Boundary & Mind     心の境界線

静寂。

ほんの数秒。

しかし愛華には、その数秒が妙に長く感じられた。

和春はコーヒーを一口飲む。

そして――

「そもそも相方って言葉の定義が曖昧だろ」

麗華の眉が動く。

「……はい?」

「仕事上のパートナーを相方と呼ぶ場合もある。共同経営に近い関係もある。業務委託でも長期的に組んでりゃ相方と呼ぶ奴はいる」

「神代さん」

「それにBoundary & Mindの場合、一般的な企業の雇用関係とは――」

「神代さん?」

麗華の目が細くなる。

和春は止まらない。

「愛華が担ってる業務範囲を考えれば、秘書でも従業員でも説明として不十分だ。スケジュール管理、案件分析、交渉補助、資料作成、会計――」

「……」

「それに生活面まで含めれば――」

麗華が額に手を当てた。

「もう結構です」

和春が止まる。

麗華は呆れたように和春を見る。

「政治家ですか、あなたは‥」

愛華が思わず視線を逸らした。

笑ってはいけない。

だが、あまりにも的確だった。

「聞いていることは一つです」

麗華は再び和春を見る。

「愛華は、あなたにとって何なんですか?」

「だから、それを一つの言葉で定義する必要性が――」

「また始まった」

麗華はため息をついた。

「昨日まであなたを過小評価していたことは認めます。父からあなたの経歴も見せられました」

和春の眉が僅かに動く。

「調べたのか」

「ええ」

「あなたなら、私が何を聞いているか分からないはずがないでしょう?」

「……」

それはそうだった。

十か国語以上を操る男が‥

心理学を学び続けてきた男が‥

言葉の意味を理解できないはずがない。

分かっている。

分かりすぎるほど、分かっている。

だから――

答えられない。

愛華は黙ったまま、隣に座る和春を見た。

(……また)

和春は、他人の選択について話す時には迷わない。

選択肢を並べる。

メリットを示す。

リスクを示す。

その先に何が起こる可能性があるのかまで説明する。

そして最後には必ず言う。

――決めるのはお前だ。

だが。

自分自身の人生になると。

時折、ほんの僅かに止まる。

まして今回は――

愛華の人生まで巻き込む選択だった。

自分だけならいい。

失敗しようが。

傷つこうが。

自分が責任を取れば終わる。

だが。

「好きだ」

「付き合ってくれ」

その言葉は違う。

言った瞬間。

選択肢は和春だけのものではなくなる。

愛華の人生へ、自分から踏み込むことになる。

そして和春には。

どうしてもそこに引っかかるものがあった。

⸻

十四歳。

中学二年。

まだ今ほど知識も経験もなかった頃。

それでも和春は、同年代の子供より遥かに多くの本を読んでいた。

特に心理学。

人の感情。

認知。

行動。

言葉。

知れば知るほど。

人間というものを理解できたような気になっていた。

そして当時。

大切な異性の友人がいた。

笑って。

話して。

悩みを聞いて。

何度も相談に乗った。

だから。

自分なら何とかできると思っていた。

言葉で。

心理学で。

繋ぎ止められると。

勘違いしていた。

あの日もそうだった。

高い場所。

柵の向こう。

震えている友人。

和春は必死に言葉を投げ続けた。

「大丈夫」

「俺が助ける」

「絶対に救うから」

「だから戻ってこい」

必死だった。

知っている心理学の知識を全部使った。

どんな言葉なら届くのか。

どう話せば気持ちを変えられるのか。

考えて。

考えて。

考えて――

それでも。

届かなかった。

目の前から。

その人は消えた。

伸ばした手は。

何にも届かなかった。

⸻

それ以来。

和春は「助ける」という言葉を簡単に使わなくなった。

「救う」という言葉も。

使わない。

なぜなら。

その二つの言葉には――

必ず自分が主語として存在するから。

俺が助ける。

俺が救う。

それは一見、優しい言葉に聞こえる。

だが和春にとっては違う。

相手の人生を、自分の力で変えられるという思い上がりにもなり得る。

人間は。

他人の人生を完全には背負えない。

本当に誰かの人生が変わる時。

最後に歩くのは、その人自身だ。

だから和春は‥

答えを与えなくなった。

道を決めなくなった。

代わりに――

選択肢を増やす。

知らなかった制度を教える。

見えていなかった可能性を見せる。

違う角度から物事を見せる。

一つしかなかったと思っていた道を

二つ。

三つ。

十個へ増やす。

その中から。

本人が自分で選ぶ。

それが現在の神代和春の心理学だった。

人を救うのではない。

人が自分で歩ける可能性を増やす。

それなら。

自分が誰かの人生の主人公にならなくていい。

⸻

「……和春?」

愛華の声で、意識が戻る。

ほんの数秒だった。

和春はいつもの表情に戻っている。

「なんだ?」

「いえ……」

愛華はそれ以上聞かなかった。

麗華は二人をじっと観察していた。

「つまり」

麗華が口を開く。

「答える気はない、と」

和春は少し考える。

「そういうわけじゃない」

「では答えてください」

「今答える必要があるのか?」

麗華の眉がぴくりと動く。

「……本当に面倒な男ですね、あなた」

「よく言われる」

「でしょうね」

麗華は妹を見る。

愛華は困ったように微笑んだ。

「姉さん。もういいです」

「愛華?」

愛華は和春を一度だけ見る。

「無理に聞いても意味がありませんから」

その言葉に。

今度は和春が愛華を見た。

愛華は何も言わない。

ただ、いつものように隣にいる。

それで会話は終わった。

だが麗華には分かった。

この男は愛華を軽く扱っているわけではない。

むしろ――

逆なのかもしれない。

大切だからこそ。

言葉にした瞬間に生まれる責任を、誰より重く考えている。

麗華は小さく息を吐く。

(厄介ね……)

頭が良すぎる。

責任感も強すぎる。

そして何より。

過去に何を抱えているのかは分からないが――

自分自身のことになると、途端に不器用になる。

麗華は紅茶を一口飲む。

そして思った。

もしかすると。

神代和春という人間に必要なのは。

さらに多くの知識でも。

資格でも。

誰かを導くための心理学でもない。

自分自身が選ぶための――

ほんの少しの勇気なのかもしれなかった。