講義当日。
午前九時過ぎ。
和春、愛華、そして麗華の三人は、依頼を受けた私立学園を訪れていた。
中等部。
高等部。
大学。
広大な敷地に複数の校舎が並び、学生数も相当な規模を誇るマンモス校。
大学まで内部進学できるため、今回の講義に参加するのは、将来的に心理学を専攻することを考えている高校生たちだった。
三人はまず、理事長室へ通された。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
理事長が立ち上がる。
六十代ほどの穏やかな男性だった。
和春は軽く頭を下げる。
「ああ。今日はよろしく」
「…………」
その瞬間。
理事長の隣に座っていた男の眉が動いた。
今回、講義を受けるクラスの担任。
五十代後半。
短く刈った髪。
太い眉。
がっしりとした体格。
いかにも昔ながらの教師という雰囲気を纏っている。
スーツも少し古めかしく、座り方まで妙に威圧的だった。
そして何より。
上下関係。
礼儀。
規律。
そういったものを重んじるタイプなのが、一目で分かる。
担任の目が和春へ向く。
(……なんだ、この若造は)
理事長に向かって。
「ああ。よろしく」
それだけ。
担任の感覚では、あり得なかった。
⸻
「神代先生」
理事長が穏やかに話す。
「以前、大学で行われた講義のお話を伺いましてね。学生から非常に評判が良かったと聞いております」
「先生はいらない」
和春が即座に返す。
担任の眉がさらに動く。
「俺は今日、講義しに来ただけだからな。神代でいい」
「ははは」
理事長は特に気にした様子もなく笑った。
「では、神代さんと」
「好きに呼んでくれ」
担任のこめかみが僅かに引きつる。
その様子を。
麗華は隣で見ていた。
(……本当に変えないのね。)
BARでも。
Boundary & Mindでも。
麗華に対しても。
そして――
仕事相手である理事長に対しても。
全部同じ。
麗華はてっきり、仕事の場では多少変えるものだと思っていた。
だが違った。
神代和春という男。
本当に誰に対しても、この喋り方らしい。
麗華は小声で愛華へ尋ねる。
「……いつもこうなの?」
「いつもこうです。」
愛華は即答した。
「取引先でも?」
「はい」
「社長相手でも?」
「はい」
「理事長相手でも?」
愛華は今目の前にいる和春を見る。
「ご覧の通りです」
麗華は額に手を当てた。
「よく今まで仕事できたわね……」
愛華は少し笑う。
「何度も怒られていますよ」
「でしょうね」
⸻
実際。
和春は昔から何度も言われてきた。
敬語を使え。
年上を敬え。
取引先に失礼だ。
社会人としてどうなんだ。
それでも。
和春は変えなかった。
社長だから。
政治家だから。
教師だから。
大企業だから。
個人だから。
高校生だから。
相手によって態度を変えることを好まない。
肩書きではなく、人間と話す。
それが和春のスタンスだった。
当然。
好かれるか。
嫌われるか。
かなり極端に分かれる。
「話しやすい」
「本音で話してくれる」
そう評価する依頼人もいれば。
「生意気だ」
「礼儀がなっていない」
二度と依頼しない人間もいる。
和春はそれで構わないと思っている。
Boundary & Mindの仕事を必要とする人間と仕事をする。
ただ、それだけ。
そして――
その尖りすぎた部分を長年調整してきた人物がいる。
「改めまして」
愛華が自然に一歩前へ出た。
「Boundary & Mindの天城です」
丁寧に頭を下げる。
「本日は貴重な機会をいただき、ありがとうございます。神代は普段からこのような話し方ですので、どうかご容赦ください」
和春が横を見る。
「別に謝らなくていいぞ」
「和春は黙っていてください」
「なんでだよ」
「話が長くなります」
理事長が笑う。
「ははは!」
「いえいえ、私は気にしておりません」
むしろ楽しそうだった。
担任だけは笑っていない。
「しかし‥‥」
低い声が響く。
「社会人として最低限の礼節というものは必要ではありませんかな」
空気が少し変わった。
麗華が担任を見る。
(……やっぱり言った)
愛華も想定していたらしく、特に驚かない。
和春は担任を見る。
怒ってもいない。
困ってもいない。
「そう思うなら、それでいいんじゃないか?」
担任の眉間に皺が寄る。
「……何?」
「俺の喋り方が気に入らない。それはあんたの価値観だろ? 俺が変えろって言う権利もないし、俺もあんたの価値観を変える気はない」
「…………」
「ただ‥」
和春は少し笑った。
「今日俺がここに来た理由は、あんたに好かれるためじゃない」
担任の目を見る。
「高校生に心理学を教えるためだ」
担任の顔が僅かに険しくなる。
愛華がすぐ横から入る。
「ですが、先生のおっしゃることも当然だと思います」
担任が愛華を見る。
