相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

ガラス張りの落ち着いた喫茶店。

外の喧騒とは切り離されたような、静かな空間だった。

窓際の席。

和春はコーヒーを一口飲む。

「……やっぱコーヒーだな」

愛華が少しだけ呆れた目で見る。

「さっきも飲みましたよね」

和春は気にしていない。

愛華ももう止めない。

そのまま紅茶を口に運ぶ。

だが――

二人とも、次の瞬間には別のことに意識が向いていた。

少し離れた席。

大学生くらいの男性。

スマホを耳に当てて、落ち着かない様子で話している。

声は小さいが、断片的に聞こえる。

「はい……急ぎで……」

「任意売却で……借金があって……債権者には……」

和春の手が止まる。

愛華も同時に視線を動かした。

二人の視線が一瞬だけ合う。

同じことを感じていた。

和春が小さく言う。

「……不動産か」

愛華が頷く。

「しかも任意売却ですか‥」

声を抑えたまま続ける。

「急ぎの案件ですね」

和春はコーヒーを置く。

「危ないな」

愛華の目が少し細くなる。

「ええかなり」

二人はそのまま会話を聞くわけではない。

だが、単語だけで十分だった。

任意売却。
借金。
債権者。

そして――

焦り。

愛華が静かに言う。

「完全に足元を見られる状態です」

和春は短く言う。

「カモだな」

大学生の手には、くしゃっとした紙。

ポケットティッシュ。

裏面に印刷された広告。

そこに書かれた不動産会社の名前。

愛華がそれを見て、表情を変えた。

「……あの会社」

和春が聞く。

「知ってるのか」

愛華は小さく頷く。

「評判が良くないです」

声は淡々としている。

だが、明確に警戒していた。

「任意売却で相場よりかなり低く買い叩くことで有名です」

和春が小さく舌打ちする。

「やっぱりか」

愛華は続ける。

「もちろんすべての不動産会社が悪いわけではありません」

少し間。

「ああいう広告型は当たり外れが大きいです」

和春が言う。

「外れ引いたな」

大学生はまだ電話をしている。

声はどこか焦っている。

理解していないまま、話を進めている。

愛華が静かに言う。

「このままだとかなり不利な条件で契約させられますね」

和春は椅子にもたれたまま言う。

「間違いなく」

少し間。

そして愛華を見る。

「どうする」

愛華も視線を戻す。

大学生の手。

震えている。

明らかに――

余裕がない。

愛華は静かに言った。

「放っておけば確実に損します」

和春が立ち上がる。

「じゃあ」

短く。

「止めるか」

愛華もすぐ立つ。

「はい」

二人は、自然な動きで席を離れた。

まるで――

いつもの仕事のように。


■喫茶店内 ― 介入

大学生の声はまだ震えていた。

「はい……その条件で……」

その言葉が出た瞬間だった。

和春は迷わなかった。

立ち上がり、数歩で距離を詰める。

そして――

そのまま学生の手からスマホを取った。

一瞬。

時間が止まる。

周囲の空気が固まる。

学生は何が起きたのか理解できず、口を開いたまま固まる。

和春はそのまま、電話口に向かって言った。

「悪いやっぱ大丈夫だからこの話は忘れてくれ」

間髪入れず。一切の迷いもなく。

そのまま通話を切る。

ピッ。

静寂。

数秒遅れて――

学生の思考が追いつく。

「は……?」

ゆっくりと和春を見る。

理解が追いついた瞬間。

顔が一気に変わる。

「はぁ!?」

怒りがこみ上げる。

「ちょっと何してるんですか!?」

立ち上がりかける。当然の反応だった。

だが――

その前に。愛華が一歩前に出る。

表情は穏やかで声は落ち着いている。

「その会社に頼めば」

少し間を置いて。

「不幸になりますよ?」

学生の動きが止まる。

一瞬だけ、言葉が刺さった。

「……は?」

愛華は続ける。

「今の話ですが任意売却ですよね」

学生の目が揺れる。

「なんで……」

愛華は静かに言う。

「聞こえていました」

そしてテーブルの上に置かれたポケットティッシュを指す。

「その不動産会社は評判が良くありません」

学生の表情に迷いが出る。

だがすぐに反発する。

「いやでも、急ぎなんで……他に頼れるところもなくて――」

和春が言う。

「だからカモにされる」

一言だった。

学生が言葉を詰まらせる。

和春は続ける。

「任意売却は条件で全部決まる。今の状態だと言い値で持っていかれる」

学生の顔が少し青くなる。

愛華が柔らかく言う。

「不安なのは分かります。急いでいるのも」

少し距離を詰める。

「ですが焦って決めると取り返しがつかなくなります」

学生の視線が揺れる。

怒りは消えていた。

代わりに――

不安が出ている。

愛華が静かに言った。

「私たちの話だけでも聞いてみませんか?」

和春は何も言わない。

ただ学生を見ている。

逃げ場を与えない視線。

だが、威圧ではない。

見抜かれている感覚。

学生は数秒黙る。

そして――

ゆっくり座り直した。

「……話」

小さく言う。

「聞かせてください」

愛華は小さく頷いた。

「ありがとうございます」

そして和春を見る。

和春は椅子に座りながら言った。

「まず」ー状況全部話せ」

喫茶店の一角。

静かな空間の中で――

また一つ、案件が始まった。

■喫茶店 ― (事情)

