相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

三時間に及ぶ講義が終わった直後だった。

大きな拍手。

生徒たちの笑い声。

まだ質問したそうに席を立つ者たち。

つい数十秒前まで、特別教室にはそんな穏やかな熱気が残っていた。

その空気を切り裂いたのは――

窓際にいた一人の生徒だった。

「……え?」

小さな声。

そして。

「ちょっと待って……あれ……!」

窓の外を指差す。

何人かがつられて振り向いた。

この特別教室からは、少し離れた大学側の校舎が見える。

その屋上。

「人……?」

「え?」

「嘘……」

ざわめきが一瞬で広がった。

麗華も窓を見る。

そして息を呑んだ。

屋上の柵。

その――外側。

一人の少女が立っていた。

制服。

この学園の高等部の制服だった。

柵を背にしているのではない。

完全に越えている。

足元には、ほとんど余裕がない。

風でスカートと髪が揺れている。

屋上には他にも数人いた。

教師らしき大人。

男子生徒。

女子生徒。

必死に何かを話しかけている。

だが。

少女は動かない。

「……まずい」

和春の声だった。

先ほどまでとは、まるで違う。

愛華が和春を見る。

その横顔を見た瞬間。

愛華にも分かった。

和春はすでに状況を分析している。

下を見る。

校舎周辺にも人が集まり始めている。

教師。

職員。

生徒。

騒ぎに気付いた人間が、次々と集まっていた。

「先生!」

「誰か先生呼んで!」

「警察は!?」

「救急車!」

教室まで騒然となる。

担任が生徒たちへ声を上げた。

「窓から離れろ! 全員席に戻れ!」

その声が響いた時。

和春はすでに動いていた。

「和春!」

愛華が呼ぶ。

返事はない。

教室を飛び出した。

「ちょっと!」

麗華も立ち上がる。

愛華は迷わず追った。

「姉さん!」

「分かってるわよ!」

麗華もその後を追う。



廊下。

階段。

渡り廊下。

別棟。

この学園は巨大だった。

中等部、高等部、大学。

増改築を繰り返した結果、内部はかなり複雑になっている。

初めて来た人間なら。

案内板を確認しなければ、まず迷う。

だが。

和春は一度も止まらなかった。

右。

階段。

二階分上がる。

渡り廊下。

別棟へ。

さらに階段。

「なんで道が分かるのよ!?」

走りながら麗華が声を上げる。

愛華が息を切らしながら答える。

「来る時に……全部見ています!」

「見ただけで!?」

「和春ですから!」

それで説明が成立するのが恐ろしい。

和春の頭には、校内を移動した際の風景がほぼそのまま残っていた。

案内板。

非常口。

棟の接続。

階段の位置。

現在地。

屋上までの最短経路。

全部繋がっている。

そして。

屋上へ続く最後の階段を駆け上がった。



扉を開ける。

風が吹き込んだ。

「――待って!」

女性教師の声。

「お願いだから戻って!」

「みんな心配してるから!」

「お父さんとお母さんも悲しむぞ!」

男性教師も必死だった。

だが。

和春は少女を見た瞬間。

(駄目だ)

