Boundary & Mind     心の境界線

夜も更け、時計の針は日付が変わる頃を指していた。

図面は整理され、工程表も完成。

親方は立ち上がり、大きく伸びをする。

「よし。今日はここまでだ」

弟子たちも一斉に腰を上げる。

愛華が玄関まで見送りに出た。

「皆さん、本日はありがとうございました。明日もよろしくお願いいたします」

親方は軽く手を振る。

「こちらこそ。飯までご馳走さん」

弟子たちも頭を下げる。

「本当に美味しかったです!」

「ありがとうございました!」

玄関の扉が閉まり、一行は夜道へと歩き出した。

⸻

静かな住宅街。

街灯に照らされながら、弟子たちは先ほどまでの打ち合わせを思い返していた。

一人がぽつりと呟く。

「和春さん……。」

「頭の中、どうなってるんでしょうね」

別の弟子も苦笑する。

「施工の話だけじゃなくて、契約、法律、心理、人の動きまで全部同時に考えてましたよね」

「俺、一つ整理するだけで精一杯だったのに」

経理担当の弟子が眼鏡を押し上げる。

「数字の話になった時も驚きました」

「契約全体を見ながら現場まで考えてる。」

「普通のコンサルタントとは全然違います」

親方は歩きながら笑った。

「あいつが”歩く専門書”なんて呼ばれてる理由だ」

弟子たちが耳を傾ける。

親方は続けた。

「コンサル業界じゃ有名だ。あの異常な記憶力と精神力。別名――」

少し笑って肩をすくめる。

「“バケモノ”とも呼ばれてる。」

弟子たちは思わず苦笑した。

「言われても納得です」

親方は頷く。

「普通のコンサルは、自分の得意分野を持つ。」

「財務なら財務。営業なら営業。人事なら人事。それが普通だ」

少し間を置く。

「あいつは違う。営業も。建築も。法律も。心理も。経営も。専門家レベルで全部やる。だから依頼が絶えねぇ」

経理担当の弟子がふと口にした。

「じゃあ……」

「愛華さんも天才なんですか?」

親方は少しだけ空を見上げる。

「天才の努力家だ。間違いなくな。和春についていけるよう、相当勉強してきたんだろう。だが……。」

少しだけ真剣な表情になる。

「いつか限界は来る」

弟子たちは黙って聞く。

「和春は‥あれだけは別格だ。あれを基準にしたら誰でも潰れる」

一人の弟子が尋ねる。

「でも、弱点とかあるんですか?」

親方は吹き出した。

「あるぞ。コーヒーが淹れられねぇ」

弟子たちが一瞬固まり――

次の瞬間、大笑いした。

「えっ、それだけですか!」

「嘘でしょ!」

「意外すぎる!」

親方も笑う。

「あいつ本人も認めてる。淹れようとすると、どうにもならん。」

笑いながら歩き続ける。

だが親方は心の中だけで呟いた。

(……本当の弱点は、それじゃねぇ。あいつにも、人として抱えているものがある。だが、それを俺が話すことじゃない。)

親方は何も言わず、夜空を見上げた。

⸻

その頃。

神代家では。

愛華が使い終えた食器を片付け終えると、小さく息をついた。

「今日も長い一日でしたね」

和春もソファから立ち上がる。

「明日は早い」

愛華は頷く。

「ええ」

照明を落とし、それぞれ寝る準備を始める。

すると和春が、ごく自然な口調で言った。

「愛華。今日も俺の部屋くるか」

愛華は一瞬動きを止める。

それから呆れたように小さく笑った。

「……仕事になるとあれだけ完璧なのに‥そういうところだけは‥‥」

和春は悪びれる様子もなく肩をすくめる。

「嫌か?」

愛華は苦笑しながら首を振る。

「いいえ、明日に響かない程度にしてくださいね。朝は早いんですから」

静かな笑い声が家に響く。

そして二人は、それぞれ明日に備えて部屋へと向かっていった。