麗華の問いを、和春は結局かわした。
答えなかった――というより。
答えられなかった。
愛華もそれ以上追及せず、麗華もまた何かを察したように紅茶へ口をつける。
そんな少し重たい空気の中。
――♪♪♪
突然、電子音が鳴った。
三人の視線が同時に動く。
愛華がテーブルに置いていた仕事用の携帯だった。
「失礼します」
画面を確認する。
登録されていない番号。
愛華は一瞬だけ和春を見ると、そのまま電話を取った。
「はい。Boundary & Mindの天城です」
麗華の視線が愛華へ向く。
先ほどまで妹として話していた女性の表情が、一瞬で仕事のものへ切り替わった。
『突然のお電話、失礼いたします。私、――学園の理事長をしております――』
愛華は静かに話を聞く。
「はい。……講義のご依頼ですか?」
和春が僅かに視線を上げた。
麗華も聞くともなしに耳を傾ける。
電話の相手は、国内でもかなり規模の大きな私立学園の理事長だった。
中学校。
高等学校。
大学。
内部進学制度を持ち、中高からそのまま大学へ進む生徒も多い、いわゆるエスカレーター式のマンモス校。
今回の依頼は経営相談ではなかった。
講義。
対象は高校生。
大学進学後、心理学を専攻することに興味を持っている生徒たちへ向けて、一度、本格的な心理学の講義をしてほしいという依頼だった。
愛華は内容を確認していく。
「対象は高校生ですね」
「……はい」
「心理学専攻を希望している生徒だけではなく、興味を持っている生徒も参加可能、と」
愛華はメモを取る。
「講義時間は?」
少し話を聞き。
「分かりました」
そこで愛華は携帯を耳から少し離した。
「和春」
「ん?」
「高校での講義依頼です」
「大学で心理学を専攻したい生徒向けに、大学で何を学ぶのかも含めて心理学の授業をしてほしいそうです」
和春はほとんど考えなかった。
「いいぞ」
麗華が僅かに目を見開く。
愛華は確認する。
「お引き受けしますか?」
「ああ、面白そうだ。」
それだけだった。
愛華は再び電話へ戻る。
「お待たせいたしました。神代がお引き受けするとのことです」
電話の向こうから、明らかに安心した声が返ってきた。
愛華は日程を確認する。
手帳ではない。
頭の中で直近の予定を照合しながら、パソコンのスケジュールも開く。
「その日でしたら午前からでも可能です」
「……はい」
「では、その時間でお願いいたします」
さらに必要事項を確認していく。
参加予定人数。
教室。
プロジェクターなどの設備。
学校側が希望するテーマ。
生徒たちの進路状況。
そして講義料。
一通り確認を終える。
「詳細についてはメールをお願いいたします。確認後、必要があればこちらからご連絡いたします」
「はい」
「よろしくお願いいたします」
通話が切れる。
愛華はそのまま予定を入力した。
和春はもうコーヒーを飲んでいる。
麗華が尋ねる。
「……あなた、高校生に授業までしているんですか?」
「たまにな」
「コンサルタントですよね?」
「コンサルが講義しちゃいけない法律でもあるのか?」
「そういう意味ではありません」
麗華は額を押さえる。
父親から見せられた資料を思い出す。
心理学。
経営学。
経済学。
法律。
会計。
福祉。
その他、数え切れないほどの知識。
確かに教えようと思えば教えられるのだろう。
だが。
愛華は少し考えていた。
「大学で心理学を専攻したい高校生ですか……」
「どうした?」
「内容です」
愛華は和春を見る。
「一般的な心理学入門をしますか?」
「いや」
即答だった。
「たぶん、それじゃつまらん」
「ですよね」
愛華も予想していたようだった。
麗華が眉を寄せる。
「普通に教えないんですか?」
和春はソファの背にもたれる。
「高校生相手に心理学史から始めてどうする」
「大学行けば嫌でも習う」
「じゃあ何を教えるつもりです?」
麗華が尋ねる。
和春は少し考える。