学生は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。

指先が小刻みに震えている。

さっきまでの怒りは完全に消えていた。

残っているのは――
どうしていいかわからない焦りと、不安。

「……すみません」

小さく呟く。

そして、ゆっくりと話し始めた。

「父親が……亡くなって」

空気が静かに変わる。

愛華も和春も何も言わずに聞く。

「急に……病気で……」

言葉を選びながら続ける。

「それで……借金があるって分かって……」

手が強く握られる。

「母親も……」

少し詰まる。

「今、入院してて……ほとんど動けなくて……」

愛華の目がわずかに柔らかくなる。

学生は続ける。

「俺しか動ける人いなくて……」

声が震える。

「だから……早くなんとかしないとって……」

テーブルの上のポケットティッシュを見つめる。

「この不動産に電話して……」

完全に。追い詰められていた。



■和春の指摘

和春が静かに口を開く。

「焦る理由は分かる」

学生が顔を上げる。

その一言で、少しだけ救われたような表情になる。

だが次の言葉は、現実だった。

「でもな、そのまま進むと終わる」

学生の呼吸が止まる。

和春は淡々と続ける。

「名義は父親だろ」

「相続終わってない」

「その状態で売却はできない」

学生が目を見開く。

「え……?」

愛華が優しく補足する。

「本来は相続手続きが先です。その後に売却を検討します」

和春が言う。

「順番が逆でしかも急がせてる。完全にカモにされてるな」

学生の顔が青くなる。

「……そんなこと言われてないです」

愛華が静かに言う。

「当然です。言えば契約になりませんから」



■状況整理

愛華がタブレットを開く。

「今の状況を整理しますね」

指で項目を並べる。

・父親死亡
・借金あり
・母親入院で動けない
・相続未完了
・学生のみ対応

そして静かに言う。

「この状態は非常に危険です」

少し間。

「だからこそ冷静に順番を整えないといけません」

学生は何度も頷く。

もう怒りはない。

理解と恐怖に変わっていた。



■和春の行動

和春はスマホを取り出す。

愛華が横目で見る。

(……やっぱり)

和春が電話をかける。

「俺だ」

短い会話。

「相続絡みの不動産今すぐ来れるか?」

それだけで切る。

学生が驚く。

「え……?」

和春が言う。

「まともな不動産の社長呼んだ」

「話が早いだろ」

愛華が少しだけ息を吐く。

(やっぱり踏み込みましたね)

和春は普段ここまでやらない。

だが今回は違う。

愛華が静かに言う。

「……和春、今回は珍しいですね」

和春は一言。

「母親動けないだろ」

それだけだった。

愛華は少しだけ微笑む。

(理由、それだけですか)

