Boundary & Mind     心の境界線

救助マットの周囲には、まだ慌ただしい空気が残っていた。

警察官が関係者から事情を聞き、救急隊員が機材を運び、教師たちは集まった生徒たちを校舎へ戻そうとしている。

その騒ぎの中。

一組の男女が、警察官に案内されながらこちらへ走ってきた。

「――っ!」

女子生徒の身体が強張った。

父親と母親だった。

連絡を受け、慌てて学校まで駆けつけたのだろう。

母親は顔を真っ青にしている。

父親も平静を装ってはいるが、歩く速度が明らかに速い。

「……お母さん」

女子生徒の声が震えた。

さっきまで和春と話し、少しずつ笑えるところまで戻っていた表情に、再び緊張が浮かぶ。

何を言われるだろう。

怒られるだろうか。

泣かれるだろうか。

どう説明すればいい。

自分が何をしようとしたのか。

両親の顔を見た途端、それらが一気に現実として押し寄せてきた。

少女の指先が震える。

「……」

そんな時だった。

ちらりと横を見る。

銀髪の女性に詰められている男がいる。

「ですから病院へ行きます」

「いや、大丈夫だって」

「大丈夫かどうかを決めるのは医師です」

「普通に動けるぞ」

「知りません」

「どこも痛く――」

「先ほど『打ったところは少し痛い』と言いましたよね?」

「……言ったっけ?」

「言いました」

「記憶にない」

「都合の悪い時だけ記憶力を失わないでください」

和春が露骨に面倒そうな顔をする。

「いや、本当に大したことないって」

「屋上から落ちた人が言う台詞ではありません」

「マットあっただろ」

「マットがあれば屋上から落ちてもいいという理屈にはなりません」

「そういう意味じゃ――」

「病院」

「……はい」

少女が思わず吹き出した。

「ふふっ……」

和春が振り向く。

「何笑ってんだ」

「だって……」

涙の跡を残したまま。

少女は少し笑った。

「神代さん、さっきから天城さんに怒られっぱなし」

「こいつ怒ると長いんだよ」

「和春?」

「何でもない」

そのやり取りを見ていると。

少しだけ。

本当に少しだけ。

怖さが薄れた。

和春が少女の顔を見る。

そしてその視線が何度も両親へ向いていることに気付く。

「緊張してんのか」

「……うん」

「まあ、するわな」

少女が和春を見る。

「怒られるかな……」

「知らん」

「そこは大丈夫って言ってよ……」

「分からんことを大丈夫とは言えん」

相変わらずだった。

綺麗な言葉で誤魔化してくれない。

「でも」

和春は近づいてくる両親を見る。

「顔見れば分かるだろ」

少女も見る。

母親はもう泣いている。

父親も必死に感情を抑えている。

「怒るかもしれん。泣くかもしれん。色々聞かれるかもしれん」

「……うん」

「でも」

和春は少女を見る。

「ここまで走ってきた」

その一言で少女の瞳からまた涙が溢れた。

「……うん」

そして母親が少女の名前を叫んだ。

「――!」

駆け寄る。

少女が立ち上がる。

次の瞬間。

強く抱きしめられた。

「よかった……!」

母親の声が崩れる。

「よかった……本当に……!」

「お母さん……ごめんなさい……ごめんなさい……!」

少女も泣いた。

父親はすぐには何も言えなかった。

娘の頭へ手を置く。

それだけだった。

だがその手は震えていた。

和春は黙って数歩離れる。

今は自分が入るところではない。

⸻

少し離れた場所。

麗華は一連の様子を見ていた。

そして隣では愛華が和春の身体を確認している。

「本当に痛くありませんか?」

「ちょっと打っただけ」

「どこです?」

「この辺」

「でしたら、なおさら検査です。」

「だから――」

「検査」

「……分かったって」

麗華は呆れた。

「あなた……」

和春が見る。

「なんだよ」

「さっきまで、あれだけ冷静に女の子を説得していた人と同一人物とは思えないわね」

「何が」

麗華は愛華を見る。

「愛華に怒られると弱すぎない?」

「別に弱くねぇよ」

愛華が即座に言う。

「弱いですよ」

「お前は黙ってろ」

「嫌です」

「…………」

麗華はため息をつく。

この二人。

仕事中の異常なほどの連携。

命がかかった場面での冷静さ。

それを見た直後だからこそ。

普段のやり取りとの落差が酷い。

「とにかく」

麗華は言った。

「二人とも病院でしょう」

女子生徒も和春も屋上から落下した。

救助マットがあったとはいえ、検査を受けないという選択肢はない。

和春だけが最後まで嫌そうな顔をしていたが。

愛華に勝てるはずもなく。

結局、救急車で病院へ向かうことになった。

⸻

数時間後。

病院。

先に女子生徒の検査結果が出た。

幸い。

大きな外傷はなかった。

救助マットが十分に展開されていたこともあり、軽い打撲程度。

念のため経過を見る必要はあるが、命に関わるような異常は確認されなかった。

両親は何度も医師へ頭を下げていた。

そして和春。

「……異常ありませんね」

医師が画像を見ながら言った。

愛華が確認する。

「本当にですか?」

