屋上。
悲鳴と混乱がまだ収まらない中。
愛華は柵の向こうを見下ろしていた。
下には巨大な救助マット。
その中央付近で、和春と女子生徒が無事に動いている。
それを確認した瞬間。
愛華の全身から、一気に力が抜けた。
「……よかった」
小さく。
本当に小さく。
声が漏れる。
だが、その直後だった。
背後から、信じられない言葉が聞こえた。
「……マジで飛ぶのかよ」
愛華の表情が止まる。
例の大学生の男だった。
男は柵の方を見ながら、苛立ったように続ける。
「ってか手ぇ掴んだんなら、落とすなよ。力ないのかよ……」
一瞬。
屋上の空気が凍った。
教師たちまで言葉を失う。
麗華が男を見る。
そして。
ゆっくり愛華へ視線を向けた。
嫌な予感がした。
「……愛華」
遅かった。
愛華が振り返る。
その顔には。
さっきまでの安堵はない。
冷たい。
完全に怒っている。
「あなた」
男が面倒そうに見る。
「……何?」
愛華は一歩近づいた。
「人間一人を落下し始めた状態から片腕で支えた経験がありますか?」
男が眉をひそめる。
「は?」
「ありませんよね」
声は穏やかだった。
だが、言葉の一本一本が鋭い。
「映画やドラマでは。崖から落ちた人間の腕を掴んで、そのまま引き上げる場面があります」
「ですが」
一歩。
「現実は違います!」
男の顔から、少しずつ余裕が消える。
「人間には体重があります。落下の勢いもあります。和春は安定した姿勢で掴んだわけでもありません。走り込んで。身体を投げ出して。落ちる寸前の腕を掴んだんです」
麗華は黙って聞いている。
教師も誰も止めない。
愛華は続ける。
「それでも和春は手を離さなかった。自分まで落ちると分かっていても離しませんでした」
男が言い返そうとする。
「でも――」
「黙ってください!」
一言。
完全に封じる。
「あなた先ほど彼女に何と言いました?」
男が黙る。
「『飛ぶ振りして気を引くな』『重い』」
愛華の紅い瞳が細くなる。
「そして今は命懸けで腕を掴んだ人間に『力がない』?『落とすな』?」
愛華は笑わない。
「随分と立派なことをおっしゃいますね。ご自分では何一つしていないのに」
男の顔が引きつる。
「彼女がここまで追い詰められたことにも。和春が落ちたことにも。あなたは何一つ責任を感じていない。自分が面倒かどうか、自分が悪く見えないかどうか。それしか考えていないんですね」
男は完全に黙った。
愛華は最後に。
静かに言った。
「あなたが今、一番恥じるべきなのは彼女が飛んだことではありません。和春が落ちたことでもありません」
一拍。
「こんな状況でもなお、その程度の言葉しか出てこない。自分自身です」
誰も何も言わない。
風の音だけが屋上を抜ける。
愛華は男から視線を外した。
もう興味すらない。
「二度と。彼女の前で、今のような言葉を口にしないでください」
それだけ残す。
そして柵の方を見る。
下に和春がいる。
生きている。
今すぐ行きたい。
「姉さん」
愛華が麗華を見る。
「私は下へ行きます」
麗華も頷く。
「行きなさい」
愛華は走った。
屋上の扉を開け。
階段を駆け下りる。
普段の愛華からは想像もできないほど。
全力だった。
⸻
その頃。
校舎下。
救助マットの周囲。
和春はすでにマットから降りていた。
多少の打撲はある。
だが意識ははっきりしている。
そして隣には女子生徒。
少女はまだ泣いていた。
身体の震えも完全には止まっていない。
救急隊員が近づこうとした時。
和春が片手を上げる。
「ちょっと待ってくれ。先に話させて」
救急隊員は少女の様子を見る。
そして数歩下がった。
和春は少女の隣へ座る。
「……ごめんなさい」
少女が泣きながら言う。
和春が見る。
「何が?」
「私のせいで……神代さんまで落ちて……もし死んでたら……」
声が詰まる。
「私……」
