数日後。
Boundary & Mind――神代和春の自宅兼事務所。
インターホンが鳴った。
愛華はモニターを確認すると、わずかに目を細める。
「……来ましたね」
リビングのソファに座っていた和春は、ブラックコーヒーを飲みながら本を閉じた。
「予定通りだな」
愛華が玄関へ向かう。
扉を開けると――
そこには天城麗華が立っていた。
赤い髪。
紅の瞳。
身体の線に合わせて仕立てられたスーツ。
数日前、BARで会った時と変わらない。
だが。
麗華の和春を見る目だけは、あの時とは僅かに違っていた。
父から見せられた調査資料。
あれを読んだ以上。
もう目の前の男を「たかが町のコンサル」とは思えない。
それでも。
今日ここへ来た目的は変わっていなかった。
「どうぞ」
愛華が中へ通す。
麗華は建物の中を見回しながら歩いた。
生活空間と仕事場が共存している。
巨大企業の本社とは比較にならないほど小さい。
それでも整理され、必要な設備は揃っている。
そして何より。
ここには確かに、愛華の生活があった。
応接室へ入る。
和春はすでにソファに座っていた。
「来たな」
「ええ」
麗華も向かいへ腰掛ける。
愛華は和春の隣へ。
その位置を見ただけで、麗華には分かった。
愛華にとって。
そこが自分の席なのだ。
⸻
愛華が紅茶を置く。
「それで、姉さん。今日は何のお話ですか?」
麗華はカップには手をつけなかった。
「分かっているでしょう?」
愛華は何も答えない。
麗華は妹を真っ直ぐ見る。
「愛華。実家へ戻ってきなさい」
和春は口を挟まない。
「あなたが優秀なのは、私が一番よく知ってる。経営。会計。交渉。人を見る力。あなたなら天城グループでも十分に力を発揮できる」
麗華の声にはBARでのような嘲りはなかった。
今回は本気だった。
「私が次期社長になる。あなたには、私の隣にいてほしい。二人で天城グループをもっと成長させていけばいい」
愛華は黙って姉の言葉を聞いていた。
麗華は続ける。
「こんな小さな会社で終わる必要はない。あなたなら、もっと大きな舞台で――」
「お断りします」
静かな声だった。
だが。
迷いは一切なかった。
麗華の言葉が止まる。
愛華は姉を真っ直ぐ見つめる。
「私は戻りません」
「……愛華」
「私はBoundary & Mindで働いていきます」
麗華の眉が僅かに動く。
「それが、あなたの答え?」
「はい」
即答だった。
麗華は和春を見る。
和春は少し困ったように笑う。
「それと。勝手にスカウトは困るな」
麗華の紅い瞳が細くなる。
「スカウト?」
「愛華は俺の相方だ」
愛華の瞳が僅かに動く。
和春は続ける。
「こいつがいなくなると普通に困る。仕事もそうだしな。それに‥」
和春は麗華を見る。
「無理矢理連れて行っても意味ないんじゃないか?」
「本人がやりたくない仕事させて、能力を最大限出せると思うか?」
麗華は答えない。
「会社を成長させたいなら、なおさらだ。優秀な奴を置けばいいって話じゃない。本人がそこで何をしたいのか。そこ無視したら長続きしない」
麗華は静かに言う。
「神代さん」
以前とは違う。
今度は、きちんと名前で呼んだ。
「あなたには分からないでしょう。天城グループがどれほど大きな会社なのか」
和春は表情を変えない。
「知ってる」
麗華が止まる。
「国内外の主要事業も、直近の決算も、大体はな」
「…………」
父親から見せられた資料が麗華の頭をよぎる。
――歩く専門書。
麗華は小さく息を吐いた。
「……そうでしたね」
和春は少し笑う。
「でも会社の規模は関係ない。俺が決めることでもない」
そして隣を見る。
「決めるのは愛華だ」
麗華の視線も妹へ戻る。
愛華は静かに口を開いた。
