相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

休日。

空は薄い雲に覆われていた。

雨が降るほどではない。

かといって、気持ちよく晴れているわけでもない。

風だけが静かに墓地を抜け、並んだ墓石の間を通り過ぎていく。

その中を、和春は一人で歩いていた。

愛華はいない。

今日は誘わなかった。

仕事でもなければ、誰かに頼まれたわけでもない。

ただ――来たかった。

片手には花。

もう片方には、小さな紙袋。

線香と。

昔、彼女が好きだった菓子が入っている。

やがて一つの墓石の前で足を止めた。

「……久しぶり」

返事などない。

分かっている。

和春はしゃがみ込み、慣れた手つきで花を供えた。

線香に火をつける。

白い煙が細く昇っていく。

しばらく。

何も言わなかった。

ただ墓石を見ていた。

「この前さ」

ようやく口を開く。

「高校生が飛ぼうとした」

風が吹く。

煙が横へ流れた。

「彼氏に酷い振られ方してな。屋上の柵越えてた」

和春は自嘲するように笑う。

「説得して。もうちょっとで戻せたんだけど」

少し間を置く。

「最後に馬鹿が余計なこと言いやがって」

少女は飛んだ。

だが今度は―間に合った。

「腕、掴めたよ」

和春は墓石を見る。

「まあ俺まで落ちたけどな」

小さく笑う。

「格好つかねぇよな」

それでも。

生きている。

あの少女は今も生きている。

家族のところへ戻れた。

これから傷と向き合わなければならない。

学校へ戻ることが怖くなる日もあるだろう。

恋愛そのものが怖くなるかもしれない。

あの日を夢に見るかもしれない。

それでも選択できる時間は残った。

和春は墓石へ目を戻す。

「……今回は」

声が少しだけ低くなる。

「間に合った」

その言葉を口にした瞬間。

十年以上前の光景が。

鮮明に蘇った。

忘れられない。

いや。

忘れることができない。



中学二年。

彼女は虐められていた。

最初に相談された時。

和春は本気で思った。

――俺が何とかする。

心理学を勉強していた。

同年代の子供より、知識があると思っていた。

人間関係。

集団心理。

同調圧力。

傍観者。

虐めが起きる構造。

本で読んだ。

理解したつもりだった。

だから。

解決できると思った。

教師にも相談した。

大人にも話した。

証拠も集めた。

虐めている側へ働きかければいい。

教師が注意すればいい。

学校が対応すればいい。

加害者を止めれば。

問題は終わる。

――浅かった。

あまりにも。

浅かった。

虐めが止まったとして。

次の日から。

彼女はどう学校へ行くのか。

『虐められていた子』

そんな目で見られることが。

本人にとってどれほど苦しいのか。

腫れ物に触るように優しくされることが。

どれほど惨めに感じることがあるのか。

知らなかった。

噂。

視線。

同情。

好奇心。

「あの子、虐められてたんだって」

その一言が。

どれだけ深く刺さるのか。

和春には分からなかった。

そして何より。

――相談する。

その行動自体に。

どれほど勇気が必要だったのか。

分かっていなかった。

自分に話してくれた。

だから自分は頼られている。

そんな単純なものではなかった。

彼女は。

誰にも言えず。

何度も迷い。

怖がり。

それでも最後に。

和春へ話した。

その重さを。

当時の和春は理解できていなかった。

「……ガキだったな」

墓石の前。

和春は呟く。

「俺‥」

自分が正しいと思っていた。

知識があると思っていた。

解決できると思っていた。

――助ける。

――救う。

そんな言葉を。

平気で使っていた。

「今だったらさ」

風が吹く。

「もうちょいマシな選択肢、出せたのかもな」

学校へ行かない。

転校する。

一時的に環境を変える。

専門機関へ繋ぐ。

家族と一緒に考える。

学校以外の居場所を作る。

相手をどうにかすることだけではなく。

彼女自身の環境を変える。

逃げてもいい。

休んでもいい。

戦わなくてもいい。

忘れなくてもいい。

今なら。

もっと。

もっとたくさん。

道を並べられる。

だが。

今だから分かるだけだ。

十四歳の自分には。

それがなかった。

そして――

彼女は和春の目の前から落ちた。

その瞬間だけはどれほど年月が経っても。

薄れない。



あの事件からしばらく。

和春は心理学そのものが分からなくなった。

自分が学んできたものは何だったのか。

言葉で人の心を理解できる。

知識があれば誰かを救える。

そんなことを考えていた自分が心底嫌になった。

高校入学を控えた頃まだ答えを探していた時期だった。

その頃、祖母の実家の島で不思議な姉妹と出会った。

美人だった。

それだけは覚えている。

姉妹は旅行いいつつも1ヶ月近くも島に滞在していた。

なぜか和春と何度も話した。

心理学の話もした。

人間の話もした。

彼女の話も。

少しだけ。

その時、姉妹の姉の方が和春へ言った。

