相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

 朝食後のキッチンの片付けを終えたあと、天城愛華は一人、シンクの前に立っていた。

 水の音だけが静かに響く。

 和春はリビングにいる。

 気配は近いのに、どこか距離がある。

(……落ち着いてください、私)

 心の中で呟く。

 今朝の光景が、頭から離れない。

 ドアが開いた瞬間。

 驚いた顔の和春。

 そして――

 目が合った一瞬。

 思い出した途端、頬が熱くなる。

 手を止め、深く息を吐いた。

「……事故です」

 小さく声に出してみる。

 事故。

 そう、ただの事故。

 なのに。

 胸の奥が、妙に騒がしい。

 鏡代わりの蛇口に、自分の顔がぼんやり映る。

 赤い瞳が少し揺れている。

(……どうして意識しているんですか)

 普段の自分なら、冷静に処理できるはずだ。

 心理学的に整理すればいい。

 同居による距離の変化。

 環境要因。

 睡眠不足。

 説明はいくらでもつく。

 なのに。

 理由を並べるほど、逆に落ち着かない。


 そして、すぐに視線を逸らした彼の仕草。

 ――あの瞬間。

 嫌な気持ちは、少しもなかった。

 それどころか。

 胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。

(……意味が分かりません)

 タオルを握る手に力が入る。

 和春は何も言わなかった。

 変に取り繕うこともなく、ただ「悪い」とだけ。

 その素直さが、妙に残っている。

 境界線を守ろうとしているのが、分かったから。

 ……だからこそ、余計に。

 心が揺れる。

 愛華は小さく頭を振った。

 思考を止めようとする。

 でも無理だった。

 昨夜のことまで思い出してしまう。

 肩に感じた体温。

 支えられた腕。

 眠る前に聞いた、低い声。

(……ダメです)

 頬に手を当てる。

 少し熱い。

 こんな反応、普段の自分らしくない。

 冷静で、距離を守る側のはずなのに。

 今は、ただの女の子みたいに動揺している。

「……愛華」

 リビングから声がする。

 びくっと肩が跳ねた。

「は、はい」

 返事が少し裏返る。

 自分でも驚く。

「大丈夫か?」

「……問題ありません」

 いつもの声に戻す。

 深呼吸。

 表情を整える。

 相方兼メイドとしての顔を被る。

 でも心臓は、まだ少し速いままだった。

 キッチンから出る。

 和春がソファに座っている。

 目の下に少しだけクマ。

 昨夜ほとんど眠っていないのが分かる。

 その姿を見ると、胸が少しだけ締め付けられた。

(……私のせい、ではありませんよね)


「……和春」

「ん?」

「冷蔵庫、空です」

「……そうだな」

「買い出し、行きますよ」

 自然な提案。

 いつも通りの流れ。

 でも内心は少し違う。

 外に出れば、この妙な空気も落ち着くかもしれない。

 距離が戻るかもしれない。

 そう思った。

 和春は少しだけ考え、頷く。

「行くか」

 立ち上がる音。

 その瞬間、距離が近くなる。

 昨日までなら気にしなかったはずの距離。

 でも今は、ほんの少しだけ意識してしまう。

 視線が合う。

 一瞬。

 すぐに逸らした。

(……何をしているんですか、私)

 心の中で呟く。

 ただの買い出し。

 ただの日常。

 なのに、どこか特別に感じてしまう。

 玄関へ向かう。

 メイド服の裾を整えながら、靴を履く。

 隣で和春が同じように準備している。

 手が少し近づく。

 触れない距離。

 でも、昨日までより近く感じる。

「……行きますよ」


 そして玄関の前で、天城愛華は一度足を止めた。

「……少し、待ってください」

「ん?」

 神代和春が振り返る。

「休日の買い出しにメイド服は合理的ではありません」

 愛華にとってメイド服は仕事の正装だった。

「……まあ、そうだな」

 愛華は小さく頷き、部屋へ戻る。

 数分後。

 戻ってきた彼女は、いつもと少し違っていた。

 白のニットに、落ち着いた色のロングスカート。

 銀髪はそのままだけれど、空気が少し柔らかい。

 “相方兼メイド”ではなく、ただの女性としての姿。

 和春は一瞬だけ視線を止めた。

「……どうしました」

「いや、似合ってるな」

 無意識の言葉だった。

 愛華がわずかに目を見開く。

「……そういう評価、珍しいですね」

「事実だ」

 それだけ。

 でも、その一言が妙に胸に残る。

 愛華は視線を逸らし、小さく咳払いした。

「……では、行きますよ」

「ああ」

 扉が開く。

 外の光が差し込む。

 並んで歩き出す二人。

 メイド服ではない分、距離が少し自然に見える。