感。
「コーヒー」
愛華が手を出す。
「なんだよ‥」
「没収です」
「なんでだよ!」
「睡眠30分の人間に追加のカフェインは不要です」
「必要だろ」
「不要です」
「今日出掛けるんだぞ」
「だからです!」
愛華は和春の手からコーヒーを取り上げた。
「まず寝てください」
「嫌だ!」
「寝てください!」
「出掛けるって言っただろ!」
「そんな状態で?」
「平気だ」
「信用しません」
完全にいつもの流れ。
和春は深いため息をつく。
せっかく自分なりに今日を空けた。
愛華と出掛けるためにちゃんと話すために。
その結果は朝一番から怒られている。
「……」
和春は少し考えてから言った。
「じゃあ二時間寝る」
「最低三時間です」
「長い」
「短いです」
「二時間半」
「値切るものではありません」
和春が眉を寄せる。
愛華は腕を組んでいる。
譲る気はない。
「……分かったよ」
ようやく折れた。
愛華は満足そうに頷く。
「では寝室へ」
「子供じゃねぇんだから」
「子供より手がかかります」
「お前な‥‥」
愛華は小さく笑う。
「起きたら出掛けるのでしょう?」
和春が一瞬止まる。
「ああ」
「でしたら」
愛華は何気なく言う。
「私も準備しておきます」
和春はその言葉を聞いて。
少しだけ笑った。
「頼む」
愛華はまだ知らない。
今日、和春がなぜ突然予定を全部空けたのか。
なぜ徹夜までして一日を作ったのか。
そして和春自身も何時にどこでどう言うのかまだ決めていない。
ただ一つ決めていることがある。
今日こそ言葉にする。
長い間、名前のなかった二人の関係に。
自分から一つの選択肢を差し出すために。

