相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

電車内。

愛華からの着信を見た和春は、さすがにその場では出なかった。

周囲を確認し、車両の端にある通話可能なスペースへ移動する。

扉を閉めてから通話ボタンを押した。

「もしもし」

『和春』

すぐに愛華の声。

少し低い。

「なんだ?」

『なんだではありません』

『痴漢を捕まえていた、とはどういう意味ですか?』

「そのまま」

『説明になっていません』

和春は窓の外を見る。

「目の前で痴漢してる奴がいた。証拠撮って、捕まえて、駅員と警察に渡した」

数秒。

『……怪我は?』

「ない。」

『本当に?』

「本当に」

『相手から殴られたりは?』

「してない」

『はぁ‥どうせ腕を捻り上げたんですよね?』

和春が少し黙る。

「なんで分かる?」

『和春ですから』

即答だった。

「俺を何だと思ってる」

『言葉で止まらない相手には、迷わず実力行使する人です』

「合ってるけど‥」

愛華は小さく息を吐いた。

『では、帰宅時間だけ教えてください』

「あと一時間くらい」

『分かりました』

「飯ある?」

『あります』

「よかった」

『……それより』

一瞬、愛華が何か言いかけた。

だがやめた。

『気を付けて帰ってきてください』

「ああ」

通話が切れる。

和春はスマートフォンを見つめる。

愛華は気付いている。何かあったことに。

声だけでも‥だが聞かなかった。

それが今は少しありがたかった。



一時間ほどして玄関が開く。

「ただいま」

キッチンから愛華の声。

「おかえりなさい」

和春がリビングへ入る。

そして愛華が振り返った瞬間。

動きが止まった。

「……」

和春は嫌な予感がした。

「なんだよ‥‥」

愛華はじっと顔を見る。

特に目元が赤い。腫れている。

明らかにただ疲れている顔ではない。

「酷い顔してますね」

「やっぱ言うと思った」

「泣きました?」

直球だった。

和春は視線を逸らす。

「……まあ」

愛華はそれ以上聞かなかった。

「そうですか」

それだけ。

和春が逆に愛華を見る。

「聞かないのか?」

「和春が話したくなったら話すでしょう?」

愛華は料理を運びながら答える。

「無理に聞くことではありません」

「……」

「先に食べましょう」

いつもの愛華だった。

だからこそ和春は少し困った。

聞かれた方が適当に流せたかもしれない。

だが何も聞かない。

待っている。

その方が逆に話したくなる。



夕食。

焼き魚。

煮物。

味噌汁。

白米。

身体に優しい、いつもの愛華の料理。

和春はしばらく黙って食べていた。

愛華も何も聞かない。

仕事の話。

明日の予定。

そんな普通の話だけをしている。

そして味噌汁を半分ほど飲んだ頃。

和春が箸を置いた。

「愛華」

「はい」

少し間。

「今日‥墓参り行ってた」

愛華の手が止まる。

「……そうだったんですね」

「中学の時の友達だ」

愛華は黙って聞く姿勢になる。

和春は料理へ視線を落としたまま言う。

「前に軽く話したことあっただろ。俺が心理学覚えたての頃、調子乗ってやらかしたって」

「はい」

愛華は覚えていた。

心理学を勉強し始めた頃。

知識さえあれば人を理解できると思っていた。

そんな時期が和春にもあった。

だが詳しい話までは聞いたことがない。

和春は続ける。

「その相手な女だった。同級生で虐められてた」

愛華の表情が静かに変わる。

「相談されたんだ。俺、何とかできると思った。心理学も勉強してた。大人にも話した。教師にも。虐めてる奴を止めれば解決すると思ってた」

和春は小さく笑った。

自嘲するような笑い。

「浅かった」

愛華は何も挟まない。

「虐めが止まった後にそいつがどう見られるか。周りから『虐められてた子』って見られること。同情されること。腫れ物みたいに扱われること。そういうのがどれだけ辛いか。何にも分かってなかった」

箸を握る指に。

僅かに力が入る。

「相談すること自体もそうだ。言えば楽になるとか。大人に言えばいいとか。そんな簡単な話じゃない。相談するって、自分の一番見せたくないところを相手に見せることでもある。怖いに決まってる」