新しい罪悪感。
それが今度は少女を押し潰そうとしている。
和春はそこだけは迷わなかった。
「いや」
少女が顔を上げる。
和春は小さく笑う。
「今のどんな絶叫マシンよりスリルあったな」
少女が呆然とする。
「……え?」
「マジで落ちてる途中、頭の中で『これはさすがにヤバいな』って思った」
「……」
「でも」
和春は救助マットを見る。
「これ経験したら、大抵の絶叫マシンは余裕だろ」
少女の口元がほんの少しだけ動く。
「……何それ」
「知らん。俺も初体験だ」
少女が泣きながら笑う。
「普通……怒りません?」
「なんで?」
「私のせいで……」
「そこ違う」
和春の声が少しだけ真面目になる。
「俺が飛び込んだのは俺が勝手に決めた。お前が命令したわけじゃない。だから俺の行動までお前が背負うな」
少女は涙を落とす。
「でも……」
「責任分けろ」
「お前のことはお前の責任。俺のことは俺の責任。混ぜると余計しんどくなる」
少女はしばらく黙った。
やがて。
「……変な人」
和春が笑う。
「それもよく言われる」
「化け物」
「それは悪口な」
「ふふ……」
笑った。
まだ涙だらけの顔。
でも笑えた。
和春はそれを見て。
少しだけ安心する。
⸻
「今日、この後どうしたい」
少女が考える。
「……帰りたい」
「一人で?」
首を横に振る。
「嫌」
「じゃあ誰呼ぶ」
少し考えて。
「……お母さん」
「いいじゃん」
「怒られるかな……」
「怒るかもしれん」
少女が不安そうにする。
「でも」
和春は続ける。
「泣くかもしれん。抱きしめるかもしれん。何も言えないかもしれん。どれになるかは、会ってみないと分からん」
少女はまた泣く。
でも今度はさっきとは違う涙だった。
⸻
その時。
遠くから。
走る足音。
「和春!」
和春が振り向く。
愛華だった。
息を切らしている。
髪も少し乱れている。
和春の表情が変わる。
「愛華?」
愛華は和春の前まで来る。
一度。
頭から足まで見る。
本当に無事か。
怪我は?血は?
呼吸は?確認する。
そして安心した瞬間。
涙が落ちた。
「……馬鹿」
和春が固まる。
「え」
「本当に……」
愛華の声が震える。
「馬鹿です……」
和春が慌てる。
さっきまで女子生徒を冷静に支えていた男とは思えない。
「おい。ちょっと待て!俺、平気だから!」
「そういう問題ではありません!」
「分かった、分かった。泣くなって!」
「誰のせいですか!」
「……俺だな」
「分かってるなら黙ってください!」
和春が完全に困っている。
その様子を見て女子生徒が、ぷっ。と、吹き出した。
和春と愛華が同時に見る。
少女は涙を拭きながら笑っている。
「神代さん」
「何?」
「女の人が泣いたら。すごい弱いんですね。」
「……」
「さっきまでめちゃくちゃ格好良かったのに‥‥今、完全に負けてる」
和春が眉を寄せる。
「うるさい」
少女がさらに笑う。
「顔困ってる」
「見れば分かること言うな」
愛華も涙を流しながら少しだけ笑った。
⸻
しばらくして救急隊員が声をかける。
「お二人とも、念のため検査を」
和春が立ち上がる。
「俺はいい」
愛華が即答する。
「行きます」
「大丈夫だって」
「行きます」
「打撲くらい――」
「行きます」
三回目。
和春が黙る。
少女がそのやり取りを見て。
また笑う。
「神代さん」
「何だよ」
「諦めた方がいいですよ」
和春は深いため息をつく。
そして愛華を見る。
「……分かったよ」
愛華は満足そうに頷く。
「最初からそう言えばいいんです」
少女が笑う。
ほんの少し前まで。
生きることすら見失っていた少女が。
今、人の会話を聞いて。
笑っている。
明日どうするかを考えている。
これから先、簡単ではない。
傷は残る。
思い出す日もある。
苦しくなる日もある。
だが、今は未来の話ができる。
それで十分だった。