「姉さん。私は天城グループが嫌いだから戻らないわけではありません」
麗華が黙って聞く。
「家族が嫌いだからでもありません。ただ――」
愛華は一度、和春を見る。
それから自分たちの事務所を見渡した。
「私のやりたいことが、天城グループにはありません」
麗華の瞳が僅かに揺れる。
「私はコンサルタントです」
愛華ははっきりと言った。
「大企業だけではありません。小さな会社も。個人商店も。経営者も。働いている人も。時には、個人の生活そのものも困っている方には、見えていない選択肢がたくさんあります」
先日の不動産相談。
旅館。
モデル事務所。
これまで関わってきた数々の案件。
その一つひとつが愛華の中に積み重なっている。
「和春は答えを押し付けません。選択肢を増やします。そして最後に選ぶのは、その人自身です」
愛華は柔らかく微笑んだ。
「私は、その仕事が好きなんです」
麗華は何も言わない。
「私は和春と一緒に――」
一拍。
「企業や人の選択肢を広げていきます」
その言葉には姉への反抗心など、一欠片もなかった。
ただ、自分で選んだ人生を話しているだけだった。
だからこそ。
麗華には強く響いた。
「……そう」
長い沈黙のあと。
麗華はようやく紅茶へ手を伸ばした。
一口飲む。
そして、和春を見る。
「神代さん」
「ん?」
「一つだけ聞いても?」
「好きに聞け」
麗華は隣に座る愛華を見る。
「あなたにとって、愛華は――」
少し間を置く。
「ただの仕事の相方なんですか?」
愛華の身体が僅かに固まった。
和春の手も。
コーヒーカップへ伸びる途中で止まる。
「…………」
数日前のBARとは違う。
逃げ場はない。
麗華は静かに二人を見ていた。
姉として。
おそらく今日。
天城グループの話以上に聞きたかった質問を――
とうとう和春本人へ突きつけた。
Boundary & Mind――神代和春の自宅兼事務所。
インターホンが鳴った。
愛華はモニターを確認すると、わずかに目を細める。
「……来ましたね」
リビングのソファに座っていた和春は、ブラックコーヒーを飲みながら本を閉じた。
「予定通りだな」
愛華が玄関へ向かう。
扉を開けると――
そこには天城麗華が立っていた。
赤い髪。
紅の瞳。
身体の線に合わせて仕立てられたスーツ。
数日前、BARで会った時と変わらない。
だが。
麗華の和春を見る目だけは、あの時とは僅かに違っていた。
父から見せられた調査資料。
あれを読んだ以上。
もう目の前の男を「たかが町のコンサル」とは思えない。
それでも。
今日ここへ来た目的は変わっていなかった。
「どうぞ」
愛華が中へ通す。
麗華は建物の中を見回しながら歩いた。
生活空間と仕事場が共存している。
巨大企業の本社とは比較にならないほど小さい。
それでも整理され、必要な設備は揃っている。
そして何より。
ここには確かに、愛華の生活があった。
応接室へ入る。
和春はすでにソファに座っていた。
「来たな」
「ええ」
麗華も向かいへ腰掛ける。
愛華は和春の隣へ。
その位置を見ただけで、麗華には分かった。
愛華にとって。
そこが自分の席なのだ。
⸻
愛華が紅茶を置く。
「それで、姉さん。今日は何のお話ですか?」
麗華はカップには手をつけなかった。
「分かっているでしょう?」
愛華は何も答えない。
麗華は妹を真っ直ぐ見る。
「愛華。実家へ戻ってきなさい」
和春は口を挟まない。
「あなたが優秀なのは、私が一番よく知ってる。経営。会計。交渉。人を見る力。あなたなら天城グループでも十分に力を発揮できる」
麗華の声にはBARでのような嘲りはなかった。
今回は本気だった。
