Boundary & Mind     心の境界線

モデル事務所での打ち合わせを終えた頃には、すっかり日も落ちていた。

社長やアリシアに見送られ、和春、愛華、瀬奈の三人は駅へ向かって歩く。

瀬奈は一日中メモを取り続けたせいか、どこか放心したような顔をしていた。

「……濃すぎました」

和春が笑う。

「まだ一日だぞ」

「一日だからですよ!」

「普通、一日に不動産と介護とブランド立ち上げと銀行融資まで見ませんよ!」

愛華がくすっと笑う。

「確かに、今日は少し多かったかもしれませんね」

「少し!?」

瀬奈の声が夜道に響いた。

明日は休日。

予定もない。

和春は少し考えてから二人を見る。

「このまま帰るのもつまらんな。BARでも行くか」

瀬奈が目を輝かせる。

「いいんですか?」

「明日休みだしな」

愛華も小さく頷いた。

「私は構いません」

「じゃあ決まり」

⸻

しばらくして三人が入ったのは、和春が時折利用している静かなBARだった。

照明は控えめ。

カウンターには落ち着いた音楽が流れ、客同士の会話も小さい。

瀬奈は店内を見渡しながら感心する。

「なんか……大人の店って感じですね」

和春が笑う。

「お前も大人だろ」

「そういう意味じゃないです」

愛華も少し笑いながら席へ向かおうとする。

だが、その足が止まった。

ほんの一瞬だった。

瀬奈には気付かない程度。

だが和春は気付いた。

愛華の視線の先。カウンターの奥に一人の女性が座っていた。

仕立ての良い黒のスーツ。背筋は真っ直ぐ。

長い赤髪。そして、鋭さを宿した紅の瞳。

ただ座っているだけなのに、周囲から浮いて見えるほどの存在感。

女性はグラスを置く。

そして。

愛華を見た。

「やっと会えた」

愛華の表情から笑みが消える。

「……姉さん」

瀬奈が目を瞬く。

「お姉さん……?」

女性はゆっくり立ち上がった。

天城麗華。

巨大企業グループ――天城グループの次期社長。

愛華の実の姉だった。

麗華は愛華へ近づく。

「ここに通っていれば、いつか会えると思ってね。あなた、電話だといつも話をはぐらかすから」

愛華は小さく息を吐く。

「用件は何ですか?」

「分かってるでしょ?」

麗華の声は静かだが、強い。

「いい加減、実家に帰ってきなさい」

瀬奈は黙ったまま二人を見る。

麗華の視線が和春へ移った。

「いつまでその男と同棲してるつもり?」

愛華の眉が僅かに動く。

「同棲ではありません。ルームシェアです」

一拍置いて。

「それに、付き合ってもいませんから」

和春は何も言わない。

麗華は鼻で笑った。

「余計に意味が分からないわ。付き合ってもいない男と一緒に暮らして、その男の仕事まで手伝って」

愛華の声が少しだけ低くなる。

「私が決めたことです」

「そう」

麗華は和春を一瞥する。

「噂は聞いてるわ、随分と仕事ができるらしいじゃない?」

一瞬だけ間を置く。

「でも、たかが町のコンサルでしょ?」

瀬奈の表情が固まった。

今日一日、和春の仕事を間近で見てきたからこそ、その言葉に違和感しかない。

愛華も麗華を真っ直ぐ見返す。

「姉さん。和春に失礼では?」

「失礼?」

麗華は少し笑う。

「私の妹にメイド服を着させて、小さな事務所で町のコンサルをさせている程度の男でしょ?」

愛華の目つきが変わった。

「それは――」

「愛華」

和春が静かに止めた。

愛華が振り返る。

和春は怒っていない。

眉一つ動かしていなかった。

麗華を睨むこともしない。

ただテーブルへ視線を向けたまま言う。

「ここは落ち着いて酒を楽しむ場所だ」

麗華が和春を見る。

和春は続ける。

「口喧嘩したいなら、場所くらい提供してやる。改めて事務所まで来い。話ならそこで聞く」

そして初めて麗華を見る。

「今は他の客に迷惑だぞ」

声を荒げることもない。

挑発に乗ることもない。

ただ、それだけだった。

麗華は数秒、和春を見つめる。

何かを測るような視線。

やがて小さく息を吐いた。

「……なるほど。」

そしてカウンターへ戻る。

「マスター。会計お願い」

支払いを済ませ、バッグを手に取る。

店を出る前に一度だけ振り返った。

「後日、事務所へ行く」

愛華を見る。

「その時はちゃんと話しましょう」

そして和春へ視線を移す。

「あなたとも」

和春は軽く手を挙げる。

「好きにしろ」

麗華は何も言わず、BARを出ていった。

扉が閉まる。

静かな音楽だけが戻ってくる。

数秒の沈黙。

瀬奈は愛華を恐る恐る見る。

「……愛華さんのお姉さん。すごい迫力でしたね……」

愛華は深いため息をついた。

「申し訳ありません。せっかく楽しく飲めると思っていたのに」

和春は何事もなかったように椅子へ座る。

「気にするな」

そしてメニューを開く。

「で。、何飲む?」

瀬奈は思わず和春を見る。

「切り替え早すぎません!?」

和春は笑った。

「明日の話を今日悩んでも酒が不味くなるだけだろ」

愛華はそんな和春を見つめる。

そしてほんの少しだけ、表情を緩めた。

「……そういうところですよ」

「何が?」

「何でもありません」

愛華も席へ座る。

だが。

先ほどまでとは違う。

彼女の中に、ほんの僅かな影が残っていた。

天城麗華。

その名前が。

近いうちにBoundary & Mindへ、新しい波乱を持ち込むことだけは間違いなかった。