友人の家を出たあと和春は一人、帰りの電車に乗っていた。
窓に映る自分の顔を見る。
「……ひでぇ顔」
目が赤い。
少し腫れている。
そして痛い。
久しぶりに――という言葉では足りないほど泣いた。
あれだけ泣けば当然だった。
十年以上。
届かなかったと思っていた言葉が、突然まとめて返ってきたのだから。
電車の揺れに身を任せながら、和春は目元を軽く押さえる。
(帰ったら愛華になんか言われるな……)
『目、どうしたんですか?』
間違いなく聞かれる。
誤魔化せるか。
いや。
無理だろう。
あの女は妙なところで鋭い。
「……面倒だな」
もちろん。
愛華が嫌なのではない。
説明するのが少し恥ずかしいだけだった。
そんなことを考えていた――
その時。
視界の端の一人の女性。
そしてその背後に立つ男。
「……」
和春の目つきが変わった。
一度見る。
もう一度確認する。
偶然ではない。
明確だった。
男の手。女性の身体。
不自然な距離。女性は何も言えずにいる。
俯いている。肩が硬直していた。
逃げようにも混雑した車内。
身体を少しずらせば、男も寄る。
(……痴漢かよ)
和春は心の中でため息をついた。
墓参りの帰りのクソほど泣いたあとだ。
もう今日は静かに帰りたい。
なのに‥‥
(俺、なんか変なもん引き寄せてんのか?)
トラブルに巻き込まれる。
もはや体質だった。
⸻
だがすぐには動かなかった。
スマートフォンを取り出す。
カメラを起動。
男の手。
位置。
女性が避けようとしている様子。
周囲との距離。
短い動画。
写真。
後から「触っていない」「偶然だった」と言わせないための記録。
必要なものだけ確保する。
そしてスマートフォンをしまった。
和春は男の横へ移動する。
「おい」
男が振り向く。
「……何?」
和春は男の腕を見る。
「その手」
男の顔色が僅かに変わった。
「は?」
「離せ」
「何言って――」
男が手を引こうとする。
その瞬間。
和春が腕を取った。
「っ!?」
関節の向きを制御し、そのまま身体のバランスを崩す。
暴れる暇を与えない。
「痛っ! ちょ、何すんだ!」
「動くな」
低い声。
男の腕を背中側へ回し、車内の壁際へ押さえる。
殴らない。
蹴らない。
必要以上に痛めつけもしない。
ただ逃げられない状態にする。
「離せよ!」
「嫌だ」
「暴力だろこれ!」
「駅員来たら説明してやる」
和春は淡々としている。
「動画もある」
その一言で。
男の動きが止まった。
「……動画?」
「写真もな」
顔色が変わる。
和春はさらに言う。
「だから余計な言い訳考えるより、黙ってろ」
周囲の乗客もようやく状況を理解し始める。
「痴漢……?」
「やっぱり?」
「駅員呼んだ方が……」
車内の空気が変わった。
⸻
和春はこういう人間に、長々と説教する気はなかった。
言葉で説明すれば理解する。
被害者の気持ちを説明すれば反省する。
そんな期待ができる段階なら。
そもそも最初から他人の身体へ勝手に触れていない。
だから説得ではない。
まず行動を止める。
そのあと法と証拠へ渡す。
それでいい。
そして何より。
和春が気にしていたのは女性の方だった。
女性はまだ震えている。
自分が注目されている。
周囲に知られた。
その羞恥。
恐怖。
「私が痴漢された人」として周囲から見られている感覚。
放っておけば事件が終わった後まで、その感覚だけが強く残ることがある。
和春は男を押さえたまま、女性を見る。
「大丈夫か?」
女性は小さく頷こうとする。
だが声が出ない。
「無理に喋らなくていい」
和春はそれ以上求めない。
