相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

特別教室の扉が開いた。

その瞬間。

麗華は足を止めた。

「……多くない?」

思わず本音が漏れる。

特別教室という名前ではあるが、その広さはほとんど大学の講義室だった。

前方には大型スクリーン。

階段状に並んだ座席。

数百人は収容できそうな空間。

そして――

満席。

後方には追加の椅子まで並べられている。

心理学を大学で専攻したい生徒。

心理学そのものに興味がある生徒。

進路を迷っている生徒。

今回の講義は希望制だったにもかかわらず、これだけの高校生が集まっていた。

麗華は小声で愛華に尋ねる。

「高校生って、こんなに心理学に興味があるものなの?」

「心理学は比較的人気がありますから」

愛華はそう答えてから、少しだけ笑った。

「ただ、今回はそれだけではないと思いますよ」

「?」

麗華が前を見る。

和春が教室へ入った瞬間。

明らかに空気が変わった。

ざわっ――。

「本物だ!」

「神代和春だよな?」

「若っ……」

「歩く専門書って呼ばれてる人でしょ?」

「化け物って噂の?」

「会社立て直しまくってるって……。」

麗華の紅い瞳が僅かに動く。

(……高校生にまで知られてるの?)

神代和春は芸能人ではない。

動画配信者でもなければ、テレビに出演しているわけでもない。

だがネットでは、それなりに名前が知られていた。

Boundary & Mind。

業種を問わず依頼を受ける異色のコンサルタント。

企業だけでなく、個人相談まで扱う。

その異常な知識量から付けられた――

『歩く専門書』

『化け物』

そんな呼び名が、SNSや掲示板で半ば都市伝説のように広がっている。

そして数か月前には。

自殺しようとしていた女性を和春が止めたという動画まで投稿されていた。

遠くから撮影されたブレの酷い映像。

詳細な会話までは聞き取れない。

それでも、危険な場所にいた女性へ和春が近づき、長い時間をかけて話し続けていたことは分かった。

『この人、コンサルじゃなかった?』

『心理系の資格も持ってるらしい』

『また歩く専門書か』

そんな投稿が一時期かなり拡散されていた。

だからこそ。

今回の講義を聞きつけ、参加を希望した生徒も少なくない。

だが――

もう一人。

強烈に視線を集めている人物がいた。

愛華である。

「……メイド?」

「え、めちゃくちゃ綺麗……。」

「本当にメイド服で仕事してるんだ。」

「銀髪、本物?」

「天城愛華さんじゃない?」

麗華は額を押さえた。

(でしょうね)

数百人の高校生がいる講義室へ、本格的なメイド服姿の絶世の美女が入ってくれば嫌でも目立つ。

しかし愛華本人は慣れたものだった。

何事もなかったように和春の隣でパソコンを準備している。



やがて。

担任が前へ出た。

簡単な挨拶。

今回の講義の趣旨。

そして講師の紹介。

「それでは、Boundary & Mind代表、神代和春さんに講義をお願いいたします」

拍手が起こる。

和春が前へ出る。

マイクを持つ。

数百人の視線が一斉に集まった。

麗華は後方の関係者席から見ていた。

(さて……)