「心理学で人の心が読めると思ってる奴。人を自由に操れると思ってる奴。カウンセラーになれば人を救えると思ってる奴。そういう勘違いを最初に全部壊す」
麗華が黙った。
愛華だけは。
その言葉を聞いた瞬間、僅かに表情を変えた。
――人を救えると思っている奴。
和春は続ける。
「心理学は魔法じゃない。相手の心を読む学問でもない。覚えたテクニックを使って、人を自分の思い通りにする学問でもない。それを最初に理解させる」
愛華が静かに尋ねる。
「では、その後は?」
「選択肢」
麗華が和春を見る。
「選択肢?」
「ああ」
和春は当然のように答えた。
「心理学を知れば、物事を見る角度が増える。自分がなんで怒ったのか。なんで不安なのか。なんで相手と話が噛み合わないのか。なんで同じ失敗を繰り返すのか。知らなきゃ『自分はこういう人間だから』で終わる。でも知識があれば」
和春は指を二本立てた。
「別の可能性を考えられる」
さらに三本。
「三つ目も見つかる。選択肢が増える」
愛華は黙って聞いていた。
「心理学で人生の正解なんか分からない。そんなもん俺にも分からん。ただ――」
和春は何気なく言った。
「一つしか道がないと思ってる奴に、二本目の道があることを見せるくらいはできる」
麗華の紅い瞳が僅かに動いた。
つい数分前。
自分との会話で。
この男は自分自身の答えだけは出せなかった。
だが他人の選択肢について話す時には。
驚くほど迷いがない。
愛華は小さく微笑む。
「では、その方向で資料を作っておきますね」
「頼む」
「……私が作るんですか?」
「俺もやる」
「でしたら結構です」
いつもの会話。
麗華はそんな二人を黙って眺めていた。
父親に渡された調査資料には。
神代和春の異常な経歴が並んでいた。
だが。
紙には書かれていなかった。
この男が。
何のために、それほど多くの知識を集め続けているのか。
麗華には。
その答えがほんの少しだけ見えた気がした。
答えなかった――というより。
答えられなかった。
愛華もそれ以上追及せず、麗華もまた何かを察したように紅茶へ口をつける。
そんな少し重たい空気の中。
――♪♪♪
突然、電子音が鳴った。
三人の視線が同時に動く。
愛華がテーブルに置いていた仕事用の携帯だった。
「失礼します」
画面を確認する。
登録されていない番号。
愛華は一瞬だけ和春を見ると、そのまま電話を取った。
「はい。Boundary & Mindの天城です」
麗華の視線が愛華へ向く。
先ほどまで妹として話していた女性の表情が、一瞬で仕事のものへ切り替わった。
『突然のお電話、失礼いたします。私、――学園の理事長をしております――』
愛華は静かに話を聞く。
「はい。……講義のご依頼ですか?」
和春が僅かに視線を上げた。
麗華も聞くともなしに耳を傾ける。
電話の相手は、国内でもかなり規模の大きな私立学園の理事長だった。
中学校。
高等学校。
大学。
内部進学制度を持ち、中高からそのまま大学へ進む生徒も多い、いわゆるエスカレーター式のマンモス校。
今回の依頼は経営相談ではなかった。
講義。
対象は高校生。
大学進学後、心理学を専攻することに興味を持っている生徒たちへ向けて、一度、本格的な心理学の講義をしてほしいという依頼だった。
愛華は内容を確認していく。
「対象は高校生ですね」
「……はい」
「心理学専攻を希望している生徒だけではなく、興味を持っている生徒も参加可能、と」
愛華はメモを取る。
「講義時間は?」
少し話を聞き。
「分かりました」
そこで愛華は携帯を耳から少し離した。
「和春」
「ん?」
「高校での講義依頼です」
「大学で心理学を専攻したい生徒向けに、大学で何を学ぶのかも含めて心理学の授業をしてほしいそうです」
和春はほとんど考えなかった。
「いいぞ」
麗華が僅かに目を見開く。
愛華は確認する。
「お引き受けしますか?」