「次の駅で降りる。駅員と警察には俺から証拠渡す」
一拍。
「お前は話せる範囲だけ話せばいい」
女性の目が上がる。
「……はい」
小さな声。
それだけ出た。
和春は頷く。
「それでいい」
事件の中心を。
「触られた女性」から。
「捕まった痴漢」へ移す。
視線のベクトルを変える。
女性が晒され続けないようにする。
それだけでも。
心理的な負荷は少し変わる。
完全に傷が消えるわけではない。
だが自分が何もできず、ただ被害を受け続けた――
その記憶だけで終わらせないことはできる。
痴漢は止められた。
証拠も残った。
周囲にも味方がいた。
そういう記憶も同じ出来事の中に残すことができる。
⸻
次の駅で扉が開く。
連絡を受けていた駅員が待っていた。
「こちらです!」
和春は男の腕を離さないまま降りる。
「この男痴漢だ。証拠もある」
駅員が男を引き取る。
「何もしてねぇって!」
案の定。
否定した。
和春はスマートフォンを取り出す。
「じゃあこれ見ればいい」
動画を見せる。
男が黙った。
駅員の表情が変わる。
「警察へ連絡します」
「頼む」
そして女性も降りてくる。
まだ不安そうだった。
和春は少し距離を取る。
近づきすぎない。
「付き添い呼べるか?」
女性は頷く。
「……友達が近くにいます」
「じゃあ呼べ」
「一人で帰らなくていい」
女性はスマートフォンを取り出す。
そして少し迷ってから。
和春を見る。
「あの……」
「ん?」
深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
和春は。
その言葉を聞いてほんの一瞬だけ。
今日読んだ手紙を思い出した。
――ありがとう。
和春は小さく息を吐く。
「気にすんな」
それだけ答えた。
⸻
警察への説明も終わる。
動画と写真を提供。
連絡先を残す。
必要事項を一通り済ませて、ようやく和春は再び電車へ乗った。
座席へ座る。
窓に映る顔。
泣き腫らした目。
「……。」
和春は深くため息をついた。
「今日くらい静かに帰らせろよ……。」
誰に言うでもない。
ポケットのスマートフォンを見る。
愛華からメッセージが来ていた。
『何時頃帰宅しますか?』
和春は少し考えて返信する。
『ちょっと遅れる。痴漢捕まえてた』
送信。
三秒。
着信。
画面には――
愛華。
和春は目を閉じた。
「……早ぇよ」
窓に映る自分の顔を見る。
「……ひでぇ顔」
目が赤い。
少し腫れている。
そして痛い。
久しぶりに――という言葉では足りないほど泣いた。
あれだけ泣けば当然だった。
十年以上。
届かなかったと思っていた言葉が、突然まとめて返ってきたのだから。
電車の揺れに身を任せながら、和春は目元を軽く押さえる。
(帰ったら愛華になんか言われるな……)
『目、どうしたんですか?』
間違いなく聞かれる。
誤魔化せるか。
いや。
無理だろう。
あの女は妙なところで鋭い。
「……面倒だな」
もちろん。
愛華が嫌なのではない。
説明するのが少し恥ずかしいだけだった。
そんなことを考えていた――
その時。
視界の端の一人の女性。
そしてその背後に立つ男。
「……」
和春の目つきが変わった。
一度見る。
もう一度確認する。
偶然ではない。
明確だった。
男の手。女性の身体。
不自然な距離。女性は何も言えずにいる。
俯いている。肩が硬直していた。
逃げようにも混雑した車内。
身体を少しずらせば、男も寄る。
(……痴漢かよ)
和春は心の中でため息をついた。
墓参りの帰りのクソほど泣いたあとだ。
もう今日は静かに帰りたい。
なのに‥‥
(俺、なんか変なもん引き寄せてんのか?)