どんな難しい話を始めるのか。

心理学史か。

認知心理学か。

行動心理学か。

それとも自身の仕事についてか。

和春は教室全体を見渡した。

そして。

最初の一言。

「まず、心理学に幻想持ってる奴。今日全部壊すから覚悟しろ」

「…………」

教室が静まり返った。

麗華が目を瞬く。

担任の眉間には早くも皺が寄った。

愛華は――

平然としている。

想定内らしい。

和春は続ける。

「心理学を勉強すれば、人の心が読めると思ってる奴」

何人かの生徒が気まずそうに視線を逸らす。

「無理だから諦めろ」

小さな笑いが起こった。

「心理学を使えば、人を自由に操れると思ってる奴」

今度はさらに何人かが反応する。

「そんな便利な学問だったら、心理学者は全員大金持ちだ」

教室に笑いが広がった。

「恋愛心理学覚えれば好きな奴を百パーセント落とせると思ってる奴も同じ」

笑いが大きくなる。

「できるなら俺が論文書いて世界中に売ってる」

今度は教師まで笑った。

麗華の口元も僅かに緩む。

だが。

次の言葉で空気が変わった。

「それと‥‥」

和春は少しだけ声を落とした。

「カウンセラーになれば、人を救えると思ってる奴」

愛華が和春を見る。

麗華も気付いた。

先ほどまでとは。

声が違う。

「その考えは、今のうちに捨てろ」

教室が静かになる。

「心理学を勉強したからって、誰かを救える人間になるわけじゃない。資格取ったって同じだ。人の人生は、そんな簡単じゃない」

和春は黒板に二つの言葉を書く。

――助ける。

――救う。

「俺はこの二つの言葉を使わない」

生徒たちが黒板を見る。

「なんでか分かる奴?」

誰も答えない。

和春は笑う。

「いいよ。考えろ。今日三時間ある」

少し笑いが戻った。



最初の一時間。

和春は徹底的に、生徒たちが持っている心理学への幻想を壊していった。

心理テストと心理学研究の違い。

血液型で性格を決めつける危険性。

「男はこう」「女はこう」という雑な分類。

認知バイアス。

相関と因果。

SNSで流れてくる『心理学的に証明されています』という言葉の危うさ。

「心理学って言葉付ければ信用する奴多いからな」

和春がスクリーンにSNS投稿を模した例を映す。

『心理学的に、人は○秒見つめ合うと恋に落ちる』

「こんなの見たら、まず疑え」

生徒が笑う。

「でも先生、実際そういうのいっぱいありますよ」

一人の男子生徒が声を上げる。

和春はすぐ返す。

「俺は先生じゃない」

「そこ!?」

教室が笑いに包まれる。

「で、いっぱいあるから何だ?」

男子生徒が少し考える。

「……いっぱい言われてたら、本当っぽく感じます」

「そう」

和春が指を向ける。

「今お前が言ったこと自体が心理学の入り口だ」

男子生徒が驚く。

「多くの人が言っている。何度も見る。だから正しい気がする。じゃあ、本当に正しいのか?」

和春は問い続ける。

答えを言わない。

生徒に考えさせる。

一人が答える。

別の生徒が反論する。

和春がさらに問い返す。

教室が少しずつ変わっていく。

講義を聞く場所から。

考える場所へ。



そして。

愛華の役割も大きかった。

「和春」

「ん?」

「今の説明、高校生相手には少々飛ばしすぎです」

「分かるだろ」

「和春基準で考えないでください」

教室から笑いが起きる。

「では、少し言い換えますね」

愛華が前へ出る。

和春が専門用語を交えて説明した内容を、身近な例へ置き換える。

SNS。

友人関係。

恋愛。

部活動。

勉強。

高校生が経験している場面に落とし込む。

「例えば皆さん」

愛華が柔らかく尋ねる。

「テスト前に『全然勉強してない』と言っていた友人が、自分より高い点数を取った経験はありませんか?」

一斉に手が上がる。

笑いも起きる。

「腹立つやつだな」

和春が言う。

さらに笑いが起きる。

愛華が横を見る。

「和春」

「なんだよ」

「私の説明中です」

「はいはい」

「返事が軽いです」

「お前、今日俺の補助だろ」

「だから補助しています」

「どこが」

「和春が余計なことを言わないようにするのも補助です」

教室が爆笑する。

麗華は目を丸くしていた。

(……上手い)

単なる漫才ではない。

集中が切れそうになるタイミング。

難しい話が続いたタイミング。

愛華が意図的に和春へ軽い毒を吐く。

笑いが起きる。

空気が緩む。

そして。

再び和春が本題へ戻す。

生徒の集中力を三時間維持するために。

二人で空気を調整している。

しかも打ち合わせている様子がない。

麗華は愛華を見る。

(あなた……ここまで神代さんの呼吸を読んでいるのね)