でも分かる。

だから――動いた。



■学生の変化

学生はしばらく黙っていた。

そして小さく言う。

「……俺、本当に危なかったんですね」

和春が言う。

「ああ、かなりな」

愛華が優しく続ける。

「でも、今止まれました。それが一番大きいです」

学生の肩の力が抜ける。

さっきまでの焦りが、少しだけ消えていた。

代わりに残ったのは――

考える余裕。

その時。

喫茶店の扉が開く。

ゆっくりと一人の男が入ってくる。

スーツ姿。

落ち着いた歩き方。

和春が言う。

「来たな」

――
本物のプロが現れた。

■喫茶店 ― 不動正義 登場

喫茶店の扉が開く。

軽くベルが鳴った。

カラン、と乾いた音。

店内の落ち着いた空気の中で、その音だけが少し浮く。

一人の男が入ってくる。

スーツ姿。

無駄のない歩き方。

年齢は四十前後。

表情は軽いが、目だけは鋭い。

不動産会社 社長 ― 不動正義。

店内を一瞬で見渡す。

そして、和春の姿を見つけると、少し肩をすくめながら歩いてきた。

「おい」

席に着くなり言った。

「和春!俺を簡単に呼び出すなよー」

軽い口調。

だが声は通る。

「社長業忙しいんだぞ」

周囲の客が少しだけ視線を向ける。

だがすぐに興味を失う。

この空間では、彼もまた“普通の客”に見える。

和春はコーヒーを飲みながら言った。

「忙しい割に早かったな」

視線すら向けない。

そのまま続ける。

「優秀な秘書もさぞ泣いてるだろうよ」

一拍。

「サボり魔が」

不動が一瞬固まる。

そしてすぐに笑った。

「はっ!相変わらず口が悪いな」

椅子に腰を下ろしながら言う。

「秘書は優秀だ。だから俺がいなくても回る」

愛華が横で小さく頭を下げる。

「お久しぶりです、不動社長」

不動が軽く手を上げる。

「愛華ちゃんか相変わらずメイド服だな」

ちらっと見て笑う。

「この店で一番目立ってるぞ」

愛華は動じない。

「ありがとうございます」

いつも通りの対応。

不動はその様子を見て、少しだけ楽しそうに笑った。

「で?今回は何だ?電話で“相続絡み”って聞いたが」

和春が顎で学生を示す。

「こいつ」

不動の視線が学生に移る。

その瞬間。

空気が変わる。

軽さが消える。

完全にプロの目になった。

学生が思わず背筋を伸ばす。

不動は一言。

「……なるほどな」

そして椅子に深く座る。

「顔見りゃ分かる。詰んでる一歩手前だな」

学生の顔が強張る。

和春が言う。

「説明してやれ」

不動は頷く。

「いいだろ」

テーブルに肘をつく。

そして学生を見る。

「まず」

低い声。

だが分かりやすい。

「お前どこの不動産に電話した?」

学生が震える手でポケットティッシュを差し出す。

不動がそれを見る。

そして――

笑った。

「はは……よりによってそこか」

軽く紙をテーブルに置く。

「完全にハズレ引いたな」

学生が小さく言う。

「……やっぱり」

不動は頷く。

「任意売却専門を名乗ってる業者の中でもここは特にエグい」

空気が重くなる。

不動が続ける。

「相場の6〜7割で買う」

「手数料もしっかり抜く」

「説明は最低限急がせて契約させる」

学生の顔が青くなる。

愛華が静かに言う。

「典型的なパターンですね」

不動が頷く。

「そう」

そして学生をまっすぐ見る。

「で、お前、今からどうするつもりだった?」

学生は言葉に詰まる。

「……売るしかないって思ってました」

不動が首を横に振る。

「違う」

はっきり言う。

「順番が違う」

和春が小さく笑う。

「さっきも言った」

不動が続ける。

「まず相続」

「その次に売却」

「これ以外ない」

そして少し前に身を乗り出す。

「安心しろまだ間に合う」

その一言で。

学生の顔が変わった。

絶望ではなく――

希望に変わる瞬間だった。


■喫茶店 ― 決断

店内の空気は、さっきまでとは明らかに違っていた。

焦りで歪んでいた学生の表情は、
今は“現実を理解し始めた顔”に変わっている。

だが――まだ迷いは残っていた。

不動正義はその表情を見て、小さく息を吐いた。

そして椅子に深く座り直す。

「……よし」

一言。

「俺が面倒見る」

学生が顔を上げる。

「え……?」

不動は続ける。

「相続、売却、全部だ」

テーブルを指で軽く叩く。

「書類も段取りも、債権者との交渉も、全部やる」

学生の目が揺れる。

理解が追いつかない。

「そこまで……いいんですか?」

その言葉は、半分は疑い。

半分は――

信じたい気持ちだった。

不動は笑った。

軽く。

だがその目は真剣だった。

「勘違いするな」

少し前に身を乗り出す。

「慈善事業じゃない」

はっきり言い切る。

「これは仕事だ」

学生が息を飲む。

不動は続ける。

「当然」

「手数料も仲介料ももらう」

「うちもちゃんと儲ける」

その言葉に嘘はない。

だからこそ、逆に信頼できた。

そして一拍置いて。

声のトーンが少しだけ変わる。

「だがな」

学生の目をまっすぐ見る。

「お前を不幸にする売り方はしない」

静かだった。

だが、その言葉は重かった。

「ちゃんとやり直せるレベルで面倒見てやる」

学生の喉が鳴る。

言葉が出ない。

不動は軽く笑った。

「お前運いいぞ」

和春の方へ親指で指す。

「こんなやつに止められて俺まで呼ばれてるんだからな」

和春はコーヒーを飲みながら言う。

「秘書泣かせの暇人だろ」

不動が笑う。

「うるせぇ」

そして学生を見る。

「普通ならもう契約して詰んでる。そこをギリギリで止まった」

少し間。

「だからまだやり直せる」

学生の目に、うっすら涙が浮かぶ。

「……ありがとうございます」

小さく頭を下げる。

さっきまでの焦りとは違う。

救われた人間の声だった。

愛華が静かに言う。

「ではまずは現状の整理からですね」

不動が頷く。

「ああ、一つずつやる」

和春は何も言わない。

ただコーヒーを飲みながら、その様子を見ている。

愛華がちらっと和春を見る。

(……やっぱり)

