ずっと、いっしょ。

夕陽が、稲の向こうに沈みかけている。
空が白く、色を失っていく。
キョウは手帳を開いたまま、震える指で最後の一文をなぞる。
二つの座標を、同一点に重ねよ
呼び名を与え、固定せよ
呼び名。
名前。
それが鍵だ。
キョウの喉が鳴る。
目の前に立つタツキは、静かだ。
風の中で、微動だにしない。
影は、ほとんど地に落ちていない。
条件は揃っている。

「……いくよ」

声が掠れる。
返事はない。
ただ、見ている。
澄んだ目。
迷いのない目。
それが、急に怖くなる。
キョウは息を吸い込み、言葉を発する。

「座標を、重ねる」

風が止まる。
音が消える。
耳鳴りのような振動。
空気が圧縮される。
視界が、ゆっくり歪む。
タツキの身体が、びくりと震える。

「っ……!」

初めて、はっきりと苦しむ。
膝が折れそうになる。
肩が揺れる。
目が見開かれる。
その目が、キョウを見る。
一瞬だけ。
迷いが走る。
揺れる。
混ざる。
キョウの胸が締めつけられる。

「大丈夫……?」

無意味な問い。
儀式を始めたのは、自分だ。
今さら。
タツキの呼吸が荒い。
額に汗が滲む。

「っ……やめ」

かすれた声。
どちらの声だ。
判断できない。
低くもなく、高くもない。
二重に重なっている。
キョウの頭の中に、祖母の言葉がよぎる。
固定は安定へ収束する
安定。
目の前のこれは、不安定だ。
激しく、ぶつかっている。
内部で何かが削れ合っている。
タツキが両手で頭を押さえる。
指が震えている。
苦痛が、露骨だ。
今まで見たことのない表情。
恐怖が混じっている。
それを見た瞬間。
キョウの中に、不安が膨れ上がる。
——間違えた?
本当にこれでよかったのか?
「呼び名を与えよ」
手帳の文字が、視界の端で揺れる。
名前を呼ばなければならない。
どちらを。
どちらの名を。
キョウの口が、開く。

「タツ——」

その瞬間。
タツキの身体が大きく反り返る。
喉から、抑えきれない声が漏れる。
痛み。
怒り。
恐怖。
全部が混ざっている。

「やめろ……!」

叫び。
はっきりとした声。
その響きに、キョウの心臓が止まりそうになる。
本物か?
それとも。
風が爆ぜる。
稲が一斉に揺れる。
白いものが、視界の奥で揺らめく。
くねくねと。
待っている。
選択を。
キョウの足がすくむ。
こんなに苦しむはずじゃなかった。
もっと静かに、重なるはずだった。
理論通りに、整うはずだった。
なのに。
これは、衝突だ。
殺し合いに近い。
タツキが、キョウの腕を掴む。
強い。
さっきまでとは違う。
必死だ。

「……キョウ」

声が震える。
その目に、涙が滲んでいる。
初めて見る。
こんな、壊れそうな顔。
不安が、決定的なものに変わる。
これを固定したら。
本当に。
本当に戻るのか?
それとも。
壊れるのか?
手帳が、風に煽られてめくれる。
最後の行。
固定は不可逆
不可逆。
戻らない。
キョウの指が震える。
名前を呼ぶだけで、終わる。
でも。
今、目の前で苦しんでいる存在を見て。
胸が、拒否する。
遅い。
もう発動している。
止めるなら、今。
でも止めたら。
曖昧のままだ。
どちらも削れ続ける。
風が唸る。
白い影が、近づく。
待っている。
キョウの選択を。