見学初日 ― 「価値ゼロ」の家
朝九時。
Boundary & Mind。
瀬奈は少し緊張した面持ちで事務所の扉を開けた。
「お、おはようございます!」
愛華がいつものメイド服姿で微笑む。
「瀬奈、おはようございます。今日は見学ですので、気になったことは何でも聞いてください」
瀬奈は深く頭を下げる。
「愛華先輩、和春さん。よろしくお願いします!」
和春はコーヒーカップを片手に資料を眺めたまま言う。
「見学だからって遠慮するな、分からないことはその場で聞け」
「はい!」
瀬奈は少し嬉しそうに頷いた。
愛華が予定表を確認する。
「本日の最初の案件は個人相談です。不動産売買の案件になります」
和春が立ち上がる。
「行くぞ」
⸻
応接室。
入ってきたのは三十代前半ほどの女性だった。
どこか疲れた表情をしている。
愛華がお茶を出す。
「本日はお越しいただきありがとうございます。」
女性は何度も頭を下げた。
「よろしくお願いします……。」
和春は椅子へ腰掛ける。
「話を聞く」
女性はゆっくり話し始めた。
「地方にある実家を売りたいんです。築五十年以上で……。大手の不動産会社へ相談したら、『建物には価値がない』『解体費用を考えたら赤字になる』って言われて……」
俯く。
「でも、どうしても数百万円は必要なんです。父の介護費用もあって……」
瀬奈はメモを取り始める。
和春は質問する。
「住所」
女性は資料を差し出した。
「こちらです」
和春は住所を見る。
それだけだった。
パソコンを開き、地図を表示する。
航空写真。
都市計画図。
ハザードマップ。
用途地域。
道路台帳。
次々と画面を切り替えていく。
瀬奈は目を丸くした。
(現地に行かないの……?)
和春は画面を見ながら独り言のように話す。
「なるほど。駅から徒歩十五分。市街化区域。前面道路は四メートル。過去十年で交通量が増えてるな」
さらに資料を開く。
「都市計画、来年度から道路拡幅。隣接地。企業が物流拠点を計画中」
瀬奈はついていくのが精一杯だった。
和春は画面を閉じる。
「分かった」
女性が恐る恐る尋ねる。
「やっぱり価値はないですか……?」
和春は首を横に振る。
「逆だ」
部屋が静かになる。
「価値がある」
女性が目を見開く。
「えっ?」
和春は資料を机へ広げた。
「建物じゃない。土地だ。もっと正確に言えば、この土地がある場所に価値がある」
愛華が瀬奈へ向けて補足する。
「和春は建物単体ではなく、その土地が周囲とどう関わっているかまで見ています」
「つまり、その土地の”文脈”ですね。」
和春は続ける。
「隣接地では企業が物流拠点を計画してる。そのまま進めば、おそらく搬入口はこっち側になる」
地図へ指を置く。
「そうすると、この土地の扱い次第で、車両動線が大きく変わる。企業側から見れば、買えるなら買いたい土地になる」
瀬奈は思わず息を呑んだ。
「そんなところまで見るんですか……」
和春は当然という顔だった。
「見ないと仕事にならない。」
女性は震える声で言う。
「でも……不動産会社はそんな話、一言も……。」
和春は肩をすくめる。
「知らなかったか。知ってて言わなかったか、どっちかだ」
愛華が静かに続ける。
「どちらにしても、今の段階で安く売る理由はありません」
和春は紙に簡単なメモを書き始める。
「企業側との交渉。通行に関する権利関係。価格提示の順番。ここだけ押さえればいい。」
女性は不安そうに尋ねる。
「でも……私には交渉なんて……」
和春は首を振る。
「やらなくていい」
スマホを取り出し、一人の名前を表示した。
「こいつに任せる」
数コールで電話が繋がる。
『なんだ和春。また面倒ごとか?』
和春は笑う。
「仕事だ。一件紹介する」
電話の向こうで笑い声が響く。
『お前からの紹介なら断れねぇな』
和春は女性を見る。
「不動正義。不動産会社の社長だ」
「売ることだけじゃなく、交渉もできる。俺が信頼してる」
愛華も微笑む。
「安心してください。この案件は、不動さんの得意分野です」
女性の目には、ようやく安堵の色が浮かんだ。
その様子を見ていた瀬奈は、胸の内で強く思う。
(和春さんは、答えを売ってるんじゃない。依頼人が損をしないための選択肢を増やしてる。だから、この人は普通のコンサルタントじゃないんだ)