悲鳴と混乱がまだ収まらない中。
愛華は柵の向こうを見下ろしていた。
下には巨大な救助マット。
その中央付近で、和春と女子生徒が無事に動いている。
それを確認した瞬間。
愛華の全身から、一気に力が抜けた。
「……よかった」
小さく。
本当に小さく。
声が漏れる。
だが、その直後だった。
背後から、信じられない言葉が聞こえた。
「……マジで飛ぶのかよ」
愛華の表情が止まる。
例の大学生の男だった。
男は柵の方を見ながら、苛立ったように続ける。
「ってか手ぇ掴んだんなら、落とすなよ。力ないのかよ……」
一瞬。
屋上の空気が凍った。
教師たちまで言葉を失う。
麗華が男を見る。
そして。
ゆっくり愛華へ視線を向けた。
嫌な予感がした。
「……愛華」
遅かった。
愛華が振り返る。
その顔には。
さっきまでの安堵はない。
冷たい。
完全に怒っている。
「あなた」
男が面倒そうに見る。
「……何?」
愛華は一歩近づいた。
「人間一人を落下し始めた状態から片腕で支えた経験がありますか?」
男が眉をひそめる。
「は?」
「ありませんよね」
声は穏やかだった。
だが、言葉の一本一本が鋭い。
「映画やドラマでは。崖から落ちた人間の腕を掴んで、そのまま引き上げる場面があります」
「ですが」
一歩。
「現実は違います!」
男の顔から、少しずつ余裕が消える。
「人間には体重があります。落下の勢いもあります。和春は安定した姿勢で掴んだわけでもありません。走り込んで。身体を投げ出して。落ちる寸前の腕を掴んだんです」
麗華は黙って聞いている。
教師も誰も止めない。
愛華は続ける。
「それでも和春は手を離さなかった。自分まで落ちると分かっていても離しませんでした」
男が言い返そうとする。
「でも――」
「黙ってください!」
一言。
完全に封じる。
「あなた先ほど彼女に何と言いました?」
男が黙る。
「『飛ぶ振りして気を引くな』『重い』」
愛華の紅い瞳が細くなる。
「そして今は命懸けで腕を掴んだ人間に『力がない』?『落とすな』?」
愛華は笑わない。
「随分と立派なことをおっしゃいますね。ご自分では何一つしていないのに」
男の顔が引きつる。
「彼女がここまで追い詰められたことにも。和春が落ちたことにも。あなたは何一つ責任を感じていない。自分が面倒かどうか、自分が悪く見えないかどうか。それしか考えていないんですね」
男は完全に黙った。
愛華は最後に。
静かに言った。
「あなたが今、一番恥じるべきなのは彼女が飛んだことではありません。和春が落ちたことでもありません」
一拍。
「こんな状況でもなお、その程度の言葉しか出てこない。自分自身です」
誰も何も言わない。
風の音だけが屋上を抜ける。
愛華は男から視線を外した。
もう興味すらない。
「二度と。彼女の前で、今のような言葉を口にしないでください」
それだけ残す。
そして柵の方を見る。
下に和春がいる。
生きている。
今すぐ行きたい。
「姉さん」
愛華が麗華を見る。
「私は下へ行きます」
麗華も頷く。
「行きなさい」
愛華は走った。
屋上の扉を開け。
階段を駆け下りる。
普段の愛華からは想像もできないほど。
全力だった。
⸻
その頃。
校舎下。
救助マットの周囲。
和春はすでにマットから降りていた。
多少の打撲はある。
だが意識ははっきりしている。
そして隣には女子生徒。
少女はまだ泣いていた。
身体の震えも完全には止まっていない。
救急隊員が近づこうとした時。
和春が片手を上げる。
「ちょっと待ってくれ。先に話させて」
救急隊員は少女の様子を見る。
そして数歩下がった。
和春は少女の隣へ座る。
「……ごめんなさい」
少女が泣きながら言う。
和春が見る。
「何が?」
「私のせいで……神代さんまで落ちて……もし死んでたら……」
声が詰まる。
「私……」
新しい罪悪感。