『助けるとか、救うって言葉はね。そんなに軽くないんだよ』

『その言葉って、主語が必ず自分になるでしょ?』

当時の和春は。

黙って聞いていた。

『私が助ける』

『私が救う』

『そうなっちゃう』

『でもね。本当に誰かが助かったか、救われたかなんて、こっちが決めることじゃないんだよ』

そして笑っていた。

『それは相手が感謝で伝える言葉なの』

『助かった』

『救われた』

『ありがとうって』

あの言葉だけは今でも覚えている。

不思議なことに。ー顔は思い出せない。

名前も思い出せない。

異常だった。

今の和春にとって記憶にないということ自体がほとんどあり得ない。

自宅に帰るため船に乗った。

そこまでは覚えている。

突然。

局地的な嵐に遭遇した。

甲板が大きく揺れた。

身体が投げ出された。

海へ落ちた。

そして――

船のスクリューに巻き込まれた。

後から。

生きていること自体が奇跡だと言われた。

1週間ほど生死の境を彷徨ったが意識がもどり
回復した後。

和春の記憶力と回復力は異常なものになっていた。
今は古傷すら残ってはいない‥
記憶に関しては‥

一度見たもの。

読んだもの。

聞いたもの。

ほとんど忘れない。

忘れたくても。

消えてくれない。

なのにあの姉妹だけが霞んでいる。

声。言葉。教えてもらったこと。

断片的な風景。それは残っている。

だが顔と名前だけがどうしても出てこない。

「……後遺症なんかな」

墓石の前で和春は独り言のように呟いた。

「皮肉だよな。忘れたいことは全部覚えてんのに」

彼女が落ちた瞬間も。

その時の空の色も。

声も。

表情も。

全部。

残っている。



「……和春くん?」

声がした。

和春の身体が止まる。

ゆっくり振り返った。

女性が立っていた。

年齢を重ねている。

だが。

すぐに分かった。

「……」

言葉が出ない。

女性も。

しばらく和春を見ていた。

そして。

少しだけ笑った。

「やっぱり和春くんよね?」

彼女の母親だった。

「大きくなって……」

和春は立ち上がる。

「……久しぶり」

それしか言えなかった。

普段なら。

誰が相手でも。

何を言われても。

言葉が出る。

だがこの人だけは今でも少し怖かった。

恨まれているとは思っていない。

当時も責められなかった。

それでも顔を合わせづらかった。

自分の目の前で娘を失った母親。

何を話せばいいのか分からない。

「お墓参り、来てくれてたのね」

「……たまにな」

「そう」

女性は墓を見る。

「ありがとう」

その一言が少し痛かった。



「時間ある?」

突然聞かれた。

和春は少し迷って。

「ああ」

「じゃあ」

女性は微笑んだ。

「家、寄っていかない?」

和春の胸に。

小さな緊張が走った。

それでも。

「……分かった」

断らなかった。



家は記憶の中とあまり変わっていなかった。

玄関。

廊下。

リビング。

ただ家具が少し変わっている。

壁紙も昔とは違う。

十年以上という時間だけが確かに流れていた。

「座って」

「ああ」

和春はソファへ腰を下ろす。

母親が茶を出す。

そして。

向かいへ座った。

「……」

「……」

妙な沈黙。

和春ですら。

何を言えばいいか分からない。

やがて。

母親が立ち上がった。

「ちょっと待ってて」

別の部屋へ消える。

数分後。

戻ってきた手には古い封筒があった。

一枚ではない。

その中から一通を取り出す。

そして和春の前へ置いた。

「これ」

「……何」

母親は。

しばらく封筒を見つめた。

「手紙」

和春の目が止まる。

「三通あったの」

「……」

「あの子が亡くなる前に書いていた手紙」

母親は静かに続けた。

「私宛。主人宛」

そして和春を見る。

「和春くん宛」

呼吸が一瞬止まった。

「……俺?」

「そう」

和春は封筒を見る。

自分の名前。

見覚えがある。

忘れるはずがない。

彼女の字だった。

「ずっと‥」

母親が言う。

「いつか渡さなきゃって思ってた。でも‥‥当時のあなたには……渡せなかった」

和春は何も言えない。

「あの頃の和春くん。自分を責めてたでしょう?」

「……」

「大人が何を言っても聞かなかった。俺がもっと何かできたって。俺が間違えたって、ずっと言ってた」

覚えている。

「だから」

母親の目に涙が浮かぶ。

「いつかあなたがちゃんと向き合える歳になったらその時に渡そうって」

和春は封筒へ手を伸ばした。

指が僅かに震えていた。

「私たち親もね」

母親が続ける。

「もちろん辛かった。今でも辛いわ。でも」

和春を見る。

「目の前で飛ばれたあなたは」

声が震える。

「相当なトラウマだったはずよ」

和春は答えなかった。

答えられなかった。

封筒を開く。

中から便箋を取り出す。

十年以上。

開かれることのなかった。

自分宛の言葉。



『和春へ』

その一行だけで。

胸が詰まった。

読み進める。

『まず、友達になってくれてありがとう』

『和春と友達になれて、私は本当に嬉しかったです』