「社会では、言葉遣いによって相手からの印象が大きく変わります。礼節を重視される方も大勢いらっしゃいます。それを理解した上で、和春はこのスタイルを選択しています」
担任は少しだけ表情を緩めた。
愛華は微笑む。
「ですので、ご不快に感じられたのであれば申し訳ありません。ただ、本日の講義内容とは切り離して評価していただければ幸いです」
完璧なフォローだった。
麗華は思わず愛華を見る。
(……なるほど)
父親が言っていた。
神代和春は異常な能力を持つ。
だが、今、麗華が見ているのは別のものだった。
和春は自分のスタイルを曲げない。
愛華も、無理に曲げさせようとはしない。
代わりに。
和春が生む摩擦を理解し。
相手の価値観も否定せず。
双方が納得できる場所へ着地させる。
(これも……相方ということなのね)
⸻
そして。
もう一つ。
麗華には気になることがあった。
いや。
気になるどころではない。
目立つ。
圧倒的に目立つ。
愛華だった。
今日も当然のように――
メイド服。
黒を基調とした正統派のロングスカート。
白いエプロン。
銀色の長い髪。
紅い瞳。
端正すぎる顔立ち。
歴史ある私立学園の理事長室に。
どう考えても馴染まない。
麗華は小声で尋ねる。
「愛華」
「はい」
「……本当に毎回それなの?」
愛華は自分の服を見る。
「仕事着ですから」
「学校よ?」
「学校ですね」
「高校よ?」
「存じています」
「目立ってるわよ」
「慣れました」
麗華は何も言えなくなった。
しかも。
先ほどから廊下を通る生徒が、理事長室の開いた扉から愛華を二度見している。
男子生徒。
二度見。
女子生徒。
二度見。
教師。
二度見。
麗華はため息をつく。
(そりゃ見るわよ……)
そんな中。
和春だけは何も気にしていない。
愛華がメイド服なのも。
担任が自分に苛立っているのも。
廊下から視線が集まっているのも。
どうでもいいらしい。
和春は時計を見る。
「で?」
理事長を見る。
「そろそろ行くか?」
担任の眉がまた動いた。
理事長は楽しそうに立ち上がる。
「ええ。生徒たちも楽しみにしています」
和春も立つ。
愛華が資料を持つ。
麗華もその後ろへ続いた。
教室へ向かう廊下。
麗華は前を歩く二人を見る。
自由すぎる天才コンサルタント。
その隣を歩く、メイド服姿の妹。
(……何なのよ、この会社)
父から資料を見せられた時とは。
また別の意味で。
麗華はBoundary & Mindという会社の異常さを理解し始めていた。
午前九時過ぎ。
和春、愛華、そして麗華の三人は、依頼を受けた私立学園を訪れていた。
中等部。
高等部。
大学。
広大な敷地に複数の校舎が並び、学生数も相当な規模を誇るマンモス校。
大学まで内部進学できるため、今回の講義に参加するのは、将来的に心理学を専攻することを考えている高校生たちだった。
三人はまず、理事長室へ通された。
「本日はお越しいただきありがとうございます」
理事長が立ち上がる。
六十代ほどの穏やかな男性だった。
和春は軽く頭を下げる。
「ああ。今日はよろしく」
「…………」
その瞬間。
理事長の隣に座っていた男の眉が動いた。
今回、講義を受けるクラスの担任。
五十代後半。
短く刈った髪。
太い眉。
がっしりとした体格。
いかにも昔ながらの教師という雰囲気を纏っている。
スーツも少し古めかしく、座り方まで妙に威圧的だった。
そして何より。
上下関係。
礼儀。
規律。
そういったものを重んじるタイプなのが、一目で分かる。
担任の目が和春へ向く。
(……なんだ、この若造は)
理事長に向かって。
「ああ。よろしく」
それだけ。
担任の感覚では、あり得なかった。
⸻
「神代先生」
理事長が穏やかに話す。
「以前、大学で行われた講義のお話を伺いましてね。学生から非常に評判が良かったと聞いております」
「先生はいらない」
和春が即座に返す。
担任の眉がさらに動く。
「俺は今日、講義しに来ただけだからな。神代でいい」
「ははは」
理事長は特に気にした様子もなく笑った。
「では、神代さんと」
「好きに呼んでくれ」
担任のこめかみが僅かに引きつる。
その様子を。
麗華は隣で見ていた。
(……本当に変えないのね。)
BARでも。
Boundary & Mindでも。
麗華に対しても。
そして――
仕事相手である理事長に対しても。
全部同じ。
麗華はてっきり、仕事の場では多少変えるものだと思っていた。
だが違った。
神代和春という男。
本当に誰に対しても、この喋り方らしい。
麗華は小声で愛華へ尋ねる。
「……いつもこうなの?」
「いつもこうです。」
愛華は即答した。
「取引先でも?」
「はい」
「社長相手でも?」
「はい」
「理事長相手でも?」
愛華は今目の前にいる和春を見る。
「ご覧の通りです」
麗華は額に手を当てた。
「よく今まで仕事できたわね……」
愛華は少し笑う。