そう判断した。

顔色。

呼吸。

視線。

身体の震え。

反応。

限界に近い。

いつ落ちてもおかしくない。

そして何より――

今かけられている言葉。

悪意はない。

むしろ必死に助けようとしている。

だからこそ。

危険だった。

「みんな心配してる」

「家族が悲しむ」

「死んじゃ駄目」

正しい。

正しいからこそ。

今の少女には届かない可能性がある。

和春が歩み寄る。

「代われ」

教師が振り向く。

「神代さん!?」

「下がってろ」

「しかし――」

「今は人数増やして喋る方がまずい」

教師が止まる。

和春は少女を見る。

近づきすぎない。

一定の距離で止まった。

「……」

少女も和春を見る。

「名前」

少女は答えない。

「言いたくないなら言わなくていい」

沈黙。

「俺は和春」

また沈黙。

「さっきまで向こうで心理学の話してた」

少女の視線がほんの僅かに動く。

それだけでいい。

反応した。

会話の入口になる。

「……知ってる」

小さな声だった。

「そうか」

「……神代、和春。」

「ああ」

「……ネットで見たことある」

「悪口か?」

少女の表情がほんの僅かに動いた。

「……化け物って」

「悪口じゃねぇか」

誰も笑わない。

だが。

少女の口元が、一瞬だけ動いた。

和春は見逃さなかった。

まだ。

外に興味がある。

会話できる。

それだけで意味がある。



遅れて愛華と麗華が屋上へ到着する。

愛華は和春を見つけると、声を出しかけ――

止めた。

今は邪魔をしてはいけない。

麗華も状況を察して黙る。

和春は少女だけを見る。

「戻れとは言わない」

周囲の教師が驚く。

少女も顔を上げた。

「……え?」

「俺がお前の人生決める権利なんかないからな」

「…………」

「だから話せ」

和春は地面へ腰を下ろした。

少女より低い位置。

威圧しない。

急に近づかない。

「何があった」

少女は黙っている。

「話したって解決しないかもしれない」

「……」

「明日から全部幸せになるなんて言わない」

教師が和春を見る。

麗華も息を呑む。

一見すれば。

自殺を止める人間が言う言葉には思えない。

だが。

和春は続ける。

「明日も辛いかもしれない。一週間後も思い出すかもしれない。一年経っても忘れられないことだってある」

少女の目から涙が落ちた。

「でも」

和春は少女から目を逸らさない。

「それと、今日ここから飛ぶことは別の話だ」

少女の肩が震える。

「今のお前には道が一本しか見えてない」

「…………」

「だったら俺と話してる間だけ、二本目探せ」

愛華は黙って聞いていた。

つい先ほど。

和春が数百人の高校生へ話していたこと。

――選択肢を増やす。

今。

それを目の前で実践している。

「……ない」

少女が呟いた。

「何が」

「そんなの……ない……」

「じゃあ今から探せばいい」

「無理だよ!」

初めて声が大きくなった。

「いいよ」

和春は動じない。

「無理だと思ってる理由、全部言え」

「…………」

「綺麗に話さなくていい。順番もどうでもいい。腹立つなら腹立つって言え。死にたいなら死にたいって言っていい。」

教師が僅かに動く。

だが愛華が小さく手で制した。

今は。

和春に任せる。

少女の唇が震える。

「……彼氏」

和春は何も言わない。

「大学生の……彼氏がいたの……」

涙が落ちる。

「うん」

「好きだった……」

「うん」

「本当に……好きだった……」

少しずつ。

少しずつ。

言葉が出てくる。

「初めてだったの……」

声が震える。

「全部……信じてた……」

「なのに……」

涙が止まらなくなる。

「遊びだったって……」

和春は遮らない。

「友達に……聞いた……」

「最初から……高校生だから簡単だって……」

「…………」

「私だけ……本気だった……」

言葉が溢れる。

怒り。

悲しみ。

恥ずかしさ。

後悔。

裏切られた痛み。

自分を責める言葉。

全部。

和春は否定しない。

「そんな男忘れろ」とも言わない。

「他にいい男がいる」とも言わない。

「そんなことで死ぬな」とも言わない。

ただ。

少女が言葉を吐き出すたび。

問いを返す。

話を繋ぐ。

意識を。

ほんの少し先へ。

ほんの少し未来へ向ける。

「明日学校来たいか?」

「……来たくない」

「じゃあ休めばいい」

少女が目を瞬く。

「学校は一日休んだくらいで人生終わらん」

「……」

「親に言えない?」

「……言えない」

「じゃあ別の大人に話す方法考えよう」

「……」

「顔見たくない奴が学校にいるなら?」

「……」

「会わない方法探せばいい」

一つ。

また一つ。

今まで少女の中になかった選択肢を置いていく。

生きろとは言わない。

だが。

生きた場合に選べる道を増やしていく。

やがて。

少女の呼吸が少しずつ落ち着いてきた。

「……私」

「うん」

「戻っても……いいのかな」

和春の表情は変わらない。

「お前が決めろ」

少女が泣く。

「戻ったら……みんな見る……」

「見るだろうな」

「……」

「噂する奴もいるかもしれん」

「…………」

「でも、味方になる奴もいる」

和春は手を差し出さない。

まだ。

距離がある。

「戻るなら自分で戻れ。できそうなら、ゆっくりでいい」

少女が柵を見る。

そして。

屋上側を見る。

足が。

僅かに動いた。

愛華が息を呑む。

教師たちも声を出さない。

少女が柵へ手を伸ばした。

戻る。

自分の意思で。

戻ろうとしている。

その時だった。

――ガチャッ!