昔の彼女の声が頭の中で再生される。

『私の話を聞いてくれてありがとう』

『力を貸してくれてありがとう』

『守ってくれてありがとう』

和春の指が止まる。

――守れてない。

反射的に。

そう思った。

だが次の文章。

『和春が悪いわけじゃないよ』

「……」

視界が僅かに揺れた。

『たぶん和春は、自分が悪かったって思うと思うから先に書いておきます』

『和春は悪くないです』

『和春がくれた選択肢があったから、私はここまで頑張れました』

呼吸が浅くなる。

文字を追う。

『だから和春は、和春のままでいてください』

『ちょっと強気で』

『自信満々で』

『なんでもできるって顔してる和春のままでいてください』

「……なんだよ、それ」

声が掠れた。

昔の自分。

生意気で。

知識があれば何でもできると思っていた。

そんな自分を彼女は嫌っていなかった。

『この手紙を読んでる時』

『私はもうこの世にいないんだと思います』

そこで文字が見えなくなった。

和春は一度目を閉じる。

そしてまた読む。

『もうね』

『私は頑張れなかったんだ』

『和春が支えてくれていても』

『パパやママがいても』

『ずっと三人に頼ることはできないって思いました』

『ごめんね』

和春の手が。

震える。

『これが私の選んだ選択です』

その文章を見た瞬間。

和春の中で。

何かが崩れた。

十年以上。

何度も。

何度も。

考えた。

自分が間違えた。

自分の知識が足りなかった。

自分の言葉が足りなかった。

もっと早く気付けば。

もっと違う方法なら。

もっと。

もっと。

もっと。

だが本人は最後に自分で選んだとそう書いている。

納得などできるはずがない。

今でもその選択が正しかったとは思わない。

もし目の前にいたら今の自分ならいくらでも別の道を並べる。

逃げ道も。

休む道も。

全部。

全部見せる。

それでも彼女が。最後に自分を責めなかったことだけは伝わった。

『和春が悪いわけじゃない』

文字が滲む。

和春は目元を拭う。

だが次から次へと溢れてくる。

「……くそ」

読めない。

便箋の文字が。

涙でぼやけていく。

「……読めねぇよ」

母親は何も言わなかった。

ただ向かいに座っている。

和春は必死に続きを追う。

まだたくさん書いてある。

学校のこと。

二人で話したこと。

和春が貸した本。

くだらない喧嘩。

一緒に笑った日。

好きだった場所。

家族への気持ち。

そして和春への言葉。

でも、もう、文字がまともに見えなかった。

「……遅ぇよ」

和春が呟く。

誰に言ったのか。

分からない。

「十年以上……」

声が震える。

「遅ぇって……」

母親の目からも。

涙が落ちた。

「ごめんね」

和春は首を横に振った。

「違う」

それだけはすぐに言えた。

「違うんだ」

封筒を握る。

「今だったんだろ」

母親が和春を見る。

和春は涙を拭う。

「たぶん。俺がこれ読めるの今だったんだろ」

母親は。

ゆっくり頷いた。

長い沈黙。

窓の外から。

生活の音が聞こえる。

車。

鳥。

遠くを歩く人の声。

世界は。

当たり前のように動いている。

和春は便箋を見る。

そして震える息を吐いた。

「……この前」

母親が顔を上げる。

「高校生が飛ぼうとしたんだ」

和春は。

少しずつ話した。

屋上。

説得。

戻ろうとしたこと。

最後に飛んでしまったこと。

腕を掴んだこと。

自分まで落ちたこと。

そして。

二人とも無事だったこと。

「今は生きてる」

和春は言った。

「これから色々あるだろうけど、少なくとも選べる時間は残った」

母親は。

静かに聞いていた。

そして。

少しだけ笑った。

「そう」

「……うん」

「よかったわね」

和春はしばらく黙っていた。

そして手紙を見る。

「……ああ」

声はまだ震えていた。

それでも答えた。

「ああ」

十年以上前。

掴めなかった手。

先日。

掴むことができた手。

どちらも消えることはない。

片方が片方を帳消しにすることもない。

今回一人が生きたからといって。

昔の彼女が戻ってくるわけではない。

そんな単純な話ではない。

ただ和春は初めてほんの少しだけ思えた。

過去を忘れなくても前には進める。

忘れることができない自分だからこそ。

抱えたまま別の道を選び続ければいい。

和春はもう一度手紙へ視線を落とした。

涙で滲んだ文字。

その中に何度も書かれている言葉があった。

――ありがとう。

それはかつて旅行先で出会った。

顔も名前も思い出せない姉妹から教えられた言葉と。

奇妙なほど重なっていた。

『本当に助かったかどうかを決めるのは、助けた側じゃない』

『それは相手が言う言葉なの』

――助かった。

――救われた。

――ありがとう。

和春は。

目元を腕で覆った。

そして。

誰にも聞こえないほどの声で。

墓には届くように。

呟いた。

「……こっちこそ」

一度。

声が詰まる。

「ありがとう」

十年以上経って。

ようやく返すことができた。