一時間。

チャイムが鳴った。

「十五分休憩」

和春が言った瞬間だった。

生徒たちが一斉に立ち上がる。

だが。

教室から出ていかない。

むしろ――

和春の周囲へ集まり始めた。

「神代さん!」

「質問いいですか!?」

「さっきの認知バイアスなんですけど!」

「心理学科って統計めっちゃやりますか!?」

「カウンセラーになるなら大学院必要ですか!?」

和春が囲まれる。

麗華は呆然とする。

「……休憩よね?」

愛華が苦笑する。

「いつもこうなります」

「休めないじゃない」

「本人が答えてしまうので」

実際。

和春は嫌そうな顔一つせず答えていた。

「統計嫌いなら今から慣れとけ」

「心理学は数字使うぞ」

「資格による。カウンセラーって言葉だけじゃ範囲広すぎる」

「その質問は面白いな。二時間目で使う」

次々と返す。

そして――

十五分後。

ほとんど休憩していないまま二時間目が始まった。



二時間目は実践だった。

和春が一つの事例を出す。

「友達からメッセージの返信が来ない」

スクリーンにそれだけ表示される。

「理由を考えろ」

生徒たちから答えが出る。

「嫌われた」

「忙しい」

「寝てる」

「忘れてる」

「スマホ壊れた」

「返信考えてる」

和春が頷く。

「ほら。一個の出来事だけで、これだけ可能性あるだろ」

そして最初に答えた生徒を見る。

「『嫌われた』って最初に思った奴」

女子生徒が恥ずかしそうに手を上げる。

「悪いって意味じゃない」

和春は黒板へ書く。

――事実。

――解釈。

「返信がない」

「これは事実」

「嫌われた」

「これは?」

女子生徒が答える。

「……解釈」

「そう」

和春が笑う。

「心理学を勉強するなら、この二つを混ぜるな」

麗華の表情が変わる。

シンプルだった。

だが。

大人にもできていない人間は山ほどいる。

和春はさらに問いを重ねる。

「じゃあ解釈が一個しかなかったら?」

生徒が答える。

「思い込む?」

「そう」

「だったら?」

別の生徒が言う。

「他の可能性を考える」

和春が笑った。

「それ」

黒板に大きく書く。

選択肢を増やす。



二時間目が終わる頃には。

ほとんどの生徒がノートを取りながら、自分から発言するようになっていた。

再び十五分休憩。

また和春が囲まれる。

愛華も女子生徒たちに囲まれた。

「天城さんって本当にメイドなんですか?」

「はい。相方兼メイドです」

「なんでメイド服なんですか!?」

「仕事着です」

「神代さんが決めたんですか?」

愛華が一瞬止まる。

少し離れた場所にいる和春を見る。

「……色々ありまして」

麗華は吹き出しそうになる。

(そこは説明しないのね)



そして最後の一時間。

三時間目。

和春は再び黒板の前へ立った。

最初に書いた言葉が残っている。

――助ける。

――救う。

その横には。

――選択肢を増やす。

和春は生徒たちを見る。

「最初の質問に戻るぞ」

教室が静かになる。

「なんで俺が『助ける』『救う』って言葉を使わないのか」

数秒。

一人の生徒が手を上げた。

「相手の人生だから……?」

和春の目が僅かに細くなる。

「続けろ」

「自分が救うって言ったら……自分がその人を変える、みたいになるから」

別の生徒が手を上げる。

「でも最終的に選ぶのは本人」

また別の生徒。

「だから選択肢を増やす?」

和春はしばらく何も言わなかった。

そして。

笑った。

「そういうことだ」

愛華が静かに和春を見る。

「俺が誰かに『この道を選べ』って言えば簡単だ」

「でも失敗したら?」

「俺のせいにできる」

「逆に成功しても?」

和春は黒板を軽く叩く。

「そいつ自身が考える経験を奪ってるかもしれない」

生徒たちは静かに聞いている。

「心理学を学んだからって、人の人生の正解が分かるようにはならない」

「俺にも分からない。カウンセラーにも。教授にも。親にも。教師にも。」

担任が僅かに反応する。

和春は気にせず続ける。

「でも。一つしかないと思ってた道を二つにできるかもしれない」

黒板に一本の線を引く。

そこから枝分かれさせる。

二本。

三本。

四本。

「知らなかった制度を教える。違う考え方を教える。思い込みに気付かせる。相談できる場所を教える。そうやって道を増やすことはできる」

和春はチョークを置いた。

「俺が心理学を使う理由はそれだ」

誰も喋らない。

「人を操るためじゃない。心を読むためでもない。救世主になるためでもない」

そして。

最後に言った。

「自分や誰かが『もうこれしかない』って思った時、本当にそうなのかって、もう一回考えられる人間になるためだ」

静寂。

数秒後。

一人が拍手した。

続いて。

もう一人。

そして――

講義室全体から大きな拍手が起こった。

和春は少し困ったように頭を掻く。

「別に拍手するような話じゃないだろ」

愛華が横から言う。

「こういう時くらい素直に受け取ってください」

「なんか恥ずかしいんだよ」

「三時間ずっと偉そうに話していた方が今さら何を言っているんですか」

笑いが起こる。

拍手と笑い。

それで三時間の講義は終わった。



後方。

麗華は腕を組んだまま、しばらく席を立てなかった。

父から渡された資料。

公認会計士。

福祉。

法律。

司法試験。

十か国語以上。

そんなものは確かに凄い。

だが。

今目の前で見たものは、資格欄には書けない。

三時間。

数百人の高校生を飽きさせなかった。

難しい心理学を高校生の生活へ落とし込み。

笑わせ。

考えさせ。

答えを簡単には与えず。

最後には、最初に投げた問いへ生徒自身の言葉で戻ってきた。

しかも。

隣には愛華がいた。

難しくなれば噛み砕く。

空気が重くなれば笑わせる。

和春が専門家の頭になりすぎれば止める。

和春もそれを邪魔だとは思っていない。

むしろ当然のように任せている。

麗華は小さく息を吐いた。

(……なるほど)

愛華が帰らない理由。

ほんの少しだけ。

分かった気がした。

そして同時に思う。

神代和春。

この男がもしコンサルタントではなく――

教育者の道を選んでいたとしても。

間違いなく。

成功していただろう、と。