それが今度は少女を押し潰そうとしている。
和春はそこだけは迷わなかった。
「いや」
少女が顔を上げる。
和春は小さく笑う。
「今のどんな絶叫マシンよりスリルあったな」
少女が呆然とする。
「……え?」
「マジで落ちてる途中、頭の中で『これはさすがにヤバいな』って思った」
「……」
「でも」
和春は救助マットを見る。
「これ経験したら、大抵の絶叫マシンは余裕だろ」
少女の口元がほんの少しだけ動く。
「……何それ」
「知らん。俺も初体験だ」
少女が泣きながら笑う。
「普通……怒りません?」
「なんで?」
「私のせいで……」
「そこ違う」
和春の声が少しだけ真面目になる。
「俺が飛び込んだのは俺が勝手に決めた。お前が命令したわけじゃない。だから俺の行動までお前が背負うな」
少女は涙を落とす。
「でも……」
「責任分けろ」
「お前のことはお前の責任。俺のことは俺の責任。混ぜると余計しんどくなる」
少女はしばらく黙った。
やがて。
「……変な人」
和春が笑う。
「それもよく言われる」
「化け物」
「それは悪口な」
「ふふ……」
笑った。
まだ涙だらけの顔。
でも笑えた。
和春はそれを見て。
少しだけ安心する。
⸻
「今日、この後どうしたい」
少女が考える。
「……帰りたい」
「一人で?」
首を横に振る。
「嫌」
「じゃあ誰呼ぶ」
少し考えて。
「……お母さん」
「いいじゃん」
「怒られるかな……」
「怒るかもしれん」
少女が不安そうにする。
「でも」
和春は続ける。
「泣くかもしれん。抱きしめるかもしれん。何も言えないかもしれん。どれになるかは、会ってみないと分からん」
少女はまた泣く。
でも今度はさっきとは違う涙だった。
⸻
その時。
遠くから。
走る足音。
「和春!」
和春が振り向く。
愛華だった。
息を切らしている。
髪も少し乱れている。
和春の表情が変わる。
「愛華?」
愛華は和春の前まで来る。
一度。
頭から足まで見る。
本当に無事か。
怪我は?血は?
呼吸は?確認する。
そして安心した瞬間。
涙が落ちた。
「……馬鹿」
和春が固まる。
「え」
「本当に……」
愛華の声が震える。
「馬鹿です……」
和春が慌てる。
さっきまで女子生徒を冷静に支えていた男とは思えない。
「おい。ちょっと待て!俺、平気だから!」
「そういう問題ではありません!」
「分かった、分かった。泣くなって!」
「誰のせいですか!」
「……俺だな」
「分かってるなら黙ってください!」
和春が完全に困っている。
その様子を見て女子生徒が、ぷっ。と、吹き出した。
和春と愛華が同時に見る。
少女は涙を拭きながら笑っている。
「神代さん」
「何?」
「女の人が泣いたら。すごい弱いんですね。」
「……」
「さっきまでめちゃくちゃ格好良かったのに‥‥今、完全に負けてる」
和春が眉を寄せる。
「うるさい」
少女がさらに笑う。
「顔困ってる」
「見れば分かること言うな」
愛華も涙を流しながら少しだけ笑った。
⸻
しばらくして救急隊員が声をかける。
「お二人とも、念のため検査を」
和春が立ち上がる。
「俺はいい」
愛華が即答する。
「行きます」
「大丈夫だって」
「行きます」
「打撲くらい――」
「行きます」
三回目。
和春が黙る。
少女がそのやり取りを見て。
また笑う。
「神代さん」
「何だよ」
「諦めた方がいいですよ」
和春は深いため息をつく。
そして愛華を見る。
「……分かったよ」
愛華は満足そうに頷く。
「最初からそう言えばいいんです」
少女が笑う。
ほんの少し前まで。
生きることすら見失っていた少女が。
今、人の会話を聞いて。
笑っている。
明日どうするかを考えている。
これから先、簡単ではない。
傷は残る。
思い出す日もある。
苦しくなる日もある。
だが、今は未来の話ができる。
それで十分だった。