屋上の扉が開いた。

「……!」

少女が反射的に振り向く。

そこにいたのは。

一人の大学生の男だった。

息を切らしている。

少女の顔から。

一瞬で血の気が引いた。

「……なんで」

男は少女を見る。

周囲の状況を見る。

そして。

苛立ったような顔で――

最悪の言葉を吐いた。

「飛ぶ振りして気を引こうなんてやめてくれよ……」

愛華の表情が凍る。

麗華も目を見開いた。

「お前――」

教師が止めるより早く。

男は続けた。

「そういうのマジで重いって……」

「――黙れ!!」

和春が初めて怒鳴った。

だが。

遅かった。

少女の顔から。

さっきまで戻り始めていたものが。

全部消えた。

「……そっか」

小さな声。

和春の瞳が見開かれる。

「待て!」

少女の足が――

離れた。

「――っ!」

身体が宙へ出る。

悲鳴。

「きゃああああああああ!!」

和春は考えていなかった。

身体が動いた。

全力で踏み込む。

腕を伸ばす。

指先。

届く。

少女の腕を――

掴んだ。

「っ!!」

だが。

映画ではない。

人間一人。

たとえ細い女子高校生でも。

落下し始めた身体の重みを、無理な体勢から片腕だけで止められるほど現実は甘くない。

和春の身体が柵へ激突する。

「ぐっ――!」

止まらない。

靴が滑る。

少女の重み。

落下の勢い。

そして和春自身の体重が前へ持っていかれる。

「和春!!」

愛華が走る。

「神代さん!!」

麗華も叫ぶ。

和春は少女の腕を離さなかった。

離せば。

今度こそ終わる。

その一瞬。

十四歳の記憶が。

脳裏を過った。

伸ばした手。

届かなかった手。

目の前から消えた少女。

――俺が助ける。

――絶対救うから。

昔の自分の声。

「……っ!」

今度は。

掴んでいる。

だが――

物理には勝てない。

和春の身体が柵を越えた。

「和春!!!!」

愛華の絶叫。

二人の身体が。

屋上から消えた。

麗華の顔から血の気が引く。

教師の悲鳴。

生徒の叫び。

下に集まっていた人々からも巨大な悲鳴が上がった。

落ちる。

少女と。

和春。

そして――

――ボフンッ!!!

鈍い。

だが想像していたものとは違う音がした。

「…………え?」

麗華が固まる。

愛華は柵へ駆け寄り。

下を見た。

そこには。

巨大な救助用マットが広がっていた。

消防と学校職員。

警察。

救急隊。

和春が少女と話し続けている間。

下ではただ見ていたわけではない。

説得が長時間続いている、その時間を使い。

万が一に備え。

人を下がらせ。

落下地点を予測し。

救助用のマットを展開していた。

その中央付近。

二人の身体が沈んでいる。

「……和春……?」

愛華の声が震えた。

数秒。

マットの上で。

和春の腕が動いた。

「…………っ」

愛華の身体から一気に力が抜ける。

「……馬鹿……」

目に涙が浮かぶ。

「本当に……馬鹿です……」

麗華も隣へ来る。

言葉が出ない。

先ほどまで。

数百人の高校生へ心理学を教えていた男。

『俺は助けるとか救うって言葉を使わない』

そう言っていた。

『選択肢を増やす』

そう教えていた。

最後まで少女に「生きろ」と命令しなかった。

戻ることすら強制しなかった。

本人に選ばせた。

そしてその選択が壊された瞬間。

神代和春は――

何の理屈もなく飛び込んだ。

麗華は震える息を吐いた。

(……何なのよ)

自分はこの男をただの町のコンサルと呼んだ。

今となってはあまりにも滑稽だった。