ほんの少しだけ、優しい。

そう思いながら。

この小さな喫茶店で――

一人の人生が、ちゃんと立て直され始めていた。

■喫茶店 ― 別れ

席を立つタイミングは、自然だった。

和春は最後にコーヒーを飲み干し、カップをテーブルに置く。

「じゃあ、あとは任せた」

それだけ言って立ち上がる。

不動が軽く手を上げる。

「おう、最初からそのつもりだ」

愛華も立ち上がり、学生に向かって一礼する。

「もう大丈夫です。焦らず、一つずつ進めてください」

学生はすぐに立ち上がった。

椅子が少し音を立てる。

「……あのっ」

言葉が詰まる。

何を言えばいいのか分からない。

だが――

伝えたいことだけははっきりしていた。

深く頭を下げる。

「ありがとうございました!」

声は震えていた。

だがさっきまでの不安とは違う。

ちゃんと前を向いた声だった。

和春は振り返らない。

「気を抜くなよ」

一言だけ残す。

愛華は少しだけ微笑む。

「また何かあれば無理はしないでください」

そのまま二人は店を出ていった。

扉が閉まる。

カラン、と音が鳴る。

そして静寂が戻る。



■喫茶店 ― その後

席に残ったのは、不動と学生。

空気はさっきよりずっと落ち着いている。

だが、学生の頭の中はまだ整理しきれていなかった。

しばらく沈黙。

そしてぽつりと呟く。

「……あの人たち」

視線は扉の方へ。

「何者なんですか」

不動がコーヒーを一口飲む。

少し考えて――

笑った。

「何者って言われると難しいな」

一拍置いて。

あっさり言った。

「化け物だよ」

学生が固まる。

「え……?」

不動は続ける。

「知識量が異常、法律、経営、不動産、全部理解してる」

指を軽く鳴らす。

「しかも記憶力がバグってる」

学生は言葉を失う。

不動は肩をすくめる。

「歩く専門書って呼ばれてる」

少し真面目な顔になる。

「あいつはなどの分野でも、そこらの専門家に負けない。全部トップクラス」

静かに言い切る。

「腹立つくらい優秀だ」

学生は呆然としていた。

「……そんな人がなんで俺なんかに」

不動がすぐ言う。

「たまたまだ」

そして少しだけ笑う。

「だから言ったろ運がいいって」

学生はテーブルを見つめる。

握りしめた手。

震えはもうない。

代わりにあるのは――

決意に近い何か。

不動が軽く手を叩く。

「ほら、現実に戻るぞ!やること山ほどある」

資料を広げる。

「まずは相続からだ」

学生は大きく頷いた。

「はい!」

その声はもう、さっきの自分とは違っていた。

喫茶店の一角で――

一つの人生が、確実に立て直され始めていた。



■数ヶ月後 ― 小さな後日談

季節が少し変わった頃。

神代家のリビングには、いつも通り静かな時間が流れていた。

テーブルの上にはノートPC。
愛華はスケジュールと口座の入出金を淡々と確認している。

数字の列を追っていたそのとき――

「……」

一瞬だけ、指が止まった。

画面を見直す。

もう一度確認する。

「和春」

少しだけトーンが変わる。

和春はソファで本を読んでいる。

「ん?」

顔も上げずに返事。

愛華はタブレットを少しだけ持ち上げた。

「入金があります」

和春はページをめくりながら言う。

「いつものだろ」

愛華は首を横に振る。

「いえ」

少し間を置く。

「不動社長からです」

和春の手が、ほんの一瞬だけ止まる。

だがすぐに動いた。

「……ああ」

思い出したような声。

愛華は続ける。

「名目は」

「紹介手数料」

金額を見て、ほんのわずかに眉が動く。

「それなりの額です」

和春は本を閉じない。

「そうか」

興味がないような反応。

愛華が小さく息を吐く。

「例の学生ですね」

和春は短く答える。

「だろうな」

愛華は画面を閉じる。

「無事に終わったようですね」

少しだけ柔らかい声だった。

和春は本をめくりながら言う。

「ならいい」

それ以上は何も言わない。

愛華は少しだけ微笑む。

「和春、良かったですね」

和春は一言。

「別に」

だが――

その声はどこか、ほんの少しだけ軽かった。

リビングにはまた静かな時間が戻る。

誰も大げさに喜ばない。

誰も語らない。

だが確かに――

あの時の選択が、ちゃんと結果に繋がっていた。

そしてそれは。

ほんの小さな後日談。