愛華は静かに頷く。

「はい」

和春は一度、目を閉じた。

そして言った。

「最終的に俺の目の前で飛んだ‥」

愛華の手が完全に止まった。

「……」

初めてだった。

愛華でも何も言葉が出なかった。

先日の高校。

屋上。

女子生徒。

和春が異常な速度で駆け出した理由。

落ちる瞬間。

迷いなく飛び込んだ理由。

その全部が一気に繋がった。

「中学二年の時」

和春は淡々と続けようとする。

だがほんの少しだけ声が掠れている。

「必死に喋ったよ。俺が助ける。絶対救う。心理学知ってるから何とかできる。本気でそう思ってた。でも‥‥」

一拍。

「何ともできなかった‥」

愛華は。今まで聞いたどんな仕事の話よりも静かに聞いていた。

和春がこれを話すためにどれだけ時間が必要だったのか何となく分かったから。



「その後」

和春は話す。

「高校入る前くらいかな、まだ色々引きずってた時に祖母の実家がある島で変な姉妹に会った」

愛華が僅かに眉を動かす。

「姉妹?」

「ああ」

「美人だったの覚えてる。でも名前も顔も思い出せない」

愛華が不思議そうにする。

和春にとってそれは異常な言葉だった。

忘れない男。

一度見たものを恐ろしいほど記憶し続ける男。

その和春が顔も名前も覚えていない。

「その姉妹な、結構長いこと滞在してたから頻繁に一緒にいた。心理学の話もした。俺の話も聞いてもらった。そこで言われたんだ」

和春は昔聞いた言葉を思い出す。

「『助けるとか救うって言葉は軽くない』」

愛華が静かに和春を見る。

「『その言葉は主語が必ず自分になる』」

「俺が助ける」

「俺が救う」

「そういう意味になる」

和春は続ける。

「でも本当に助かったかどうか、救われたかどうか、それを決めるのは助けた側じゃない。相手だって」

愛華の紅い瞳が僅かに揺れる。

「『それは相手が感謝で伝える言葉なんだ』『助かった』『救われた』『ありがとう』」

静かな食卓。

和春の声だけが続く。

「それ聞いてなんか‥‥」

少し笑う。

「頭殴られたみたいだった」

愛華は何となく分かる。

それまでの和春は知識を使って人を救う側になろうとしていた。

だがその姉妹の言葉で視点そのものが変わった。

「それから」

和春が言う。

「俺は、答えを決めるのやめた。人の人生なんて。俺が正解決められるわけないから。だから選択肢を増やす。知らない道を見せる。制度を教える。考え方を増やす。逃げ道も。進む道も。戻る道も。全部出す。最後に決めるのは本人」

愛華は小さく息を吐いた。

何度も聞いてきた。

和春の言葉。

――答えを求めるな。

――選択できる人間になれ。

――選択肢を増やせ。

その根にこんな過去があるとは知らなかった。

「では……」

愛華が静かに言う。

「今の和春の心理学はその方たちの言葉から始まったんですね」

和春は少し考え。

「ああ」

頷いた。

「間違いなく影響受けてる。たぶん。今の俺があるのはその姉妹のおかげでもある」

愛華は少し微笑む。

「会ってみたいですね」

和春が苦笑する。

「名前すら分からんけどな」

そして今日のことを話した。

墓参り。

友人の母親。

招かれた家。

十年以上渡されなかった手紙。

「俺宛があった」

愛華が驚く。

「手紙……。三通。母親。父親。俺」

和春は目元を指で押さえた。

思い出しただけで。

また少し痛い。

「そこに。俺が悪いわけじゃないって書いてあった。友達になれて嬉しかった。話聞いてくれてありがとう。守ってくれてありがとう。俺が出した選択肢があったから頑張れたって」

愛華はそれ以上何も言わなかった。

和春の目が赤い理由。

ようやく全部分かった。

「そりゃ泣くだろ」

和春が自分で笑う。

「クソほど泣いた。十何年分だ」

愛華も。

ほんの少しだけ笑った。

「それは酷い顔にもなりますね」

「言うと思った」

二人の間に少しだけ。

柔らかい空気が戻る。



しばらくして愛華が静かに言った。

「和春」

「ん?」

「私は‥」

少し考える。

「その姉妹の方に、感謝しなければいけませんね」

和春が首を傾げる。

「なんでお前が?」

愛華は優しく笑う。

「その言葉がなければ今の和春とは、少し違う人になっていたかもしれません」

「……」

「私が好きな‥‥」

一瞬。

言葉が止まった。

和春が見る。

愛華はすぐに続ける。

「今の和春の考え方はその方たちから受け取ったものでもあるのでしょう?」

和春は今の一瞬を聞き返さなかった。

「まあな」

それだけ。

だが愛華もほんの少しだけ頬が熱かった。

食卓には再び静かな時間が流れる。

和春は久しぶりに自分の過去を誰かへ話した。

そして不思議と少しだけ身体が軽かった。

過去を消したわけではない。

忘れたわけでもない。

忘れることなど。

和春にはできない。

でも一人で持つ必要はないのかもしれない。

そう思えた。

目の前には何も聞かず話すまで待っていてくれた自分の相方がいる。

和春は残っていた味噌汁を飲み干した。

「……うまい」

愛華が微笑む。

「ありがとうございます」

いつもの言葉。

いつもの食卓。

それが今夜だけは少し違って感じられた。