「何度も怒られていますよ」
「でしょうね」
⸻
実際。
和春は昔から何度も言われてきた。
敬語を使え。
年上を敬え。
取引先に失礼だ。
社会人としてどうなんだ。
それでも。
和春は変えなかった。
社長だから。
政治家だから。
教師だから。
大企業だから。
個人だから。
高校生だから。
相手によって態度を変えることを好まない。
肩書きではなく、人間と話す。
それが和春のスタンスだった。
当然。
好かれるか。
嫌われるか。
かなり極端に分かれる。
「話しやすい」
「本音で話してくれる」
そう評価する依頼人もいれば。
「生意気だ」
「礼儀がなっていない」
二度と依頼しない人間もいる。
和春はそれで構わないと思っている。
Boundary & Mindの仕事を必要とする人間と仕事をする。
ただ、それだけ。
そして――
その尖りすぎた部分を長年調整してきた人物がいる。
「改めまして」
愛華が自然に一歩前へ出た。
「Boundary & Mindの天城です」
丁寧に頭を下げる。
「本日は貴重な機会をいただき、ありがとうございます。神代は普段からこのような話し方ですので、どうかご容赦ください」
和春が横を見る。
「別に謝らなくていいぞ」
「和春は黙っていてください」
「なんでだよ」
「話が長くなります」
理事長が笑う。
「ははは!」
「いえいえ、私は気にしておりません」
むしろ楽しそうだった。
担任だけは笑っていない。
「しかし‥‥」
低い声が響く。
「社会人として最低限の礼節というものは必要ではありませんかな」
空気が少し変わった。
麗華が担任を見る。
(……やっぱり言った)
愛華も想定していたらしく、特に驚かない。
和春は担任を見る。
怒ってもいない。
困ってもいない。
「そう思うなら、それでいいんじゃないか?」
担任の眉間に皺が寄る。
「……何?」
「俺の喋り方が気に入らない。それはあんたの価値観だろ? 俺が変えろって言う権利もないし、俺もあんたの価値観を変える気はない」
「…………」
「ただ‥」
和春は少し笑った。
「今日俺がここに来た理由は、あんたに好かれるためじゃない」
担任の目を見る。
「高校生に心理学を教えるためだ」
担任の顔が僅かに険しくなる。
愛華がすぐ横から入る。
「ですが、先生のおっしゃることも当然だと思います」
担任が愛華を見る。
「社会では、言葉遣いによって相手からの印象が大きく変わります。礼節を重視される方も大勢いらっしゃいます。それを理解した上で、和春はこのスタイルを選択しています」
担任は少しだけ表情を緩めた。
愛華は微笑む。
「ですので、ご不快に感じられたのであれば申し訳ありません。ただ、本日の講義内容とは切り離して評価していただければ幸いです」
完璧なフォローだった。
麗華は思わず愛華を見る。
(……なるほど)
父親が言っていた。
神代和春は異常な能力を持つ。
だが、今、麗華が見ているのは別のものだった。
和春は自分のスタイルを曲げない。
愛華も、無理に曲げさせようとはしない。
代わりに。
和春が生む摩擦を理解し。
相手の価値観も否定せず。
双方が納得できる場所へ着地させる。
(これも……相方ということなのね)
⸻
そして。
もう一つ。
麗華には気になることがあった。
いや。
気になるどころではない。
目立つ。
圧倒的に目立つ。
愛華だった。
今日も当然のように――
メイド服。
黒を基調とした正統派のロングスカート。
白いエプロン。
銀色の長い髪。
紅い瞳。
端正すぎる顔立ち。
歴史ある私立学園の理事長室に。
どう考えても馴染まない。
麗華は小声で尋ねる。
「愛華」
「はい」
「……本当に毎回それなの?」
愛華は自分の服を見る。
「仕事着ですから」
「学校よ?」
「学校ですね」
「高校よ?」
「存じています」
「目立ってるわよ」
「慣れました」
麗華は何も言えなくなった。
しかも。
先ほどから廊下を通る生徒が、理事長室の開いた扉から愛華を二度見している。
男子生徒。
二度見。
女子生徒。
二度見。
教師。
二度見。
麗華はため息をつく。
(そりゃ見るわよ……)
そんな中。
和春だけは何も気にしていない。
愛華がメイド服なのも。
担任が自分に苛立っているのも。
廊下から視線が集まっているのも。
どうでもいいらしい。
和春は時計を見る。
「で?」
理事長を見る。
「そろそろ行くか?」
担任の眉がまた動いた。
理事長は楽しそうに立ち上がる。
「ええ。生徒たちも楽しみにしています」
和春も立つ。
愛華が資料を持つ。
麗華もその後ろへ続いた。
教室へ向かう廊下。
麗華は前を歩く二人を見る。
自由すぎる天才コンサルタント。
その隣を歩く、メイド服姿の妹。
(……何なのよ、この会社)
父から資料を見せられた時とは。
また別の意味で。
麗華はBoundary & Mindという会社の異常さを理解し始めていた。

