Boundary & Mind     心の境界線

そして和春がすぐに鞄からノートパソコンを取り出した。

社長が目を瞬く。

「……今からですか?」

「今数字揃ってるだろ。後にする理由ない」

パソコンを開く。

愛華は何も言われていないのに、自然と和春の隣へ椅子を寄せた。

「社長。直近六か月の会社全体の月次試算表と、オッドキャットに関係する支出を分けた資料はありますか?」

「あります」

「製造委託先から出ている、現在のロット別単価もお願いします」

「すぐ出します」

「それと現在確定している予約数、キャンセル率、SNSから公式サイトへの流入数もいただけますか?」

「はい」

瀬奈は二人を交互に見る。

(……もう始まってる)

和春は愛華へ指示していない。

それなのに愛華は、これから和春が必要とする資料を先に集め始めている。

アリシアも慣れた様子でスマートフォンを操作した。

「私のSNSのインサイトも必要ですよね?」

「いる」

「分かりました」

アリシアまで即座に動き始める。

⸻

資料が揃っていく。

和春は数字を見るたびにパソコンへ入力していった。

瀬奈は最初、普通に事業計画書を作っているのだと思っていた。

だが。

カタカタカタカタカタカタ――。

「……え?」

速い。

異常に速い。

考えてから文章を打っているように見えない。

資料を見る。

打つ。

数字を見る。

打つ。

別のページを開く。

計算する。

また打つ。

ほとんど手が止まらない。

瀬奈は和春の画面を覗き込む。

事業概要。

市場分析。

ブランドコンセプト。

販売実績。

追加生産の必要性。

資金使途。

売上予測。

原価。

粗利。

在庫回転。

返済計画。

SNSによる集客実績。

次々と項目が埋まっていく。

「ちょ、ちょっと待ってください……」

瀬奈が思わず声を上げた。

「これ、今作り始めたんですよね?」

和春は画面から目を離さない。

「そうだけど」

「なんでそんな速いんですか!?」

「数字入れて文章にしてるだけだろ」

瀬奈は言葉を失う。

(その『だけ』が普通できないんですよ!)

⸻

和春が社長へ尋ねる。

「今のシャンプー、一個いくらで作ってる?」

社長が答える。

和春の指が動く。

「五倍ロットなら?」

社長が製造会社からの見積書を確認する。

「ここまで下がります」

「容器込み?」

「はい」

「輸送費。」

「こちらです」

「倉庫」

「現在の契約なら、この数量を超えると追加料金が発生します」

和春の指が一瞬止まる。

「だったら倉庫変えた方がいい」

社長が驚く。

「そこもですか?」

「五倍作って保管コストで利益削ったら意味ないだろ」

「確かに……」

和春はすぐに別の数字を入れる。

「全部一気に五倍にする必要もない」

「日用品を厚くする」

「服と財布はサイズや色で在庫が分散する。アパレルは売れ筋に寄せろ。シャンプー、リンス、基礎化粧品は切らすな」

社長も意見を返す。

「ただ、化粧品は生産リードタイムが長いです」

「何日」

「最短でもこのくらいです」

「じゃあ安全在庫を厚くする」

和春が修正する。

社長も別の資料を見せる。

「財布は予約数ほど実売が伸びない可能性があります」

「理由は?」

「価格です」

「なら三倍」

「日用品は?」

「五倍で」

「それでいこう」

瀬奈は驚いていた。

和春が一方的に答えを出しているわけではない。

社長から現場の情報を聞く。

修正する。

また数字を組む。

さらに聞く。

また変える。

相談しながら、その場で計画が出来上がっていく。

⸻

愛華が和春の画面を見る。

しばらく黙っていたが、ある文章で指を止めた。

「和春」

「ん?」

「ここ」

画面を指差す。

『SNS上における急激な認知拡大及び初回受注実績に鑑み、機会損失回避を目的として生産規模を拡大し――』

愛華が少し困ったように笑う。

「固いです」

和春が眉を寄せる。

「銀行に出すんだからいいだろ」

「良くありません」

即答だった。

「意味は正しいです」

「ですが、読む側が一度立ち止まります」

愛華は文章を読み直す。

「もっと素直でいいです」

そして和春のキーボードへ手を伸ばし、一部を書き換える。

『発売直後から想定を上回る予約があり、SNSでも継続的に高い反響を得ています。現在の需要を一時的な話題で終わらせず、継続購入につなげるため、生産体制を拡大します』