トラブルに巻き込まれる。
もはや体質だった。
⸻
だがすぐには動かなかった。
スマートフォンを取り出す。
カメラを起動。
男の手。
位置。
女性が避けようとしている様子。
周囲との距離。
短い動画。
写真。
後から「触っていない」「偶然だった」と言わせないための記録。
必要なものだけ確保する。
そしてスマートフォンをしまった。
和春は男の横へ移動する。
「おい」
男が振り向く。
「……何?」
和春は男の腕を見る。
「その手」
男の顔色が僅かに変わった。
「は?」
「離せ」
「何言って――」
男が手を引こうとする。
その瞬間。
和春が腕を取った。
「っ!?」
関節の向きを制御し、そのまま身体のバランスを崩す。
暴れる暇を与えない。
「痛っ! ちょ、何すんだ!」
「動くな」
低い声。
男の腕を背中側へ回し、車内の壁際へ押さえる。
殴らない。
蹴らない。
必要以上に痛めつけもしない。
ただ逃げられない状態にする。
「離せよ!」
「嫌だ」
「暴力だろこれ!」
「駅員来たら説明してやる」
和春は淡々としている。
「動画もある」
その一言で。
男の動きが止まった。
「……動画?」
「写真もな」
顔色が変わる。
和春はさらに言う。
「だから余計な言い訳考えるより、黙ってろ」
周囲の乗客もようやく状況を理解し始める。
「痴漢……?」
「やっぱり?」
「駅員呼んだ方が……」
車内の空気が変わった。
⸻
和春はこういう人間に、長々と説教する気はなかった。
言葉で説明すれば理解する。
被害者の気持ちを説明すれば反省する。
そんな期待ができる段階なら。
そもそも最初から他人の身体へ勝手に触れていない。
だから説得ではない。
まず行動を止める。
そのあと法と証拠へ渡す。
それでいい。
そして何より。
和春が気にしていたのは女性の方だった。
女性はまだ震えている。
自分が注目されている。
周囲に知られた。
その羞恥。
恐怖。
「私が痴漢された人」として周囲から見られている感覚。
放っておけば事件が終わった後まで、その感覚だけが強く残ることがある。
和春は男を押さえたまま、女性を見る。
「大丈夫か?」
女性は小さく頷こうとする。
だが声が出ない。
「無理に喋らなくていい」
和春はそれ以上求めない。
「次の駅で降りる。駅員と警察には俺から証拠渡す」
一拍。
「お前は話せる範囲だけ話せばいい」
女性の目が上がる。
「……はい」
小さな声。
それだけ出た。
和春は頷く。
「それでいい」
事件の中心を。
「触られた女性」から。
「捕まった痴漢」へ移す。
視線のベクトルを変える。
女性が晒され続けないようにする。
それだけでも。
心理的な負荷は少し変わる。
完全に傷が消えるわけではない。
だが自分が何もできず、ただ被害を受け続けた――
その記憶だけで終わらせないことはできる。
痴漢は止められた。
証拠も残った。
周囲にも味方がいた。
そういう記憶も同じ出来事の中に残すことができる。
⸻
次の駅で扉が開く。
連絡を受けていた駅員が待っていた。
「こちらです!」
和春は男の腕を離さないまま降りる。
「この男痴漢だ。証拠もある」
駅員が男を引き取る。
「何もしてねぇって!」
案の定。
否定した。
和春はスマートフォンを取り出す。
「じゃあこれ見ればいい」
動画を見せる。
男が黙った。
駅員の表情が変わる。
「警察へ連絡します」
「頼む」
そして女性も降りてくる。
まだ不安そうだった。
和春は少し距離を取る。
近づきすぎない。
「付き添い呼べるか?」
女性は頷く。
「……友達が近くにいます」
「じゃあ呼べ」
「一人で帰らなくていい」
女性はスマートフォンを取り出す。
そして少し迷ってから。
和春を見る。
「あの……」
「ん?」
深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
和春は。
その言葉を聞いてほんの一瞬だけ。
今日読んだ手紙を思い出した。
――ありがとう。
和春は小さく息を吐く。
「気にすんな」
それだけ答えた。
⸻
警察への説明も終わる。
動画と写真を提供。
連絡先を残す。
必要事項を一通り済ませて、ようやく和春は再び電車へ乗った。
座席へ座る。
窓に映る顔。
泣き腫らした目。
「……。」
和春は深くため息をついた。
「今日くらい静かに帰らせろよ……。」
誰に言うでもない。
ポケットのスマートフォンを見る。
愛華からメッセージが来ていた。
『何時頃帰宅しますか?』
和春は少し考えて返信する。
『ちょっと遅れる。痴漢捕まえてた』
送信。
三秒。
着信。
画面には――
愛華。
和春は目を閉じた。
「……早ぇよ」