朝九時。
Boundary & Mind。
瀬奈は少し緊張した面持ちで事務所の扉を開けた。
「お、おはようございます!」
愛華がいつものメイド服姿で微笑む。
「瀬奈、おはようございます。今日は見学ですので、気になったことは何でも聞いてください」
瀬奈は深く頭を下げる。
「愛華先輩、和春さん。よろしくお願いします!」
和春はコーヒーカップを片手に資料を眺めたまま言う。
「見学だからって遠慮するな、分からないことはその場で聞け」
「はい!」
瀬奈は少し嬉しそうに頷いた。
愛華が予定表を確認する。
「本日の最初の案件は個人相談です。不動産売買の案件になります」
和春が立ち上がる。
「行くぞ」
⸻
応接室。
入ってきたのは三十代前半ほどの女性だった。
どこか疲れた表情をしている。
愛華がお茶を出す。
「本日はお越しいただきありがとうございます。」
女性は何度も頭を下げた。
「よろしくお願いします……。」
和春は椅子へ腰掛ける。
「話を聞く」
女性はゆっくり話し始めた。
「地方にある実家を売りたいんです。築五十年以上で……。大手の不動産会社へ相談したら、『建物には価値がない』『解体費用を考えたら赤字になる』って言われて……」
俯く。
「でも、どうしても数百万円は必要なんです。父の介護費用もあって……」
瀬奈はメモを取り始める。
和春は質問する。
「住所」
女性は資料を差し出した。
「こちらです」
和春は住所を見る。
それだけだった。
パソコンを開き、地図を表示する。
航空写真。
都市計画図。
ハザードマップ。
用途地域。
道路台帳。
次々と画面を切り替えていく。
瀬奈は目を丸くした。
(現地に行かないの……?)
和春は画面を見ながら独り言のように話す。
「なるほど。駅から徒歩十五分。市街化区域。前面道路は四メートル。過去十年で交通量が増えてるな」
さらに資料を開く。
「都市計画、来年度から道路拡幅。隣接地。企業が物流拠点を計画中」
瀬奈はついていくのが精一杯だった。
和春は画面を閉じる。
「分かった」
女性が恐る恐る尋ねる。
「やっぱり価値はないですか……?」
和春は首を横に振る。
「逆だ」
部屋が静かになる。
「価値がある」
女性が目を見開く。
「えっ?」
和春は資料を机へ広げた。
「建物じゃない。土地だ。もっと正確に言えば、この土地がある場所に価値がある」
愛華が瀬奈へ向けて補足する。
「和春は建物単体ではなく、その土地が周囲とどう関わっているかまで見ています」
「つまり、その土地の”文脈”ですね。」
和春は続ける。
「隣接地では企業が物流拠点を計画してる。そのまま進めば、おそらく搬入口はこっち側になる」
地図へ指を置く。
「そうすると、この土地の扱い次第で、車両動線が大きく変わる。企業側から見れば、買えるなら買いたい土地になる」
瀬奈は思わず息を呑んだ。
「そんなところまで見るんですか……」
和春は当然という顔だった。
「見ないと仕事にならない。」
女性は震える声で言う。
「でも……不動産会社はそんな話、一言も……。」
和春は肩をすくめる。
「知らなかったか。知ってて言わなかったか、どっちかだ」
愛華が静かに続ける。
「どちらにしても、今の段階で安く売る理由はありません」
和春は紙に簡単なメモを書き始める。
「企業側との交渉。通行に関する権利関係。価格提示の順番。ここだけ押さえればいい。」
女性は不安そうに尋ねる。
「でも……私には交渉なんて……」
和春は首を振る。
「やらなくていい」
スマホを取り出し、一人の名前を表示した。
「こいつに任せる」
数コールで電話が繋がる。
『なんだ和春。また面倒ごとか?』
和春は笑う。
「仕事だ。一件紹介する」
電話の向こうで笑い声が響く。
『お前からの紹介なら断れねぇな』
和春は女性を見る。
「不動正義。不動産会社の社長だ」
「売ることだけじゃなく、交渉もできる。俺が信頼してる」
愛華も微笑む。
「安心してください。この案件は、不動さんの得意分野です」
女性の目には、ようやく安堵の色が浮かんだ。
その様子を見ていた瀬奈は、胸の内で強く思う。
(和春さんは、答えを売ってるんじゃない。依頼人が損をしないための選択肢を増やしてる。だから、この人は普通のコンサルタントじゃないんだ)