瀬奈が目を見開く。

意味はほとんど同じ。

だが格段に読みやすい。

和春は数秒見つめる。

「……そっちでいい。」

愛華は微笑む。

「でしょう?」

「腹立つな」

「褒め言葉として受け取っておきます」

社長が吹き出す。

「ははは!」

アリシアも口元を押さえて笑っていた。

瀬奈だけは二人のやり取りを呆然と見ている。

(これ……和春さんが全部作ってるように見えるけど違う)

和春は数字と構造を異常な速度で組み立てる。

愛華は、その思考を相手が理解できる形へ変換する。

しかも。

和春が説明する必要すらない。

⸻

数分後。

愛華がまた止める。

「ここもです」

「今度はなんだ」

「『当該施策によって顧客の反復購買行動を固定化する』」

「間違ってない」

「怖いです」

瀬奈が吹き出しそうになる。

愛華は続ける。

「銀行の担当者に心理学の研究論文を読ませるつもりですか?」

「意味通じるだろ」

「通じることと、伝わることは違います」

和春が黙る。

愛華は柔らかく直す。

『日用品を安定供給することで、気に入ってくださったお客様が継続して購入できる環境を整えます』

「こちらで」

和春は少し不満そうだった。

「長い」

「和春の文章は短すぎます」

「無駄が嫌いなんだよ」

「人間はデータではありません」

「……分かったよ」

愛華は満足そうに微笑んだ。

瀬奈は思わず呟く。

「すごい……」

愛華が振り返る。

「何がですか?」

「いや……」

「愛華さん、普通に和春さんの文章を直すんですね」

「直しますよ?必要なら」

和春が横から言う。

「こいつ結構容赦ないぞ」

愛華は笑顔のまま答える。

「間違っているとは言っていません。伝わりにくいと言っているだけです」

「それが一番刺さるんだよ」

⸻

さらに作業は続く。

愛華が数字を確認する。

「返済計画ですが、保守的な売上予測も一つ入れておきませんか?」

和春がすぐに答える。

「入れてる」

画面を切り替える。

通常予測。

強気予測。

そして販売数が予想を下回った場合の保守的予測。

三種類が既に作られていた。

社長が驚く。

「そこまで……」

和春は平然としている。

「銀行が見るのは『売れたら返せます』じゃない。思ったより売れなかった時でも返せるかだ。一番悪い条件でも耐えられる数字を出す」

愛華も頷く。

「融資をお願いする以上、都合の良い未来だけを見せるべきではありません。リスクを理解した上で、どう対応するのか。そこまで示した方が信用されます」

瀬奈はまたメモを取る。

(これが銀行との交渉……。夢を語るんじゃない。失敗した時まで説明するんだ)

⸻

作業開始からしばらくして。

和春の指が止まった。

「とりあえず叩き台できた」

社長が時計を見る。

そして二度見した。

「……もう?」

「まだ叩き台」

和春はノートパソコンを社長側へ向ける。

数十ページ。

売上計画。

生産計画。

資金繰り。

借入希望額。

返済原資。

市場分析。

ブランド戦略。

リスク分析。

SNSの実績。

アリシアというブランド資産だけに依存しない、中長期戦略まで組み込まれていた。

社長はページを送るたびに表情を変える。

「これを……今?」

和春はコーヒーを口にする。

「数字はもうあったからな」

愛華が横から付け加える。

「文章はこれから私がもう一度確認します」

「和春は内容を詰めることを優先すると、時々文章が専門家向けになりすぎますので」

和春が横を見る。

「時々じゃないみたいな言い方やめろ」

「かなりの頻度です」

「お前な……」

アリシアが楽しそうに笑う。

社長も笑った。

そして瀬奈は。

二人を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。

今日一日。

ずっと和春の凄さに驚いてきた。

だが今、ようやく分かった。

Boundary & Mindが異常なのは。

和春一人が天才だからではない。

その異常な思考速度を理解し。

足りない部分を補い。

言われる前に動き。

必要なら遠慮なく止める。

その隣に愛華がいる。

瀬奈は小さく呟いた。

「……最強コンビじゃん」

愛華が首を傾げる。

「何か言いましたか?」

瀬奈は慌てて首を振った。

「い、いえ! 何も!」

だが心の中では。

ますます、この会社で働いてみたいと思っていた。