「ああ、面白そうだ。」
それだけだった。
愛華は再び電話へ戻る。
「お待たせいたしました。神代がお引き受けするとのことです」
電話の向こうから、明らかに安心した声が返ってきた。
愛華は日程を確認する。
手帳ではない。
頭の中で直近の予定を照合しながら、パソコンのスケジュールも開く。
「その日でしたら午前からでも可能です」
「……はい」
「では、その時間でお願いいたします」
さらに必要事項を確認していく。
参加予定人数。
教室。
プロジェクターなどの設備。
学校側が希望するテーマ。
生徒たちの進路状況。
そして講義料。
一通り確認を終える。
「詳細についてはメールをお願いいたします。確認後、必要があればこちらからご連絡いたします」
「はい」
「よろしくお願いいたします」
通話が切れる。
愛華はそのまま予定を入力した。
和春はもうコーヒーを飲んでいる。
麗華が尋ねる。
「……あなた、高校生に授業までしているんですか?」
「たまにな」
「コンサルタントですよね?」
「コンサルが講義しちゃいけない法律でもあるのか?」
「そういう意味ではありません」
麗華は額を押さえる。
父親から見せられた資料を思い出す。
心理学。
経営学。
経済学。
法律。
会計。
福祉。
その他、数え切れないほどの知識。
確かに教えようと思えば教えられるのだろう。
だが。
愛華は少し考えていた。
「大学で心理学を専攻したい高校生ですか……」
「どうした?」
「内容です」
愛華は和春を見る。
「一般的な心理学入門をしますか?」
「いや」
即答だった。
「たぶん、それじゃつまらん」
「ですよね」
愛華も予想していたようだった。
麗華が眉を寄せる。
「普通に教えないんですか?」
和春はソファの背にもたれる。
「高校生相手に心理学史から始めてどうする」
「大学行けば嫌でも習う」
「じゃあ何を教えるつもりです?」
麗華が尋ねる。
和春は少し考える。
「心理学で人の心が読めると思ってる奴。人を自由に操れると思ってる奴。カウンセラーになれば人を救えると思ってる奴。そういう勘違いを最初に全部壊す」
麗華が黙った。
愛華だけは。
その言葉を聞いた瞬間、僅かに表情を変えた。
――人を救えると思っている奴。
和春は続ける。
「心理学は魔法じゃない。相手の心を読む学問でもない。覚えたテクニックを使って、人を自分の思い通りにする学問でもない。それを最初に理解させる」
愛華が静かに尋ねる。
「では、その後は?」
「選択肢」
麗華が和春を見る。
「選択肢?」
「ああ」
和春は当然のように答えた。
「心理学を知れば、物事を見る角度が増える。自分がなんで怒ったのか。なんで不安なのか。なんで相手と話が噛み合わないのか。なんで同じ失敗を繰り返すのか。知らなきゃ『自分はこういう人間だから』で終わる。でも知識があれば」
和春は指を二本立てた。
「別の可能性を考えられる」
さらに三本。
「三つ目も見つかる。選択肢が増える」
愛華は黙って聞いていた。
「心理学で人生の正解なんか分からない。そんなもん俺にも分からん。ただ――」
和春は何気なく言った。
「一つしか道がないと思ってる奴に、二本目の道があることを見せるくらいはできる」
麗華の紅い瞳が僅かに動いた。
つい数分前。
自分との会話で。
この男は自分自身の答えだけは出せなかった。
だが他人の選択肢について話す時には。
驚くほど迷いがない。
愛華は小さく微笑む。
「では、その方向で資料を作っておきますね」
「頼む」
「……私が作るんですか?」
「俺もやる」
「でしたら結構です」
いつもの会話。
麗華はそんな二人を黙って眺めていた。
父親に渡された調査資料には。
神代和春の異常な経歴が並んでいた。
だが。
紙には書かれていなかった。
この男が。
何のために、それほど多くの知識を集め続けているのか。
麗華には。
その答えがほんの少しだけ見えた気がした。