「私が次期社長になる。あなたには、私の隣にいてほしい。二人で天城グループをもっと成長させていけばいい」
愛華は黙って姉の言葉を聞いていた。
麗華は続ける。
「こんな小さな会社で終わる必要はない。あなたなら、もっと大きな舞台で――」
「お断りします」
静かな声だった。
だが。
迷いは一切なかった。
麗華の言葉が止まる。
愛華は姉を真っ直ぐ見つめる。
「私は戻りません」
「……愛華」
「私はBoundary & Mindで働いていきます」
麗華の眉が僅かに動く。
「それが、あなたの答え?」
「はい」
即答だった。
麗華は和春を見る。
和春は少し困ったように笑う。
「それと。勝手にスカウトは困るな」
麗華の紅い瞳が細くなる。
「スカウト?」
「愛華は俺の相方だ」
愛華の瞳が僅かに動く。
和春は続ける。
「こいつがいなくなると普通に困る。仕事もそうだしな。それに‥」
和春は麗華を見る。
「無理矢理連れて行っても意味ないんじゃないか?」
「本人がやりたくない仕事させて、能力を最大限出せると思うか?」
麗華は答えない。
「会社を成長させたいなら、なおさらだ。優秀な奴を置けばいいって話じゃない。本人がそこで何をしたいのか。そこ無視したら長続きしない」
麗華は静かに言う。
「神代さん」
以前とは違う。
今度は、きちんと名前で呼んだ。
「あなたには分からないでしょう。天城グループがどれほど大きな会社なのか」
和春は表情を変えない。
「知ってる」
麗華が止まる。
「国内外の主要事業も、直近の決算も、大体はな」
「…………」
父親から見せられた資料が麗華の頭をよぎる。
――歩く専門書。
麗華は小さく息を吐いた。
「……そうでしたね」
和春は少し笑う。
「でも会社の規模は関係ない。俺が決めることでもない」
そして隣を見る。
「決めるのは愛華だ」
麗華の視線も妹へ戻る。
愛華は静かに口を開いた。
「姉さん。私は天城グループが嫌いだから戻らないわけではありません」
麗華が黙って聞く。
「家族が嫌いだからでもありません。ただ――」
愛華は一度、和春を見る。
それから自分たちの事務所を見渡した。
「私のやりたいことが、天城グループにはありません」
麗華の瞳が僅かに揺れる。
「私はコンサルタントです」
愛華ははっきりと言った。
「大企業だけではありません。小さな会社も。個人商店も。経営者も。働いている人も。時には、個人の生活そのものも困っている方には、見えていない選択肢がたくさんあります」
先日の不動産相談。
旅館。
モデル事務所。
これまで関わってきた数々の案件。
その一つひとつが愛華の中に積み重なっている。
「和春は答えを押し付けません。選択肢を増やします。そして最後に選ぶのは、その人自身です」
愛華は柔らかく微笑んだ。
「私は、その仕事が好きなんです」
麗華は何も言わない。
「私は和春と一緒に――」
一拍。
「企業や人の選択肢を広げていきます」
その言葉には姉への反抗心など、一欠片もなかった。
ただ、自分で選んだ人生を話しているだけだった。
だからこそ。
麗華には強く響いた。
「……そう」
長い沈黙のあと。
麗華はようやく紅茶へ手を伸ばした。
一口飲む。
そして、和春を見る。
「神代さん」
「ん?」
「一つだけ聞いても?」
「好きに聞け」
麗華は隣に座る愛華を見る。
「あなたにとって、愛華は――」
少し間を置く。
「ただの仕事の相方なんですか?」
愛華の身体が僅かに固まった。
和春の手も。
コーヒーカップへ伸びる途中で止まる。
「…………」
数日前のBARとは違う。
逃げ場はない。
麗華は静かに二人を見ていた。
姉として。
おそらく今日。
天城グループの話以上に聞きたかった質問を――
とうとう和春本人へ突きつけた。