「はい」

骨折なし。

頭部にも異常なし。

内臓にも問題なし。

それどころか医師が首を傾げる。

「神代さん」

「ん?」

「打った場所があるとおっしゃいましたよね?」

「ああ」

「どちらです?」

和春が脇腹付近を示す。

「この辺」

医師が確認する。

「……痛みは?」

「もうない」

「押しますよ」

「ああ」

医師が触診する。

和春は特に反応しない。

「……」

医師の眉が寄る。

愛華も気付く。

「どうしました?」

「いえ……」

医師はもう一度確認した。

「内出血もありません」

「え?」

愛華が和春を見る。

救助直後。

確かに和春は言っていた。

打ったところが少し痛い、と。

落下前にも。

柵へかなり強く身体をぶつけている。

無傷。

本当に何もない。

「…………」

愛華の紅い瞳が僅かに細くなる。

和春本人は

「だから大丈夫って言っただろ」

「そういう問題ではありません」

「結果論だろ」

「結果論でも病院には来てもらいます」

「はいはい」

「返事」

「はい」

医師が少し笑う。

だが愛華だけは和春の身体を見ながらほんの僅かな違和感を覚えていた。

⸻

そしてもう一つ。

麗華が驚いたことがある。

今回の事件は当然ながら一歩間違えれば大きなニュースになる。

名門のマンモス校。

女子高校生の飛び降り。

大学生との交際トラブル。

そしてネット上でもそれなりに知名度のあるコンサルタント、神代和春まで一緒に落下。

話題性だけなら十分すぎた。

SNSにもすでに断片的な投稿が出始めていた。

『学校で何かあったらしい』

『救急車と警察来てる』

『神代和春いたってマジ?』

だが不思議なほど詳細が広がらなかった。

女子生徒の名前。

交際関係。

家庭。

具体的な状況。

そういった情報が表へ出てこない。

大手メディアも学校名や個人が特定されるような形では大きく扱わなかった。

偶然ではない。

和春が動いていた。

病院の廊下。

麗華は壁にもたれながら、電話を終えた和春を見る。

「……あなた」

「なんだよ」

「今、どこに電話していたの?」

「何ヶ所か」

「何ヶ所かって?」

「学校側にも話通した。警察にも確認した。あと知り合いにも」

「知り合い?」

和春は携帯をポケットへ入れる。

「マスコミ関係」

麗華の眉が動く。

「……あなた、そんなところにも知り合いがいるの?」

「仕事してりゃ増える」

簡単に言う。

だが麗華には分かる。

そんな単純な話ではない。

企業経営者。

不動産会社。

法律家。

職人。

芸能関係者。

教育関係。

そして。

報道関係。

父から渡された調査資料にも。

人脈については書かれていた。

だが実際に目の前で見るとその広さが異常だった。

「揉み消したわけではありませんよ」

横から愛華が補足する。

麗華が愛華を見る。

「今回の件で重要なのは、事件そのものを隠すことではありません。学校や警察が必要な対応をすること。そして何より」

愛華は病室の方を見る。

「彼女のこれからを守ることです」

和春が続ける。

「高校生だぞ」

「一番しんどい時期に、名前も顔も学校もネットに晒されたら立ち直れるもんも立ち直れん。報道するなとは言ってない。必要以上に玩具にするなって話しただけだ」

麗華は黙る。

和春はさらに言う。

「ネットは一回広がると消えねぇからな。本人が数年後に前向いて歩こうとしても検索したら今日のことが出てくる。そんなもん残す必要ないだろ」

淡々としていた。

自分がニュースになることなど。

どうでもいいらしい。

考えているのは。

少女の数年後。

その先。

「……」

麗華は和春を見る。

数時間前。

自分はこの男の講義を見た。

――選択肢を増やす。

そう高校生たちに教えていた。

そして。

事件が起きた。

少女を説得した。

一緒に屋上から落ちた。

落下した後も精神的なケアを続けた。

両親との再会まで支えた。

さらに本人が知らないところで未来に残るかもしれない傷まで減らそうとしている。

なのに本人は‥‥

「腹減ったな」

唐突にそんなことを言った。

麗華が固まる。

愛華が呆れた顔をする。

「……和春」

「なんだよ」

「もう少し余韻というものはないんですか?」

「腹減ったもんは仕方ないだろ」

「あなたという人は……」

「病院の飯って食えるのか?」

「あなた入院ではありませんよ」

「じゃあ帰りなんか食ってく?」

「まず先生のお話を最後まで聞いてください」

「もう異常なしって言われた」

「そういうところです」

また始まった。

麗華は二人を見て。

深いため息をついた。

今日一日で。

神代和春という人間を。

少しは理解できると思っていた。

だが、むしろ分からないことの方が増えた。

異常な知識。

異常な記憶力。

異常な判断力。

異常な人脈。

そして――

屋上から人一人と一緒に落ちて。

なぜか傷一つ残っていない身体。

麗華は目を細める。

(……本当に何者なのよ、この男)

その疑問に和春本人だけが何も気付いていないような顔で愛華に夕食の相談をしていた。